オッペンハイマーと、自身の内に問うこと | ***Walk on the light side

***Walk on the light side

銀河に煌く星たちのように

先日、クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』を観てきました。原爆を生み出したJロバート・オッペンハイマーの自伝映画です。

 

世界では2023年に公開されましたが、日本ではなかなか配給が決まらず、2024年3月末から始まりました。

 

ノーラン監督の作品は大好きで、ダイナミックなストーリー展開と、映像美、複雑な時系トリックに、いつも脳が存分すぎるほど刺激されます。

 

本編も3時間ですが、登場人物が多く、展開が速く、圧倒的な映像と音響による演出とで、ジェットコースターでした。

 

 

原爆をモチーフとしながら、広島や長崎での実際の被ばく映像がないことへの言及もあったようですが、実際のオッペンハイマー視点として、ラジオで投下を知ったのみであり、またその後に被ばく者の資料がやってきたときに見ることができなかったというのを再現しているのでしょう。

 

直接的ではないけれど、恐ろしく悲惨なさまは充分すぎるほど、そのセリフや演出の端々に表れていたので、私はそれだけでも圧倒されて、何度も泣きました。

 

でも、それは私が昭和生まれの日本人で、子どもの頃から繰り返してみてきた記憶と直結する光景があるからかもしれません。外国人や私の子ども世代にとっては、実際の悲劇を思い起こすことが難しいところもあるでしょう。

 

「300年の量子力学の集大成が大量破壊兵器なのか?」というセリフが強く印象に残りました。

 

科学と学問の進化は、人類をみずから滅ぼすためのものなのでしょうか?


ひとつのハイライトシーンでもある、原爆の爆破実験での大爆発は、あまりにも人間の愚かさの集大成のように感じられて、映像を見ながら涙が止まりませんでした。

 

映画の原作の邦題は『オッペンハイマー「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』ですが、原題は『American Prometheus: The Triumph and Tragedy of J. Robert Oppenheimer』です。

 

この『アメリカン・プロメテウス(American Prometheus)』について、映画の冒頭ですこし紹介があります。

 

プロメテウスは禁忌を破って人間に火を与えた神であり、怒ったゼウスによって、肝臓を大鷲に食べられ続けるという罰を受けます。神であるプロメテウスは不老不死なので死ぬことができず、毎日肝臓が再生されては、食べられるという拷問を受け続けることになったのでした。

 

まさにオッペンハイマーはアメリカのプロメテウス。

 

そして、神々の王であるゼウスは、モラルや正義を象徴する神でもあります。

 

何が人類にとって、あるいは社会にとって「正しいこと」であるのか。それを考えるのがゼウス……占星術の木星です。木星は私たちひとりひとりの中で「生きる意味」や「社会の中での正しいふるまい」を見出すことを助ける元型なのです。

 

人間はいまや知識や技術として、大量破壊兵器も、生物兵器も、即死する薬物や人の中枢神経を破壊する薬物、大ダメージを与えるウイルスや、クローンの生物も作ることができます。

 

しかし、はたして、人間として、どこまでだったらそれを作ることが「正しい」のだろうか?

 

クリストファー・ノーラン監督のチャート

 

ノーラン監督の作品を観ていると、獅子座らしいドラマティックでパワフルなストーリーの中で、木星が天秤座らしく「結論や解釈は各人に委ねます」という印象の流れをたびたび感じます。どうなったのか、どうなるのか、ヒントを散りばめて多くを語らないといいますか。

 

それこそがメディアやアートの醍醐味ですね。牡牛座の土星がとてもよく効いていると感じます。牡牛座は「思考感覚」を司り、表現するアートの中に「意味」を含ませて、伝えます。

 

それに私たちは受け取り、自身の中で深く意味を探ることになるのでしょう。

 

歴史を垣間見て、登場人物たちのドラマに心を動かされ、観ているこちら側の正義や、意味や、人間としての知性を問われること。

 

オッペンハイマーでは、心臓を貫かれたように、存分にそれを考えさせられることになったのでした。