さて、この本から。

 

 

平安時代の半ば、空也が、一般庶民に念仏を広めて以来、この空也の後継を自称する念仏聖たちが、その後を受け継ぎ、念仏は、次第に、民衆の中に、広まって行ったのだろうと思われます。

そして、当時、念仏というものは、後の「自らが、極楽浄土に往生する」ために唱えるものと言うよりも、「死者の魂を、あの世に送る」「死者の魂を、安らかに眠らせる」というために、唱えるものだったようで、恐らく、民衆は、それまで行っていた「神への祈り」や、「鎮魂」の儀式の時にも、念仏を取り入れるようになったのでしょう。

 

そして、鎌倉時代の後期、一遍智真、一向俊聖が、念仏を広めながら、日本全国を遊行する中で、自然発生的にはじまった「踊念仏」が、次第に、人を集めるためのイベントとして、形式が、整えられて行くことになる。

 

さて、一遍、一向による「踊念仏」ですが、この「踊念仏」は、民衆の中で広がり、引き継がれて行く中で、次第に、宗教的な意味が薄れて行き、念仏は、ただ、リズムを取るだけのものになり、「踊りを楽しむ」「踊りを見ることを楽しむ」方向に、変化をして行きます。

これが、「念仏踊」と呼ばれるもの。

 

この「念仏踊」では、人々は、派手な化粧をし、派手な衣装を身につけ、派手に仮装をして、踊ったそうです。

ちなみに、この「仮装」では、男性が、女性の格好、女性が、男性の格好をすることが多かったよう。

当然、宗教の側からすれば、禁止令が出ることもあったようですが、庶民は、それを、止めることは無かった。

むしろ、「念仏踊」は、ますます、盛んになる。

 

これは、「念仏ノ風流」などとも呼ばれたそうです。

この「風流」とは、派手で、きらびやかなことを指す言葉だそう。

 

僕ば住んでいる玉野市日比にある「観音院」というお寺では、毎年、境内で行われる「盆踊り」で、参加者は、みんな「仮装」をするのが有名。

なぜ、「盆踊り」で「仮装」をするのか。

これまで、ずっと、疑問だったのですが、もしかすると、この「念仏風流」の流れを引いているのかも知れない。

 

そして、この「念仏踊」の流れの中から、江戸時代初め、あの「出雲の阿国」が、登場することになる。

 

阿国が、京都で、本格的な「歌舞伎踊」を、大衆の前で披露したのが、慶長8年(1603)のことと言われています。

しかし、それ以前、慶長5年(1600)7月1日、阿国が、後陽成天皇の女御近衛氏のために「稚児踊」を踊っていることが記録されている。

この「稚児踊」は、「やや子踊」とも呼ばれたようで、この「やや子」とは、普通、赤子、幼児を表しますが、「やや子踊」の歌詞は、恋愛のものが多いそうで、若い女性や、娘を指していたのかも知れないということ。

 

この「阿国」とは、どのような人物なのか。

 

阿国歌舞伎のことを描いた「国女歌舞伎絵詞」によると、「出雲大社の巫女」ということになるようです。

京都に出て来た阿国が、最初に始めたのは「念仏踊」です。

 

天正16年(1588)2月16日の「言継卿記」には、「出雲大社の女神人、色々御歌、小詩等舞」と書かれているそう。

また、慶長8年(1603)4月、「当代記」には「此比(このころ)かふき躍と云事有、是は、出雲国神子女(名は国、但日好女)仕出」と書かれている。

 

この二つの史料には、「出雲大社の女神人」「出雲国神子女」と書かれていて、阿国は、「出雲の出身」と思われますが、異説もあります。

その一つは、京都の郊外、出雲路に住んでいた「時衆」の娘だったのではないかという話。

理由としては、阿国が「出雲大社の巫女」ならば、祝詞(のりと)のような祭文や、神楽歌でも歌うのではないかと思われる。しかし、阿国が行ったのは「念仏踊」だった。

 

阿国という人物は、未だに、謎が多く、出自、その人生など、色々と、研究者によって、説があるようですね。

河原者ではないか、遊女ではないか、と、言う話もある。

しかし、この阿国が始めた「歌舞伎踊」が、その後、「歌舞伎」に発展して行くということは、間違いないということなのでしょう。

 

ネットで調べて見ると、阿国の始めた「かぶき踊」ですが、上方での人気が衰えた後、阿国は、一座と共に、江戸に移動。

阿国の「かぶき踊」は、遊女屋で取り入れられ、これが「遊女歌舞伎」と呼ばれるもの。

この「遊女歌舞伎」は、全国の遊女屋に広まったそうです。

お客にとっては、この「遊女歌舞伎」は、遊女の品定めの場でもあったそう。

 

この「遊女歌舞伎」に対して、「若衆歌舞伎」というものがあり、これは、12歳から18歳くらいの美少年たちが、踊るもの。

かつて、この「若衆歌舞伎」は、「遊女歌舞伎」が禁止された後に登場したと言われていましたが、それは、間違いだそうで、両者は、別々に、行われていたものだそう。

ちなみに、この「若衆歌舞伎」に登場する美少年たちもまた、男娼に関係するものだったよう。

ちなみに、「遊女歌舞伎」が全国に広まったのに対して、「若衆歌舞伎」は、江戸、大坂、京都などの、都市部に限られていたそう。

 

この「遊女歌舞伎」「若衆歌舞伎」は、第三代将軍、徳川家光の時代に、禁止される。

その後、青年男子ばかりが登場する「野郎歌舞伎」が生まれたと、かつては言われていたのですが、現在では、これもまた、否定的な意見があるそうです。

 

だとすれば、阿国と、その後の歌舞伎とは、直接のつながりはないということにもなりますが、どうなのでしょう。

また、調べてみたいところ。

 

さて、上の本ですが、初版が、1974年と、古いもの。

文庫として再版をする時につけられたのだろうと思いますが、最後の解説のところでは、著者とは別の人が、解説を書かれていて、本文の内容とは違う説明もありました。

 

本文では、「踊念仏」が、次第に、「念仏踊」になったと書かれていましたが、後ろの解説の分では、「踊念仏」から、「念仏踊」が生まれたのではなく、「念仏踊」は、「風流踊」に、念仏を取り入れたものだろうと書かれていました。

この「風流」とは、蓬莱山や、花や木などの作り物を指す言葉だそうで、平安時代には、歌合や祝い事の置物だったそう。

平安時代の末期になると寺社の祭礼で、この作り物を傘の上に載せて練り歩く、風流の行事が流行ったそうです。

そして、この風流の傘を中心に踊るのが「風流踊」で、15世紀から、16世紀に、全国に広まったそう。

 

この「風流踊」は、疫神や御霊を、囃して送る「拍物(はやしもの)」に始まる。

派手な作り物や、仮装をした人が登場し、鉦や太鼓で囃し、お互いに、踊りを掛け合う「掛け踊り」だった。

 

一般に、「踊念仏」が、俗化、芸能化して「念仏踊」になったと言われていますが、両者は、起源が異なる、と、解説文には、書かれています。