私の実家は花屋です。戦後に祖父が始めて創業75年。高度経済成長期が終わり、バブル景気へと向かう1980年代、一族で営む花屋で少女時代の私は働いておりました。お手伝いではなく、働いていたというのは、ちゃんとタイムカード押して、時給200円とか、もらっていたからです(笑)
小学生のおこずかいが2年生で200円、3年生だと300円みたいな時代に、時給200円というのは、週末に働くだけでも、なかなかな額になりました。一か月3,000円とか。
「働くと良いことがある」という刷り込みは、ここですでに始まっています。私の月は山羊座で、10ハウスの水星とセクスタイル。働く少女。
花屋という商売は、開業後5年以内の廃業率がとても高い仕事ですが、それはそうでしょうね~。八百屋や肉屋と同じような生鮮品を扱いながらも、食料品ほどデイリーに必要とされることがありません。当時、毎日売れるものといえば仏花とお榊ぐらいでしたが、もはや神棚にお榊を供える人も少なくなっているでしょう。
絶えず、お部屋にお花を飾る方もいらっしゃいますが、全員ではなく、嗜好品ですよね。自分で花を買って飾るようになってから、家中にお花が溢れかえっていた実家が贅沢な空間だったと、ようやくわかるようになりました。
つまるところ、花屋という商売は仕入れた花を売り切らないと廃棄するしかない、ということです。しかし仕入れが少ないと店を飾る花が寂しくなってしまい、それゆえ、華やかかつ売り切るだけを仕入れるというのが、ものすごくむずかしい仕事ということになります。
「うちはサラリーマンじゃないから、お金がいつもあると思うな」と、母親にしょっちゅう言われておりましたが、牡牛座の母にとって、収入が荒波のように変動する状態はストレス以外の何者でもなかったでしょう。
「売れないときは、どうにかして売らなければならない」という考えもまた、花屋で刷り込まれたものです。レッツ・クリエイティブ。
荒波ということは、ビッグ・ウェーブもあるわけで、1980年代の母の日の花屋はめちゃくちゃ売れたものです。まだコンビニや郵便局、インターネットという競合もなく、現在のように洋服や食品を贈る人も少なく、誰もが判で押したように、花屋で赤いカーネーションを買ってくれた時代です。まさにブルーオーシャン。
母の日の1週間前から注文が鬼のように入り始めて、2日前あたりから社員はほぼ徹夜に突入。当日は店にあるものはどんなものでも売れるような嵐の状態です。
夜になって配達も終わり、店のシャッターも半分おろしたところで、帰路に向かう人が思い出したように「すみません...まだ花ありますか?」と、声をかけてきます。
なんだ。まだ売れるじゃないかと、閉めたシャッターの前にバケツを並べて、一束1,000円とか2,000円の札をつけると、これが売れるのです。
売り子は小学生の私ひとりで、シャッターを閉めた店の中で、叔父が残った花をかき集めて、せっせと束を作ります。女の子ひとりで立っていると「こんな時間まで、お手伝いして偉いね」などと、お客さんが褒めてくれるのでした。ビバ、昭和の児童労働……(笑)
私と叔父はこれを数年母の日の夜に繰り広げたものです。いい思い出です。
急にこのことを思い出したら、星で読み解く集客講座みたいなのをやってみたくなりました。その人の魅力と、どこを推して、どう展開するのかが良いかとかですね。そんなことをわいわいと喋るお茶会も楽しそうですね。