鬼滅の刃の漫画本が、
全巻そろった。
…だと?
え。
えええええ?
予約したの、23巻買ったときだよ?
つまり先週の金曜に頼んだばっかりだよ!
その2週間ほど前に本屋で問い合わせたときは
「全巻となると、いつになるかわかりません」
だったのに…。
よもやよもや、だ。
いや、まあ勿論嬉しいのですが。
Amazonの入荷予定日の表記から
てっきりクリスマス直前あたりかな~と当たりをつけて
本屋さんで注文したのに。
あっと言う間に
「入荷しました」の連絡がきた!
鬼滅の漫画を入手するまで
もっと時間がかかると思っていたので
少し前から、別のアニメも見てました。
『進撃の巨人』です。
進撃は17,8巻くらいまで
借りて読んでましたが、
これまでアニメは見てませんでした。
でも最近、アニメのファイナルシーズンが
始まるということを知り
これを機にアニメを見るのもいいかも!
と思ってたら、11月に入って
プライムビデオに加わった!!
なんというタイミング。
見るしかない!!
…けど、鬼滅の比でなく流血がひどいので
絶対にヒノデさんの目に触れないようにしなくては。
ということで、隠れてコツコツ視聴して
ついに3期まで来ました。
ちょうどこの先からは
漫画で読んでないところなので
先が気になるところ。
かなり過酷な内容なので
見てて「うあああああ」ってなることもあるけど
物語の結末がどうなるのか、
やはり気になってしまう…。
巨人に怯えて「壁」の中で暮らす人類。
そんなの「家畜と一緒じゃないか!」
「オレたちは皆生まれたときから自由だ!」
「(巨人は)この世から一匹残らず駆逐してやる!」
そう言って、壁の外を目指す、主人公。
巨人の正体や壁の正体が明らかになるなか、
支配体制や宗教も絡んできて
一体何と戦っているのか、何が本当の敵なのか、
登場人物と一緒に、読者も惑わされながら、進んでいく感じ。
今の世相と、
現実的にも、スピリチュアル的にも、
リンクしてることが多々あると思うのですが
まあ、そういう細かいことは気にせず
とにかくどういう結末を迎えるのか、物語を楽しみたい。
…と思ってたら、
思いもよらないシンクロがあったのですが。
それはとりあえずおいといて。
夏ごろに書き始めて、
ずっと止まってた記事。
以前、
「小説に興味がなくなったみたいなので
村上春樹の小説は当分買わないと思います」
みないなこと言ってたのですが
『猫を棄てる』というエッセイがさくさく読めたので
久々に村上春樹さんの新刊に手を出しました。
短編小説集ですけど。
夏ごろに買って、数か月経ちますが
先日ようやく、最後の話を読み終えました。
この本を買おうと思った決め手は、
新聞の広告欄や
本の帯に書かれていた、以下の文章。
「一人称単数」とは世界のひとかけらを切り取る「単眼」のことだ。
しかしその切り口が増えていけばいくほど、「単眼」はきりなく絡み合った「複眼」となる。
そしてそこでは、私はもう私ではなくなり、僕はもう僕でなくなっていく。
そして、そう、あなたはもうあなたでなくなっていく。
そこで何が起こり、何が起こらなかったのか?
「一人称単数」の世界にようこそ。
文章中の、「複眼」という言葉。
ここに引っ張られて「よし買おう」となったんです。
え、そこ?という感じですが、
そこだったんです。
個人的にこの1年ほど
「複眼」というか「目」が気になって
本とかDVDを見たりしてまして…。
その中のひとつ。
NHKスペシャルのDVDボックス、
『生命大躍進』
1時間番組×3枚で
なんと1万円もするのに
衝動的にポチッてしまいました。
このシリーズの第一集が
第1集 そして"目"が生まれた
となっていて、
今から約5億年前のカンブリア紀、
生命は原始的な「目」を持つに至った…。
そして、「目」を持ったことで
「生命の大爆発」が起こり、その後
地球上で
多種多様な生命が進化していった…
という内容なんですね。
カンブリア紀には、
今の時代に繁栄している
脊索動物(骨などの内部骨格を持つ生き物・人間も)は
ほとんど存在しませんでした。
カンブリア紀の生命の主流は
アノマロカリスなどの節足動物(今だと昆虫類とか)でした。
節足動物の目というと、「複眼」ですね。
アノマロカリスをはじめとする、
カンブリア紀の節足動物も
ほぼすべて複眼をもっていました。
その後、節足動物に代わって
骨などの内部骨格を持つ、
脊索動物が進化する。
その過程で、「目」も「複眼」から
より複雑な構造を持つ「レンズ眼」が主流になる。
人間の目も「レンズ眼」です。
複眼よりも、より明確に周囲を映すことができるので
獲物をとったり、敵から逃げるのも有利になる。
さらに、この「目」の進化の過程で
「意識」が生まれた…とする研究もあって
それがまた面白いのですが
ここでは書ききれないので…。
「複眼」に戻ります。
村上春樹さんの短編小説
『一人称単数』。
「一人称単数」とは世界のひとかけらを切り取る「単眼」のことだ。
しかしその切り口が増えていけばいくほど、「単眼」はきりなく絡み合った「複眼」となる。
そしてそこでは、私はもう私ではなくなり、僕はもう僕でなくなっていく。
そして、そう、あなたはもうあなたでなくなっていく。
そこで何が起こり、何が起こらなかったのか?
「一人称単数」の世界にようこそ。
小説の帯には、↑の他にも
↓と書かれています。
短編小説は、
一つの世界の
たくさんの
切り口だ
これは、
短編小説のことだけではないのかもな、
と思いました。
一人の人間の、
一対の「カメラ眼」を「単眼」として、
世界は様々な切り口でとらえられている。
そして、人間は
誰もが「大きな何か」の一部なんだ
ということを実感するほどに、
「単眼」は実は「大きな何か」の
「複眼」の一部分だったということになり
「私はもう私ではなくなり」、
「僕はもう僕ではなくなっていく」。
「あなたはもうあなたではなくなっていく」。
それは先日読んだ村上さんのエッセイ
『猫を棄てる』で
感じたこととリンクしているな、と思ったんです。
…僕は手を動かして、実際に文章を書くことを通してしかものを考えることのできないタイプの人間なので(抽象的に観念的に施策することが生来不得手なのだ)、こうして記憶を辿り、過去を眺望し、それを目に見える言葉に、声に出して読める文章に置き換えていく必要がある。そしてこうした文章を書けば書くほど、それを読み返せば読み返すほど、自分自身が透明になっていくような、不思議な感覚に襲われることになる。手を宙にかざしてみると、向こう側が微かに透けて見えるような気がしてくるほどだ。
我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴にすぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と。
色とりどりの「個」というのは
やがて「透明」に返る
ちっぽけな存在ではあるんだけど
「かけがえのない」ものでもある、ということ。
『猫を棄てる』を読んだとき
そんなことを思いました。
『一人称単数』でも、
同じようなことを感じました。
「一人称単数」で表される
かけがえなのない「個」。「単眼」。
それぞれが「単眼」をもって眺める世界は
「個」の数だけたくさんの切り口がある。
でもその「単眼」は
実はみんな、大いなる何かの一部分だった。
「固有ではあるけど、
交換可能な大河の一滴」だった。
そのことに気づけば、
「単眼」は実は「複眼」の一部分だったとわかる。
その気づきの先で、
個体としての輪郭を失い、
集合的な何かに置き換えられて消えていく。
つまり、
「私はもう私ではなくなり」、
「僕はもう僕ではなくなっていく」。
「あなたはもうあなたではなくなっていく」。
でも、それは悲しいことでも、怖いことでもない。
多分それが、
ゼロポイントに還るということだったり、
いわゆる「ワンネス」への道だったりするから。
そんなことを考えました。
いや、それにしても、
『猫を棄てる』は一日で読んだのに
『一人称単数』は数か月かかるなんて…。
やっぱり、「小説」はなかなか読み進められないのかも。
まあ、小説に限らず活字が…という感じですが。
その割に、自分の書く文章は
回りくどく長い、という矛盾(笑)
と言いつつ、さらに長くなる…。
「複眼」が特に気になったきっかけ。
それは、ヒノデさんの落書きでした。
学校に持って行く自由帳。
1年生のときは2,3日に1冊の消費だったのが
2年生になってからは1週間に1冊になりました。
今では2週間以上もつことも。
自由帳の絵を見るのが楽しいので
時々見せてもらってるんですが
一緒にNHKスペシャルのDVDを見て
しばらくしてから
こんな絵を描いていました↓
カンブリアの生き物たちです。
カンブリア最強のアノマロカリスに
五つ目のオパビニア、
イカによく似たネクトカリス、
その他、オットイア、ハプロフレンティス、ハルキゲニア。
そういえばハルキゲニアって、
一時期、見るたび村上春樹さんを思い出してたんだった…。
ハイ。そもそも、
私自身がカンブリアオタクです。
結婚するよりも前に、
NHKの特集か何かで
カンブリア大爆発の番組を見て
それをきっかけに気になって気になって、
本を買って読んだりするほど、
カンブリアの生き物たちが気になっています。
児童書の棚で、「大昔の生き物」図鑑を見つけて
ヒノデさんに買ってあげたら、
まんまとハマってくれてニヤニヤしていました。
保育園のころは家でも園でも
毎日カンブリアの絵を描いていて
クラス内でも流行したほど。
誕生日プレゼントなどで買い集めた、
カンブリアのぬいぐるみたち↓
女子受けはすこぶる悪い。
はっ。
カンブリアが好きすぎて
話が盛大にそれました。
自由帳のお絵かきの話。
一部分拡大すると…
カンブリア
目が生まれたじだい 目には ふくがん
ヒノデさんの「ふくがん」と
小説の帯の「複眼」の文字が結びついて
じゃあ(?)、この本を買おう、
と思い至りました。
長年気になってるカンブリアから
村上春樹さんの本につながって
全体と個、手放しの先にあるものについて考えることになり
とりあえず、読むのに時間かかったけど
買って良かった。
これでひと段落。
…と思ってたら、
カンブリアの沼はもっと深かったようです。
確かに、年季からいくと
ミツウロコよりよっぽど長い付き合いなんだよな…。
そもそも、夏で止まってたこの記事を
今改めて書こうと思ったのは、
そのこととつながるシンクロがあったから。
それが「進撃の巨人」つながりだったんですよ…。
と、いうことでそのことを書こうと思うのです。
けど、今日は鬼滅の漫画がきちゃったから、
まずはそっちを堪能するしかない…!