さて、この本から。
宮武外骨の、人生を決めることになった大事件を紹介。
宮武外骨という名前。
とても、変わった名前で、本名ではなく「号」と勘違いされることも多かったそうで、「本名は、何ですか」と聞き返されることも多かったそう。
そのため、宮武外骨は、判子に「是本名也」と書いていたということ。
この「外骨」という名前。
生まれた時は、「亀四郎」という名前でした。
これは、外骨の生まれたのが「土の日」ということで、この日に生まれた子供には、「四本足の動物」の名前を付ければ、よく育つという話があったそう。
そのため、両親は、色々と考えた結果、「亀」という名前を付けることにする。
そして、外骨は、四男だったので、名前は「亀四郎」と決まった。
しかし、外骨は、18歳の時に、自ら「亀四郎」という名前を「外骨」と改めます。
この「外骨」は、「がいこつ」と読みます。
この「外骨」を「とぼね」と紹介しているものもあるますが、「外骨」を「とぼね」と読ませるようにしたのは、外骨が、77歳の時から。
それまでは、「がいこつ」と読んでいました。
この改名は、中国の梁の時代の字書「玉篇」の「亀」の説明のところに、「亀外骨内肉者也」」という説明から取ったもの。
改名の動機は、親の決めた名前と共に、親の決めた人生を歩むことを拒否したため、と、言うことになるようです。
外骨は、この18歳の時に、17歳の房子という女性と結婚し、独立。
小作50石のあがる地主となりますが、この結婚には、すでに、他家に嫁いでいた妹が、強く反発をしたそう。
そのこともあって、外骨は、兄の居る東京に、房子との駆け落ちを決意します。
そして、外骨、房子の二人は、上京。
しばらく、兄の家に、厄介になることに。
何とか、職を見つけ、自活の道を整えた外骨と房子は、約1年半、厄介になった兄の家を出て、京橋区南鍋町で独立。
明治19年、外骨、20歳、房子、19歳の時のこと。
上京をした外骨は、その直後から、夢だった雑誌の出版に乗り出します。
明治18年4月、郷里の母親からの資金援助で、「浮木堂」から、「孰姉乎妹」(いすれあねかいもうとか)を出版。
これは、外骨が、高松の栄義塾で学んでいた時に読んでいた雑誌「団々珍聞」に掲載されていた狂歌、川柳、都々逸などから、妙句を選び、挿絵と付け、20ページにまとめたもの。
この本は、「亀甲」をモデルにした六角形で製本されていて、評判を呼ぶ。
実は、「浮木堂」とは、外骨の作った出版社で、企画、著作、発行まで、外骨が、一人で行っていた。
ここから、外骨は、次々と、自身の著作、雑誌の出版を始める。
そして、明治19年4月、外骨は、念願の新聞「屁茶無苦新聞」を発行。
当時の日刊新聞のパロディとして、人気を博します。
編集人の「中々尾茂四郎」(なかなかおもしろう)とは、外骨のペンネーム。
しかし、発行と同時に、内容が「風俗壊乱」ということで、発行禁止処分を受け、一号で、廃刊。
これに先立つこと、明治18年、外骨、19歳の時には、すでに「頓智協会」という組織の設立を企画していました。
そして、明治20年4月、機関誌である「頓智協会雑誌」を創刊。
月2回の発行となります。
この「頓智協会雑誌」は、「機に臨み、時に応じて利用するべき頓智を発育養成する」という目的で編集されたもの。
この「頓智協会雑誌」は、大きな評判となります。
この「頓智協会」は、会員制で、最後の戯作者と言われる「仮名垣魯文」や、人情噺の新境地を切り開いたと言われる落語の名人「三遊亭円朝」も会員として参加。
また、第7号には、当時「小説神髄」で評判を得ていた「坪内逍遙」が寄稿。
第9号には、漢学者の「依田学海」が寄稿する。
そして、明治22年2月、帝国憲法が発布される。
これが、宮武外骨の生涯を決定付けることになる。
宮武外骨は、3月に発行する「頓智協会雑誌」の第28号で、ある企画を立てる。
それは、「帝国憲法の発布」を、パロディにしようというもの。
まず、「憲法発布勅語」を「研法発布囈語」として、パロディ化。
そして、「大日本帝国憲法」を「大日本頓智研法」として、パロディ化。
そして、「大日本帝国憲法発布」の錦絵を、パロディ化。
以上を「頓智協会雑誌」の第28号に掲載する。
しかし、これが、世間で大きな問題となる。
特に、問題となったのが、錦絵のパロディ。
こちら、大日本帝国憲法発布の錦絵。
こちら「頓智協会雑誌」に掲載された「頓智研法発布」の絵。
天皇陛下が、骸骨となっているのが、分かります。
この「骸骨」は、「宮武外骨」のことで、宮武外骨が、「頓智研法」を授けている絵。
そして、宮武外骨は、天皇陛下に対する「不敬罪」で、裁判にかけられる。
外骨は、裁判で、「天皇に対する不敬の意図はなく、骸骨は、自分自身(外骨)を表現したものである」と主張。
更に、出版をする時、事前に、警視庁に赴き、「この内容で出版しても大丈夫か」という確認を取り、「不敬罪にはならないが、発行禁止となるかも知れない」という意見を受けていたことを主張。
しかし、この主張は認められず、宮武外骨は、禁固3年の実刑判決を受ける。
明治22年10月、宮武外骨、22歳のこと。
この時、3年もの間、刑務所に入れられたことが、宮武外骨が、生涯、「反権力」を貫き、「権力の不正は、許さない」という態度を貫き続けることになる契機となる。


