さて、また、この本から。
豊臣秀吉の子供たちについて。
その前に、秀吉の妻たちの呼称についての話があったので、そちらを。
普通、秀吉の妻と言えば、正妻である「ねね」と、側室の「淀君」、その他の側室の女性たち、と、言われますが、現在、この考えは、間違いだと言われているようです。
当時の史料からは、「正妻」「側室」と言った表現は、確認出来ず、全てが、秀吉の「妻」ということで、つまり、当時は、「一夫多妻制」だったというのが、今の考えのようです。
淀君が、史料に、最初に登場するのは、天正17年(1589)、相国寺鹿苑院の日記「鹿苑日録」の五月二十八日条に「関白殿淀の御上、江州浅井息女、若公誕生」とあるもの。
ちなみに、淀君が、鶴松を生んだのは、この前日のこと。
この鶴松誕生は、「言経卿記」「御湯殿上日記」「多門院日記」などにも記録されていて、「淀の御女房衆」などと記され、全てに「淀」の地名があるのは、当時、淀君が、淀に居て、そこで、鶴松を生んだからと考えられる。
ちなみに、同時代史料からは、「淀殿」と言った表現は、確認出来ないようです。
8月、鶴松は、大坂城に移動し、淀君も一緒だったと思われる。
天正19年(1591)1月、史料に「大坂殿」という呼び方が見られ、これは、淀君を指すと思われる。この呼び方は、天正18年(1590)7月以降に、使われるようになったと思われるということ。
鶴松は、天正19年(1591)8月5日、淀で亡くなる。享年3歳。この時、淀君もまた、淀に居たと思われる。
文禄2年(1593)5月22日、秀吉が、肥前名護屋城から、北政所に送った書状には、「二之丸殿身持」と書かれていて、淀君が「二之丸殿」と呼ばれていたことが分かる。
これは、淀君が、大坂城二の丸を住居にしていたためと思われる。
淀君は、文禄2年(1593)8月3日、大坂で秀頼を生む。
文禄3年(1594)12月頃までに、秀頼は、伏見城に移動。
文禄4年(1595)9月までには、淀君も、伏見城に移ったと思われる。
慶長2年(1597)の秀吉の書状には、「西丸」とあり、これは、淀君が、伏見城の西の丸に住んでいたためと思われる。
ちなみに、秀吉には、北政所、淀君の他に、もう一人、有名な妻が居た。
それは、京極氏の女性で、「竜子」と呼ばれる人物。
文禄3年(1594)1月、「駒井日記」に、「大坂西之丸御殿」に「京極御上様」が移ると記されているのが、最初の史料の登場となる。
この頃、大坂城の本丸に、北政所、二の丸に、淀君、西の丸に、竜子が居たと思われ。
竜子は、最初の夫は、若狭国の守護、武田元明であったと伝わり、「本能寺の変」で、この武田元明は、明智光秀に味方をし、謀殺される。
竜子が、秀吉の妻になったのは、その後のこと。
この竜子は、「松の丸殿」と呼ばれたことが知られている。
これは、竜子が、伏見城の「松之丸」を住居にしていたためと考えられる。
北政所、淀君、竜子という、三人の秀吉の妻たち。
淀君に関しては、その住居の場所によって、呼び方が、色々と、変化をしていることが、よく分かる。
また、竜子については、当初、名門「京極」の名字の方が有名で、住居の場所による呼称が定着するのは、かなり後になってのこと。
また、北政所については、住居の場所によって、呼称が、変わる訳ではない。
やはり、個人的な印象としては、「正妻」「側室」の区別が、当時、無かったとしても、秀吉にとって、または、周囲の人たちにとって、北政所は、他の妻たちとは違う、特別な存在と考えられていたのではないか、と、言う印象です。
さて、豊臣秀吉の子供たちについて。
まずは、実子と言われる、鶴松、秀頼について。
秀吉が、子供を作ることが出来ないという噂は、当時から、あったようです。
長男の鶴松が生まれた時に、宣教師のルイス・フロイスは、「秀吉は、子供を作ることが出来ないので、鶴松が、実子ではないという話を、誰もが、信じていた」と、書き残しているそうです。
鶴松と秀頼が、秀吉の実の子供ではないということは、妊娠が想定される時、秀吉と淀君が、別の場所に居るとなると、確実になる。
淀君が、鶴松を妊娠したと思われるのは、天正16年(1588)8月27日頃。
この頃、秀吉は、京都、大坂の辺りに居たと思われる。
淀君もまた、同じ。
そして、淀君が、秀頼を妊娠したと思われるのは、文禄元年(1592)11月4日頃。
この頃、秀吉は、肥前名護屋城に居た。
この時、淀君もまた、名古屋城に居たそうで、秀頼の子供を妊娠したと考えても、不思議ではない。
もう一人、秀吉の実子の可能世があるのが、「石松丸」という人物。
こちらは、「竹生島奉加帳」の天正4年5月に、記述が見られる。
この時、秀吉と、その家族が、竹生島の堂社復興のために寄進をした金品の記録があり、「御内方」(妻、ねね)、「大方殿」(母、なか)、らと共に、「石松丸」と、名前があり、この名前の下に「御ちの人」(授乳をする人)とあり、石松丸は、乳児だったと思われる。
さて、この三人の子供は、本当に、秀吉の実子なのか。
個人的には、やはり、秀吉の実子とは、思えないところ。
実は、当初、秀吉は、淀君が、秀頼を妊娠した時に、「この子は、淀君の子ということで良い」と、書状に書いているそうです。
つまり、自分の子として認知をするということは無いという認識だったよう。
これが、何を意味しているのか。
上の本には、生まれる子共が、男の子と確定している訳ではないので、書状には、そう書いたのだろうと書かれていましたが、個人的には、もしかすると、淀君の妊娠した子共が、自分の子供ではないという意識もあったのではないかと思うところ。
しかし、当然、秀頼が生まれたからは、秀吉は、実子として育てることになる。
そして、秀吉の養子たちについて。
まずは、「於次秀勝」について。
この「秀勝」という名前は、秀吉の子共に、度々、登場する。
長浜時代の石松丸も、後に「秀勝」と名乗ったようで、秀吉には、この「秀勝」という名前に、思い入れがあったのかと思われる。
一説には、丹羽長秀の「秀」と、柴田勝家の「勝」から取ったのでは、と、言われるようですが、個人的には、それは、考えすぎかとも思うところ。
この秀勝は、織田信長の四男、または、五男。永禄11年(1568)に生まれる。
天正5年(1577)から天正6年(1578)頃、秀吉の養子になったと言われる。
秀勝が発給する文書が、最初に確認されるのは、天正8年(1580)3月、少なくとも、これ以前には、秀勝は、秀吉の養子となっていた。
実は、秀吉は、天正3年(1575)6月頃から称していた「筑前守」という官途を止め、天正6年(1578)11月から、「藤吉郎」の名乗りに戻している。
この頃、秀吉は、播磨攻略に手こずっていて、失脚の危機にあったと考えられているようで、恐らく、信長の子供を養子にしたのは、保身のため。
天正9年(1581)7月頃、秀吉は、また「筑前守」を名乗るようになり、失脚は、免れたことになる。
これは、もちろん、於次秀勝を養子にしただけでなく、播磨の攻略が軌道に乗ったことも大きいのでしょう。
この頃、秀吉が、失脚の危機にあったというのは、個人的に、初めて、知ったこと。
実際、当初、北陸方面を任されたのは、梁田広正で、これは、攻略が上手く行かず、柴田勝家に交代させられる。
また、近畿方面の司令官となった塙直政は、石山本願寺攻略の中、戦死によって、佐久間信盛に交代。
そして、石山本願寺攻略後、突如、佐久間信盛は、追放され、明智光秀が司令官となる訳で、羽柴秀吉が、播磨の攻略に手間取り、交代させられる可能性は、十分にあったこと
天正9年(1581)2月以降、秀勝は、長浜領の統治に関して、単独に、文書を発給している。
そして、「なかはま衆」を呼ばれる独自の家臣団を形成して行く。
天正10年(1582)3月、秀勝は、「なかはま衆」と共に、武田攻めに出陣。
天正10(1582)6月、「本能寺の変」の後、清洲会議の結果、長浜は柴田勝家の領地となり、秀勝は、丹波亀山に移封。
10月、秀吉が主導をした織田信長の葬儀に参加。
秀吉は、この葬儀の直後、織田信孝あての書状で、「秀勝は、養子なので、主君にするつもりはない」と書いている。
天正11年(1583)の柴田勝家、織田信孝らとの一連の戦いには、病気がちで、参加をしなかったと思われる。
天正12年(1584)の織田信雄、徳川家康との戦いでは、秀吉の指示による、各地に出陣。
しかし、この頃、秀勝の家臣団は、秀吉の統制下にあったと思われる。
天正13年(1585)1月、毛利輝元の養女と結婚。
これは、秀吉の側から、申し入れたもの。
しかし、この頃、秀勝の病状が悪化。
12月10日、秀勝、没、享年、18歳。
次ぎは、小早川秀秋について。
秀秋は、秀吉の妻、ねねの兄、木下家定の子供。
天正10年(1582)の生まれと考えられる。
天正13年(1585)閏8月の、ねねにあてた書状に、養女の「五もじ」(前田利家の娘、豪)と、「きん五」(秀秋)の名前があり、これ以前、秀吉の養子になったと思われる。
この頃から、すでに、秀秋は、秀吉の後継者と位置づけられていた。
しかし、天正17年(1589)5月27日、秀吉の実子、鶴松が生まれる。
天正19年(1591)1月頃、秀秋は、秀吉の後継者の地位を外され、丹波亀山に入り、一大名として扱われる。
しかし、10月には、参議、翌年1月には、権中納言に任官。
この頃には、豊臣姓を貰い、豊臣家の一門大名として、政権中枢に居ることを期待されていた。
しかし、文禄2年(1593)8月3日、秀頼が誕生。
秀秋は、秀吉の養子から外される。
文禄3年(1594)、毛利輝元の養女と結婚し、小早川隆景の養子となる。
さて、豊臣秀次と、その弟、小吉秀勝について。
秀次と、秀勝の二人は、秀吉の姉、ともの子供。
この二人は、秀吉の養子となったと言われていましたが、その証拠となる確かな史料が無いので、それは、否定されるようですが、秀次の場合は、「猶子」となったという記録もあるようで、恐らく、秀吉は、秀次を、自分の子供として扱っていたと思われる。
秀次の生年は、よく分からないようです。
小吉秀勝の生年は、永禄12年(1569)。
そして、秀次は、秀吉の後継者として、関白職を譲られる訳ですが、悲劇的な結末を迎えることになる。
文禄4年(1595)7月7日頃、豊臣秀次は、秀吉との対立の末、高野山に向かう。
秀吉は、7月12日付けの書状で、秀次を高野山で幽閉する指示を出しますが、15日、秀次は、切腹。
この前後には、秀次の家臣たちが粛正される。
8月2日、秀次の妻子や、女房たち、30数名が、京都の三条河原で、惨殺される。
どうも、秀次が、高野山に向かったこと、そして、秀次が、切腹をしたことは、どちらも、秀次自身の意思によるものだったようです。
この秀次の切腹と、その家臣、一族への過酷な処分には、色々と、説があるそうです。
つまり、なぜ、秀吉が、このような過酷な処分に出たのかという理由が、研究者によって、色々と、説が、分かれるよう。
そして、最後に、結城秀康。
秀康は、天正2年(1574)4月の生まれ。
徳川家康の次男となる。
しかし、当初は、家康の子供として扱われることなく、嫡男は、弟、三男である秀忠となる。
天正12年(1584)12日、秀康は、「小牧・長久手の戦い」の結果、人質として、秀吉の元に送られることに。
この時、家康は、「養子」として送ると、認識をしていたそうです。
しかし、秀吉は、家康が「人質」を差し出したと、周囲に宣伝をしていたよう。
天正13年(1585)10月、秀吉が参内をする時に、「十人の昇殿の衆」の一人として天皇と対面。
その序列は、豊臣秀次の次ぐ三位で、宇喜多秀家よりも上。
天正14年(1586)、徳川家康は、上洛し、秀吉に臣従する。
天正17年(1589)5月、鶴松が、誕生。
天正18年(1590)、秀康は、結城晴朝の養子となる。
豊臣秀吉は、一族、一門を、次々と、処分し、権力から遠ざけた。
これは、もちろん、自分の子、秀頼の立場を守るためだったのでしょうが、この秀吉の行動は、逆に、一族、一門として、秀頼を守る人物が、権力の中に居なくなってしまったというマイナスの効果も大きかったということ。
個人的には、宇喜多秀家を、秀吉が、非常に、重用していたことに関心を持っているのですが、どうも、秀家は、秀吉の期待に応えることが出来るほど、優秀な人物ではなかったよう。
やはり、弟、秀長が、早くに亡くなってしまったことは、秀吉にとっては、痛恨の極みと言ったところでしょうかね。
