自身の尊厳と生きるということ | ***Walk on the light side

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銀河に煌く星たちのように

安倍元首相の銃撃はかなりのインパクトを世界にもたらしたと思いますが、個人的にも結構ショックで気持ちが沈んでおりました。犯人の背景が明らかになるにつれて、更になんともいえない気分が広がっています。

 

特定の誰かに対して「消えてほしい」「いなくなってほしい」という気持ちを抱くのは特別なことではなく、心の中で激しい感情と共に感じた経験は少なからず、誰でもあるのではないでしょうか。逆に自分自身が「消えてしまいたい」「いなくなりたい」と感じることもあるでしょう。

 

これは誰もが少なからず抱く思いであり、それは幼少期の経験からやってきています。幼児期の私たちは自分のニーズを満たすのに親を必要とし、完璧を求めますが、実際に親が完璧に満たすことはできません。望んでいるのに、求めているのに、満たされないということが、たびたび起こります。

 

自分の内側にあるものが、望んだように映し返されない経験は、拒絶された痛みとして、深く根付いていくでしょう。そして少しずつ「拒絶されないようにはなから期待しない」ようになるか「拒絶されるとわかっていながらも、今度こそはと期待して努力する」といった形など、さまざまな歪みをもって、その後の対人関係のなかで再現されて、私たちは苦しむことになります。

 

誰かから拒絶されたと感じたとき、当時の痛みや傷がやってきて、これ以上、その苦しさを感じたくないがゆえに、その苦しみの元凶である相手に消えて欲しいと願うか、あるいは自分がいなくなりたいと願うかということが反射的に起こるでしょう。

 

その痛みは本物ですが、元々の出所はいま目の前の対人関係ではなく、もっと古い記憶からやってきているんですね。目の前の相手がトリガーとなって、記憶のなかにあるトラウマが刺激され、当時の混乱や苦痛や痛みが蘇るのです。

 

子どもにとって親から拒絶される体験は、死を連想させる恐怖があります。世界から拒絶されて、居場所がどこにも存在しないような絶望もあるでしょう。それでも、ここにいなければならないとするなら、拒絶を連想させる対象を消すか、拒絶される自分を消すかしかないと感じるかもしれません。

 

 

幼少期の私たちには、痛みや苦痛そのものを自身で感じ、受け入れ、扱うだけの裁量がありませんでした。ですから代わりに私たちはその痛みや感情を丸ごとパッケージとして保存し、それを扱うことができるようになるまで、とっておくことになります。

 

そして大人になって、さまざまな能力が身につくと、しばしば対人関係を通して、保存された痛みと感情が再現される状況がやってくるでしょう。

 

相手を消し去ってしまいたいような、あるいは自分自身を葬り去らせたいような、激しく、狂気のような、大きな大きな苦痛を伴う怒り、悲しみ、嘆き、痛み……。

 

その激しい感情に駆られて、世界や自身を破壊したい衝動に襲われるかもしれないけれど。

 

しかし、それが心から生み出されたものである限り、私たちはそれを心で受け止めることができるのです。

 

激しい怒りを、絶望を、嘆きを、苦痛を、痛みを、恐怖を全身で受け止めると、荒れ狂う嵐のように、心と身体がめちゃくちゃに切り裂かれるような、痺れて動けなくなるような感覚がするかもしれません。全身でのたうちまわりながら、断末魔の雄たけびが全身を貫いて、雷光に打たれたような感じもするでしょう。

 

それがやってくるたびに何度でも何度でも、感じて、味わう……。痛いし、苦しいし、しんどいけれど、それは本当にそのような苦しさがあったのです。そのときに扱えなかったものを扱い、味わうときがやってきているのでしょう。

 

自分の感情を感じきることができれば、世界が変わります。それは長くて時間のかかる道のりであり、自分の心が安定していないうちは、助けてくれる人を必要とするかもしれません。この助けてくれる人の導きが誤っていると、また悲劇が繰り返されるというリスクもあります……。

 

誰もが尊厳をもって自身の命を生きるということは、本当はとても何よりも大事なことなのではと思います。それは仕事したり、誰かを愛したり、生活したりする私たちの日常の、本当の基盤にあるものだと思うのです。