雑誌「歴史街道」の今月号。

特集は「川中島合戦の謎」ということで、早速、購入。

 

 

さて、「川中島の合戦」については、また、改めて、まとめるとして、気になる話が、一つ。

 

それは、「川中島の合戦」の一方の主役である「上杉謙信」について。

 

近年、この「上杉謙信」という戦国大名に関して、そのイメージが、大きく変化をしているそうですね。

 

かつて、「上杉謙信」といえば、「領土欲が無く、他人に頼まれると、嫌とは言わない、正義のために戦った戦国大名」というイメージが一般的でしたが、近年、このイメージは、かなり変化を見せている。

 

例えば、上杉謙信の「関東出兵」に関して。

これは、かつて、関東管領である上杉憲政によって、助けを求められたので、出兵をしたということ。

更に、上杉謙信が、その後、度々、関東に遠征をしたのは、「関東管領」という役職を、譲り受けたこと、また、北条氏と対立する、関東の戦国大名、国衆たちに、頼まれたから、と、言うことになっていた。

 

それは、それで、間違いではないのだろうと思われます。

しかし、上杉謙信が、度々、関東に遠征をしたのは、冬、豪雪に埋もれる越後国の人たちの「出稼ぎ」、つまり、関東での「略奪」のため、と、言う考えが、主流になっているよう。

越後国の人々が、多く、関東に移れば、その間、越後国の食糧は、減ることはない。

更に、関東で略奪をすれば、余分な食糧、人、馬、牛などの財産も、手に入れることが出来る。

毎年のように、関東に侵攻してくる上杉軍に対して「越国の凶徒」と書かれているものもあると、この本でも、紹介をされていました。

 

そして、近年、上鴫謙信に「妻帯説」が、出ているそうですね。

これは、個人的に、初めて知った、意外なこと。

 

上杉謙信と言えば、「生涯不犯」で有名。

戦国大名としては、珍しく、「正室」も「側室」も、持たなかった。

やはり、武家というものは、子孫、つまり、「家」を存続させることが重要で、その当主は、正室の他に、側室を持ち、多くの子供を持つことを目指すのが普通。

しかし、上杉謙信には、正室も、側室も無く、子供も居なかった。

かなり、特殊な例です。

 

しかし、上杉謙信の他にも、こういう武家の当主が、居なかった訳ではない。

 

それは、室町幕府で管領をつとめた「細川政元」という人物です。

最近、このような本が出たので、そのうち、読みたいと思っているところでもあります。

 

 

この細川政元は、第11代将軍、足利義稙を、強制的に退位させ、足利義澄を、第12代将軍にした「明応の政変」を起した人物であり、現在では、この「明応の政変」から、戦国時代が始まるという見方もあるそうです。

 

この細川政元もまた、正室もなく、生涯、女性を、近づけることが無かったため、当然、子供も居ない。

その理由は、修験道に、熱中していたこと。

そして、この修験道の修業によって、今で言うところの超能力のようなものを手に入れたいと、本気で考えていたようです。

そのために、女性を近づけなかった。

 

上杉謙信の場合は、「毘沙門天」を、深く、信仰していたために、女性を近づけなかったと言われている。

しかし、近年、ある史料が、発見されたそうですね。

 

高野山清浄心院に伝わる「越後過去名簿」という記録の中に、永禄2年(1559)に「府中御新造」に仕える女性が、自身の生前供養を依頼する記事が確認されたそう。

この「府中」とは、「越後府中」のことで、越後国の守護所があったところ。

そして、「新造」とは、武家の既婚の女性を指す言葉。

ちなみに、上杉謙信の生母も「府中御新造」と呼ばれていた。

そして、永禄2年(1559)に、「府中御新造」と呼ばれる人物は、当時、「越府」(越後府中の略称)であった上杉謙信の妻ではないかという説が、有力だそうです。

 

また、永禄4年(1561)、関東に出陣中の上杉謙信が、国許の家臣に対して「越後に帰国する自分の代わりに、新造を関東によこして欲しい」と書かれたものがあるそうです。

しかし、これは、当時、「新造」と呼ばれた女性が、上杉謙信の近くに居たことは確かですが、それが、上鴫謙信の妻なのか、それとも、他の上杉一門の女性なのかは、明らかではないよう。

 

しかし、個人的な想像を言えば、上杉謙信ほどの立場の人物に、妻、正室が居たのだとすれば、他にも、多くの史料が残されているのが当然だろうと思うのですが、その点は、どうなのでしょう。

何らかの理由で、形ばかりの正室、名目上の正室は、存在をしていたということなのでしょうかね。