冬季オリンピックで若い選手たちの輝く命のきらめきに心を動かされて、たくさん感動した直後に、ウクライナ侵攻がはじまって、心を痛める日々でした。
政治的な思惑が、国と国とのあいだで合致しないことは多々起こりますが、それに巻き込まれてしまう、ただ平和に自分の人生を生きていきたいだけの大多数の人たちにとっては、厄災としか言いようがありません。
この2年のコロナ禍で、私たちのつながりの多くが分断されて、触れ合うその温かさのあいだに、冷たくて無機質なプラスティックが置かれ、そのことに多くの痛みと悲しみを体験してきました。
大いなる自然の息づく世界で生きている限り、自然災害にたびたび見舞われることは免れませんが、そこに人類までも共に災いを引き起こす側にまわることが終わる日は、いつかくるのでしょうか……。
何も知らなかった若い男性が戦地の前線へ送り込まれたり、自分の生まれた土地をあきらめて、見知らぬ場所へ向かうしかない人たちを見たりするにつけて、心がとても痛みます。
8ハウス研究会の2月と3月のテーマがそれぞれ「死ぬこと」と「生きること」でした。
命にまつわるテーマを目の前にしたとき、私たちは何かをごまかすことも、カッコつけることもできなくなって、ただひたすら正直に、いまの自分の真実と向き合うことしか、できなくなります。
そして、その純粋な生きている命の源に触れるたびに「生きているだけでいいのだ」「あなたがここにいて、こうして生きていること、そのものが祝祭なのだ」という思いが強く湧き上がるのを感じるのです。
ほとんどの母親が「無事に生まれてきてくれさえすればいい」と願ったことがあるはずです。表面上「本当に産んでも、いいのかな」という迷いがある人でも、どこか本能的な部分で「この子を産む」という決意があったからこそ、無事に出産できたのだと思います。
おめでとう。おめでとう。
かわいいね。ちっちゃくて、かわいいね。
泣き声もかわいいね。
小さな手も、小さな足も。
ちっちゃくて、いとおしいね。
生まれてきてくれて、うれしいね。
たとえ覚えていなくても、大人たちから浴びた祝祭のシャワーが、私たちの存在の最初の経験として、その根っこに刻み込まれているのかもしれません。
だから、命に触れると感じるのです。
あなたが生まれてきてくれてよかったと。
あなたが、いまここにいてくれて、うれしいと。
それをどうして、何の権利があって、その命のきらめきを勝手に摘み取っていいというのだろう。
自然の厄災に、大勢の命のきらめきが奪われて、それでもそれを守ろう、救おうとする人たちがいて、お互いがお互いの命を補償し合って生きているこの世界で。
誰もに自身の人生を生きる権利と責任があるのだと思うのです。
数年前に書いたものですが、私の個人的な311の体験です。よかったら、お読みください。