以前から、個人的に関心を持っている「継体天皇」について。
この本を、読了。
この本、継体天皇に関する様々なことが網羅されている印象で、内容は、なかなか、難しい。
その中から、個人的に関心を持っている「皇位継承」について、簡単に。
継体天皇は、応神天皇五世の孫で、507年、北陸から迎えられて、大王(天皇)となります。
当時、57歳。
しかし、継体天皇が、大王(天皇)の位についた経緯には、大きな謎があり、一説には、前の王朝を倒し、即位をしたのではないかとも言われています。
さて、実際のところは、どうだったのでしょう。
まず、継体天皇の登場以前、5世紀の大和政権は、どのようなものだったのか。
権力者の墓と考えられる前方後円墳が、日本全国に広まったことで、大和政権は、一応、日本全国に影響力を持っていたと思われる。
しかし、どうも、大和の王権は、強権的に、また、武力によって、他の地域の豪族たちを支配下に置いていた訳ではないようですね。
大和の王権と、その他、地域の豪族たちは、緩やかな連合の中にあったようです。
継体天皇が登場する豪族も、北陸方面に影響力を持っていて、恐らく、即位以前から、継体天皇は、大和の王権と繋がりを持ち、大和にも来ていたはず。
そして、当時、大王(天皇)は、血統によって受け継がれる地位ではなく、有力豪族の中から、最も、適任と思われる人物が、大王(天皇)となっていた。
継体天皇が即位をする直前、古墳の築造の状況から、古市古墳群、百舌古墳群を築造した豪族が、交代で、大王(天皇)を出していたと考えられる。
しかし、何らかの理由で、古市古墳群、百舌古墳群の豪族の中に、次ぎの大王(天皇)の適任者を見つけることが出来なかった。
そこで、北陸の豪族である継体天皇が、大王(天皇)として、大和に迎え入れられることになったものと思われます。
しかし、継体天皇は、大和に、大王(天皇)として迎えられたものの、直接、大和に向かった訳ではない。
継体天皇は、約20年、大和に入らなかった訳で、この経緯から、大和に、継体天皇の即位に反対をする勢力が居たということが想像され、この状況が、継体天皇による大王(天皇)位の簒奪が想像される訳ですが、この辺りの経緯は、よく分からないところ。
しかし、この本では、継体天皇が、大和に入る以前に、大和の豪族から、妻を迎えていること、そして、その子が、皇位を継いでいることなどから、大和の中に、反対勢力が居た、また、継体天皇が、武力によって、先の王権を倒して、大王(天皇)となった可能性は、低いと考えられるようです。
ちなみに、「日本書紀」は、中国の史書などを元に書かれていて、その内容は、あまり、信用の出来るものではないようですね。
継体天皇の即位に関しては、中国、漢帝国の第二代皇帝である文帝をモデルに書かれているそうで、どこまでが真実なのか、疑問がある。
古代の日本のことを記した「日本書紀」と「古事記」ですが、内容に、違いがあるのが、個人的に、疑問だった。
この本によれば、「日本書紀」「古事記」共に、現在では、失われている同じ史料を元に、編纂されたと考えられるようです。
しかし、「日本書紀」は、中国に見せることを想定して書かれているようで、中国の書物から引用された文章や、参考にされた内容がかなり多く、意図的に、創作されたと思われる部分も多いよう。
そのため、「古事記」の方が、古い史料に、近い状態で、編纂されているのではないかと思われるということ。
ちなみに、「日本書紀」では、継体天皇は、北陸から、大和に入ることになる訳ですが、「古事記」では、近江から、大和に入ったということになる。
どちらが、事実なのかということは、もちろん、今となっては、分からない。
そして、継体天皇が、即位をする訳ですが、この継体天皇が、その後の天皇制にとって、画期となったのは、事実。
この継体天皇によって、今に繋がる日本の天皇制が、始まることになる。
継体天皇以前、大王(天皇)の位は、血縁による世襲ではなかった訳ですが、この継体天皇以降、大王(天皇)の位は、血縁による世襲となる。
これは、なぜなのか。
この継体天皇の時代、「大兄制」と言われる制度が、設置されたそうです。
この「大兄」とは、大王(天皇)の長子を指す言葉だったそうですが、この大兄に、特別な権限を与え、王族の有力年長者が、王族を統括して、大王(天皇)を支える制度となる。
これが、「大兄制」です。
この「大兄」となった人物は、即位以前に、豪族の中で、大きな力を持ち、経験を積む訳で、この「大兄」が、次ぎの大王(天皇)の適任者となるのは、自然な流れ。
ここから、大王(天皇)の位の世襲が始まることになる。
さて、少し、余談。
今の岡山県に存在する巨大古墳「造山古墳」。
当時、そこには、「吉備」という、大きな勢力が存在した。
もし、上の本の通り、継体天皇以前、大王(天皇)の位は、血縁による継承ではなく、有力豪族の中から、適任者が選ばれたのだとしたら、5世紀前半に築造されたと思われる、この「造山古墳」は、やはり、吉備国出身の大王(天皇)の墓ではないか。
と、個人的には、思うところですが。
