雑誌「歴史街道」の今月号。

特集は、「日本戦車隊の激闘」です。

 

 

個人的に、「戦車」というものには、あまり関心がなく、第二次世界大戦で使われた戦車など、何が、どうなっているのか、どうも、よく分からない。

ただ、日本の戦車が、他の国の戦車に比べて、かなり性能の劣る、弱いものだったという認識は、ある。

なぜ、そのようなことになっていたのでしょう。

 

第一次世界大戦で、初めて登場したという「戦車」という兵器。

当時、最先端の戦車を開発していたのはイギリスで、大正7年(1918)、日本は、当時、同盟国であったイギリスから、「MkⅣ」という戦車を購入。

 

MKⅣ。

 

翌年には、また、イギリスから、「ホイベットA型」、そして、フランスから「ルノーFT17」を購入している。

 

ホイベットA。

 

ルノーFT17。

 

この「ルノーFT17」は、イギリスの戦車と比べると、小型、安価で、回転砲塔を持ち、乗員は二人と、少ない人数で扱えた。

 

大正14年(1925)、日本軍の中に、戦車隊が、創設される。

九州、久留米の第一戦車隊と、千葉の歩兵学校教導隊の二部隊。

ここに、「ホイベットA型」三輛と、「ルノーFT17」五輛が、配置された。

 

この頃、日本陸軍は、戦車隊は、軽戦車大隊3個。重戦車大隊1個の編成を予定し、少なくとも、軽戦車、190輛。重戦車30輛が必要とされた。

しかし、この頃、日本にあった戦車は、16輛。

当初、陸軍省は、外国から戦車を買い入れる予定でしたが、陸軍省の技術本部車両班は、戦車の国産化を主張する。

 

昭和2年(1927)、国産初の戦車の試作車が完成。

この時、参考にされたのが、イギリスの「ヴィッカースC型中戦車」。

 

ヴィッカースC型。

 

当時、戦争直後の資金難などで、諸外国では、「豆戦車」と呼ばれる小型戦車を量産することが流行していたということ。

そして、その反動として、大きくて、攻撃力の高い「ヴィッカースC型中戦車」が、開発されていた。

 

この「ヴィッカースC型中戦車」の登場で、これより小さい戦車が、「軽戦車」と呼ばれることになる。

そして、「ヴィッカースC型中戦車」よりも大きく、攻撃力、防御力の高い「重戦車」も開発されることになる。

 

日本で開発された試作第一号の戦車は、ルノーよりも大きく、乗員は5名。重量は、約18トン。最大速度、20キロメートル。57ミリ砲と、7.7ミリ機銃を搭載。

しかし、この試作第一号戦車は、重すぎるということで、正式採用されなかった。

これは、当時、戦場と想定されていた中国大陸が、道路は未発達で、雨季や乾季があり、重い戦車は、輸送面や、機動力で不利と見做されたため。

 

その後も、試作は続き、昭和4年(1929)、「89式軽戦車」が、正式採用される。

重量、約9.8トン。最大速度、26キロ。乗員、3名。

 

89式。

 

昭和6年(1931)9月に始まった「満州事変」で、日本陸軍戦車隊は、初陣となる。

同年12月、「ルノーFT」「ルノーNC」で構成された、一個小隊の戦車が、満州に送られる。

現地で、装甲自動車を加えた臨時派遣戦車第一中隊が編成され、作戦に参加。

その後、この第一中隊は、戦車を「89式軽戦車」に換装。

昭和8年(1933)3月、89式軽戦車、11輛。92式重装甲車、2輛、その他、支援車両で編成された四個小隊となる。

 

昭和7年(1932)1月に勃発した「第一次上海事変」でも、独立戦車第二中隊が活躍。

 

この頃、戦車の役割は、歩兵の援護が中心。

歩兵と共に侵攻し、その弾よけとしての役割が大きかった。

 

この頃、中国軍は、戦車を持っていなかった。

ドイツから輸入した対戦車砲を使用していたが、日本軍戦車隊の攻撃を防ぐことは出来なかった。

 

昭和12年(1937)、日中戦争が始まると、中国軍も、戦車を外国から購入しますが、やはり、日本軍に対抗することは出来なかった。

 

この「満州事変」から「日中戦争」に居たるまで、日本軍の戦車隊は、中国軍を圧倒した。

しかし、そのために、日本軍は、戦車隊の戦力は、このままで十分と判断し、新型戦車の開発に力を入れなくなってしまう。

もっとも、何もしていなかった訳ではなく、89式軽戦車のエンジンを、水冷ガソリンエンジンから、空冷ディーゼルエンジンに変更。

昭和10年(1935)、95式軽戦車を開発。

 

95式。

 

昭和12年(1937)、97式中戦車を開発。

 

97式。

 

95式軽戦車は、重量、約7.4トン。装甲は薄いが、89式に比べて、機動力、速度は、二倍に上昇。

97式中戦車は、重量、約15トン。57ミリの短砲身を搭載。攻撃力を上昇させた戦車となる。

ちなみに、89式軽戦車は、昭和9年(1934)、改修により、重量が11.5トンとなり、89式中戦車と名称を変更。

 

そして、これらの戦車を擁した日本陸軍は、昭和14年(1939)、「ノモンハン事件」で、初めて、本格的な戦車戦を経験する。

しかし、日本軍の戦車隊は、ソ連軍の戦車隊を相手に、大敗。

97式中戦車の攻撃力も、ソ連軍の戦車の装甲には、あまり、役に立たなかった。

 

戦術面でも、日本軍は、戦車が、従来の通り、歩兵と行動を共にしていたのに比べて、ソ連軍では、戦車は、装甲車、重砲、航空機、と連携した機械化部隊で構成され、日本軍を圧倒する。

 

この「ノモンハン事件」で、日本軍の戦車隊の問題点が、浮き彫りとなった訳ですが、陸軍上層部は、この「ノモンハン事件」での苦戦を隠蔽し、戦力の増強も考えなかった。

 

そして、そのまま、第二次世界大戦、太平洋戦争に突入することになる。

 

太平洋戦争で日本軍の主力となった97式中戦車、95式軽戦車は、もはや、時代遅れ。

イギリス、ドイツ、アメリカ、ソ連の戦車に、大きな遅れを取ることになる。

 

しかし、力で劣る戦車を使用した戦車隊は、作戦面で、色々と、工夫をして、戦闘をしていたようですね。

しかし、力の差は、いかんともしがたい。

 

ちなみに、こちらは、「一式中戦車」。

 

 

昭和17年(1942)に完成。

しかし、量産は、昭和19年(1944)からとなり、本土決戦用に温存され、実戦経験は無かった。

生産台数、170輛。

もっとも、アメリカの戦車の性能には及ばない。

 

そして、「三式中戦車」。

 

 

アメリカの「M4中戦車」に対抗するために、極秘に、開発されたもの。

昭和19年(1944)、量産開始。

生産台数、60輛(または、150輛)

こちらも、本土決戦用に配備され、実戦経験はなし。

 

昔、読んだ本では、日本軍が、いわゆる「重戦車」、戦車戦を想定した、強力な大型の戦車の開発を行わなかったのは、そもそも、「輸送手段が無い」というのが理由だったと書かれていたのを、見た記憶があります。

戦車は、戦場まで、ずっと、自走をする訳ではない訳で、トラック、または、列車に乗せて、運搬をすることになるのでしょうが、そもそも、重戦車を乗せるような大型のトラックや、列車を、日本は作れなかったという話。

果たして、事実なのでしょうかね。