新聞はほとんど読みませんが、新聞記事がやたら目につく今日この頃。(津軽の唐糸伝説) | ヒハ ノボル

ヒハ ノボル

発達凹凸ありの小学生男子の母です。
生まれは関西、ほぼ東北育ちで、今は関東在住。
漫画好き。最近の趣味は、フラワーエッセンス。

師匠から

 

「興味深いですね~」

 

と、突然新聞記事の画像が送られてきたのが

5月末日。

ウイルスと人間の進化に関する

日経の記事でした。

 

驚異のウイルスたち(2)人類と共存「進化の伴走者」 感染で遺伝子内に 胎盤や脳発達

 

※有料記事ですが、無料版に登録すると

1か月10本まで無料で読めます。

コロナに対する考え方は人それぞれだと思うので

私がどう思うのかについてはここでは言いませんが

とにかく「興味深い」ので良かったらぜひ…

 

 

 

 

 

 

 

 

コレ↑が送られてきて以来、

家の新聞の記事が目につく機会が増えたんです。

サホヒメのこととか

タカアシガニとか。

師匠は本当に、

何気ない会話やメールのやり取りでも

その都度(または後から)ハッとさせられることが多くて

今回も「(画像送ってくれるのって)珍しいな~」と思ってたら

記事の内容だけでなく

「新聞記事」のシンクロが続いて

驚いています。

意図的なのかどうなのか…。

いつか聞いてみよう。

 

 

ということで、今回またひとつ。

非常に個人的な理由になりますが

「見せられてるとしか思えない」

記事に行き当たりました。

昨日(7/3)の朝日新聞。

 

 

青森県藤崎町に残る

「唐糸伝説」についての記事です。

 

「津軽の歴史は伝説にあふれている」

 

という出だしが目に入り

あとで読もうと思っていたのですが

朝のバタバタですっかり忘れていたところ

夕飯のあと、夫がバサッと新聞を置いたとき

ちょうどその記事が目に飛び込んできました。

あ~そういえば読もうと思ってた…

と思ったら「藤崎町」とある。

 

あ、おととい久々に

藤崎町」在住の友人からメールがあったんだわ…。

 

そして、私は以前から「藤崎町」が

とても気になっていたのでした。

しかも、記事を読んでみたら、

同じく気になってた「北条氏」まで出てる。

なんだこれ~と思って

改めて北条氏について調べてみたら

若狭」というワードやら

夫の苗字に関する情報まで出てきた。

 

 

もう若狭はおなかいっぱいだヨ…

 

 

と思ってたんだけど

これはちょっと無視できない…。

でも、色々気になるワードがつながったというだけで

オチにたどり着いていない…。

 

ということで、備忘録的な記事になります…。

 

 

 

まずは、新聞記事の「唐糸伝説」について。

新聞記事より、こちら↓が詳しいので

こちらからご紹介。

 

安藤氏歴史ツアー 藤崎町内編2 唐糸御前史跡公園

 

まず最初に、伝説としてよく知られているものを紹介します。

「『津軽弘前唐糸万蔵寺毘沙門天尊像縁起』
文応の頃(1260~61)、鎌倉の5代将軍の執権に、北条相模時頼という名君がいました。その方の寵愛を受けた女性に、唐糸の前という方がいました。容色が世にもすぐれ、気立ても大変立派な女性であったので、時頼公の寵愛も他の女性を勝り、桜が見事な枝で鴬がさえずるようだと言われていました。しかし、高い木に風が強く吹かれるという例にもあるように、ついに婦人の妬みを受けることとなり、心を決して弘長元年(1261)に、ひそかに館を逃れ出て、行方の定まらない旅に出ました。
ときに、時頼公は、治世8年を過ぎて、地方の行脚の旅に出ることを思い立たれ、髪を落とされ、黒染めの衣に御姿を変えて、名を最明寺道崇と改め、諸国修業の旅に出られたといわれます。
唐糸の前は奥州に落着され、津軽の藤崎に来て、平等教院の常陸阿闍梨という貴い僧侶を師としてお頼りになり、ひたすら後世菩提を祈り、おりおりには仏像を縫うという日々を暮らしておられました。
そうしている時に、時頼公が僧侶のお姿でこの地に入られたことをお聞きになり、一度は嬉しく思われましたが、遠く離れた田舎に落ちぶれ、以前の容色を少しもとどめないのでお会いすることは恥ずかしいと、女心も弱く、近くにある柳の池に身を投げてしまいました。
このような折に道崇の君はこのあたりにお回りになり、池の辺りで里人たちが集まり泣き悲しんでいたので、どうしたのだと問うと、御遺体の首にかけていた守袋の中に、金銅の毘沙門天の尊像があり、これこそ唐糸の前がいつも守肌身から放さない守本尊でした。道崇の君は平等院に入られて懇ろに供養され、有り難い御教書などを阿闍梨にお渡しになりました。唐糸の前の墓印など営まれて、鎌倉にお帰りになった後、護国寺という一宇を建立させました。
金銅の尊像は、鎌倉にお持ち帰りになり、最明寺公が信仰されたといわれ、その代わりにと、同じ毘沙門天の木像(御丈1尺3寸)を自らお作りになり、革の行李に収められました。護国寺が焼失した時、寺院が再建され唐糸山満蔵寺と改め、この木像を本尊とすることにいたしました。(その昔、藤崎の里にあったが、今は、弘前長勝寺門内の満蔵寺がそうである。)」(「藤崎町誌 第4巻」)

 

 

鎌倉幕府第5代執権 北条時頼

(在職:1246年 - 1256年)の時代。

彼の寵愛を受けた、唐糸御前という女性がいて

その女性が、夫人の嫉妬に耐えかねて時頼の元を去り

青森の藤崎町の辺りに落ち延び

僧侶に師事して、日々暮らしていた。

その後、引退して出家した時頼が

地方行脚の旅に出たとき

藤崎町にも立ち寄ることになったものの

唐糸御前は、自分の衰えた容色を気に病み

入水自殺してしまった…

という、悲恋伝説です。

史跡公園もあるくらいだし

地元ではよく知られている…ということだけど

私は知りませんでした。

まあ、青森には2年しか住んでなかったので

しょうがないってことで。

 

 

 

で、なぜ藤崎町が気になってたかというと

藤崎町が「安東氏発祥の地」といわれているからです。

 

平安時代末の11世紀の中頃、岩手県盛岡市のあたりに本拠地を構えていた東北地方の大豪族に「安倍氏」がいました。その安倍氏を京都政権の派遣軍が討ち滅ぼし、源氏が関東や奥州に勢力を張るきっかけとなった戦いが「前九年の役」(1052年~1062年の12年間にわたる長い戦い)です。その戦いで戦死した安倍氏の頭領・安倍貞任の遺児の高星丸(たかあきまる)が藤崎に落ち延び、成人の後に安東氏をおこし、藤崎城を築いて本拠地とし、大いに栄えたと伝えられています。

安東氏発祥の地 (藤崎町ホームページ)

 

 

「前九年の役」で朝廷に滅ぼされた

奥州安倍氏の末裔が安東(安藤)氏ですが

その安東氏発祥の地

藤崎町だった…ということなんですね。

私は、「若狭」がとても気になっていたことがあり

若狭国(現在の福井県)に

安東氏に縁のあるお寺があると知って

去年、そのお寺(羽賀寺)を訪れていました。

 

福井旅行の話。明通寺・羽賀寺

 

 

 

津軽には、北陸出身者の末裔と思われる、若狭、加賀、能登、越前、越後、輪島、小嶋、柿崎などの姓が多くみられるというのも興味深い。
津軽には、「対馬」とか「津島」姓が多い。それは、蒙古襲来(1274年、1281年の2回)の際、十三湊を根拠地にする安東水軍が対馬海峡まで遠征し、難民となった対馬の住民多数を津軽に疎開移住させたからだそうだ。海人という同族意識が、彼らをそうさせたのであろうか?
海人の國、日本 より)

 

 

元寇をきっかけとして、

津軽に若狭対馬など

北陸出身者が疎開移住したということなんだけど。

なんで津軽だったんだろう。

津軽の安東水軍が元寇で遠征したご縁で…

といっても、遠征したのは安藤水軍だけじゃないだろうし。

その辺はよくわかりませんが、

前の記事でも「海人族つながり」とか

「出雲弁と津軽弁の類似」などから

やはり氏族的なつながりがあったのかな…と書いてました。

 

 

若狭と津軽のつながり。

 

そこへ、唐糸御前を通して、

北条氏が絡んでくるわけです。

 

新聞記事には書かれてませんでしたが

唐糸御前は、藤崎町が故郷であった、とする説、

さらには「安東一族の娘だった」というものもあります。

 

 

 

唐糸御前の伝説には諸説あるのですが、ここでは直接に安藤氏の話が現れるものを紹介します。

「ふるさとの伝説 川合勇太郎 著
藤崎は昔安東という豪族の居城で、その一族は津軽一帯に勢力を張っていました。この安東の娘に唐糸という美しい女性がおりました。都に出て、幕府の執権北条時頼の館につかえ、時頼のちょう愛を受けて唐糸御前とよばれ、幸福な月日を送っておりましたが、ほかの女たちのそねみをうけ、意地の悪いことばかりされましたので、いたたまれず、ひそかに藤崎の実家に帰ってしまいました。
時頼は、大いに悲しんで執権の職を辞し、出家して名を最明寺と改めて諸国行脚の旅に出ました。入道したといってもまだ三十才の若さでしたので、はるばる奥州の果てまで来たというのも、唐糸御前に会いたい心があったのでしょう。
唐糸は、時頼が奥州に来ると聞いて、都にいた時と違った生活におとろえ疲れた自分の顔や姿を見せることを女心に悲しんで、時頼が藤崎に着くという前日に、柳の池に身を投じて死んでしまいました。
それとは知らぬ時頼は、藤崎に来て唐糸御前の死んだことを知り、悲しみの涙にくれ、唐糸のために万蔵寺というお寺を建てて供養したといいます。」(「藤崎町誌 第4巻」)

 

 

 

安東の娘・唐糸が「都に出て」とありますが

そんな簡単に都に出て

執権北条氏の屋敷に努めることができるのか…。

強力な縁故がないと無理なんじゃないかと思いますが

当時の津軽は北条氏の所領で

安東氏が代官となって治めていたようなんです。

つまり、「協力な縁故」ちゃんとあった!

 

新聞記事にもありますが

 

「唐糸と時頼廻国の伝説は

得宗北条氏の津軽支配の中心が

安藤氏を介在した藤崎の地であったと

示唆しているようだ」

 

と。

安東氏発祥の地が藤崎だから

安東氏の娘である唐糸が

藤崎に(戻って)来て亡くなった…ということなんですね。

 

でも、唐糸伝説は

実は十三湊や秋田にもあるそうです。

 

唐糸御前の伝承の裾野の広がりと、

その人気の高さを見ることができる」

 

のも、その通りだと思いますが

安東氏ゆかりの地に

伝説が残っている、ということだと思います。

 

 

 

さらに、北条氏若狭とも関係が深いんです。

若狭と津軽の関係の間に、

北条氏と安東氏がいる…。

 

 

私が北条氏を気にするようになったのは

「ちびまる子ちゃん」がきっかけでした。(また漫画かよ)

アニメのちびまる子ちゃんのスポンサーで、

ミツウロコ」という企業があるんですね。

このミツウロコは北条氏の家紋なのですが

これが以前からずっと気になっていたんですが

アニメを見たヒノデさんが

「みつうーのーこぉ~」としつこく歌うので

ますます気になるように。

(でも間違ってるし。ミツウノコじゃない)

このミツウロコを調べていて、

若狭」という言葉が出てきました。

 

「過所船旗」

 

 

唐糸御前と関係のあった

5第北条時頼から時代が下って

8第時宗のとき。

時宗が若狭の守護になりました。

その守護代から、
若狭湾の多烏浦の海人たちに与えられたのが
北条氏のミツウロコの紋が入った旗章「過所船旗」(画像↑)。
北条得宗による
日本海の海上交通の支配を強化したい姿勢の表れ
…とのことですが。
 
北条氏と縁の深い若狭と、津軽。
(まあ、若狭はそれほどの縁でもないかもですが)
津軽の藤崎町発祥という安東氏ゆかりの寺(羽賀寺)が
若狭にある…。
そして
北条氏と安東氏をつなぐ、
時頼と唐糸御前。
 
つながりがあるのはわかったけど
だから何だっていうんだろ~~
 
 
ちなみに、「多烏浦の海人」の多烏の地名が気になったので調べてみたら
 
若狭湾のうち田烏(たがらす)湾に面する集落で,現在の福井県小浜(おばま)市田烏にあたる。中世は多烏の表記でみえることが多く,近世初期に田烏の表記となった。鎌倉初期,耳西(みみにし)郷(福井県美浜町)の日向(ひるが)浦から移住した秦(はた)氏が若狭国守護であったという稲葉時貞の後援を得て開発したとされる。

とのこと。
秦氏って海人なんだっけ…。
それ以上突っこんで調べる気力なし。
それにしても、若狭は「耳」がよく出てくるなぁ…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後になりますが、

ミツウロコについて補足。

ミツウロコというより、

「鱗紋」(うろこもん)になります。

 

 

結婚したとき、

母が着物買ってくれたのですが

そのとき自分で選んだのが

鱗紋の着物でした。

お店の人が

鱗紋には「女性の厄除け」の意味がある、

と教えてくれました。

思えば、「ミツウロコ」が気になるようになったのは

この着物を選んだのが、

そもそものきっかけなのでした…。

 

 

鎌倉時代に、魚類や蛇の鱗に見立て、鱗文という名がついたとされ、呪い・魔除けの力を持つとして、武具や戦陣衣装、そして紋章にも用いられたそうです。
室町時代になると、衣装の文様に使われ、武家の陣羽織や能装束に用いられ、
特に、能や歌舞伎では
女の執念を象徴する図柄として、鬼女や蛇の化身の衣装に使われました。
江戸時代に入ると、鱗文様は蛇や蝶をイメージさせ、脱皮して厄を落とし再生するという意味もあり、
厄除けの文様とされました。
鱗で身を守るとか、固めるとの縁起に因み、
女性の厄除け、魔除けの図柄として鱗文様の長襦袢を身に付けることもあります。「厄除け文様鱗紋」

 

 

 

別の情報だと、鱗紋には

疫病退散の意味もあるのだとか。

 

なんでこのタイミングで

唐糸伝説が目にとまったのか。

北条氏とか安東氏とか

海人族とか秦氏とかのつながりは

難しくてよくわかないけど(←)

とりあえず、「厄除け」とか「疫病退散」というのは

タイムリーだった…と思う。

「女の執念を象徴する図柄」として

能や歌舞伎で鬼女の衣装に使われた…

というのは知らなかった…。

 

他にも調べてるうちに

夫の苗字とかが出てきたりしたので

ご先祖様的な何かも関係あるのかもしれない。

夫の一族は九州なんだよなあ…。

藤崎在住の友人も

おじいさんがひいおじいさんの代に

九州からやってきた…と聞いている。

やっぱり九州なのか…。

でも、苗字バレは避けたいのと

もういっぱいいっぱい。

必要があれば、そのうちまた

何かシンクロしてくると思うので

今日のところはこれにて終了です~。