こないだ第2回目の『8ハウス研究会』が開催されました。
テーマは「パワー・コントロール・暴力・恨み」というものでしたが、今回もとてもインテンスに刺さるテーマとなりました。
8ハウスの生み出す最も強烈で本能的な、ある種のサバイブするために動物が持ち合わせている力をどのように使っていくか……ザビエは8ハウスと同じサクシーデントハウス(2-5-11の固定ハウス)との絡みで説明してくれます。
とてもわかりやすい説明なので、話を聴くと納得できることばかりなのですが、知らなければ、ほんと、気づきにくく、見過ごされやすく、人間関係の中で言語化されず、可視化されずに隠されてしまうな…としみじみと感じます。
冥王星プルートの別名「アイデス」は「姿の見えないもの」で、彼はいつも身体を透明に隠せる兜をかぶって戦いに赴きます。
それは私たちの中でも同じ元型の力として働くため、私たちは本能に近い激しい力や衝動を滅多に人に見せません。それは豊かな力を他者に奪われないようにするため、秘密裡にされるわけですが、そうすることで他者に隠すだけでなく、自分でも見失ってしまうことが起こるわけですね。
無意識に隠されたものは、より強烈な形で体験される…というのが、通常起こることです。激しい力を秘めていながらも、そのことを隠していたり、忘れてしまったりすると、それを体験させられることが、他者を通して起こるでしょう。
その力によって、私たちが周りの誰かから傷つけられたり、尊重されなかったりしたとしたら、それはそのまま、痛みや傷として自身の内側に蓄積されていきます。
それは痛みや傷と共に8ハウスの暴力的な強く激しいエネルギーを秘めるということで、そのことに無自覚でいると、それは自分や他者に向けられます。
「もし、そのことに気づかず、痛みや傷を持ったまま、親密な関係や(5ハウス)、社会で人々(11ハウス)と関わったとしたら、能動的か受動的な形で、その恨みを表現することになるでしょう」
ザビエの言葉が刺さります。本当にそうですよね。世の中で起こる大半のパートナーシップや人間関係の問題はここに集約されていると思います。
自信がないから自分を表現しないか、必要以上に表現しすぎてしまうか。あるいは関わり過ぎないように距離をとるか、みずから仕切って思い通りにしようと働きかけてしまうか。
そのことに気づいているのか?という、ザビエの問いかけに、大きなため息が洩れてしまいます。
ちょうど、研究会の前後で「ジェイミー!!」という映画をAmazonプライムで観たところでした。
これは実話がベースの「16歳でドレスでプロム(卒業パーティー)に参加した男の子」の物語です。ドキュメンタリーで有名になり、その後ウエストエンドでミュージカル化されたものが、映画になったものでした。本当は劇場で公開される予定が、コロナの関係でアマプラの配信になったようですね。
劇場公開される予定があっただけに、ダンスも歌も見ごたえありです。
内容としては、そんなに複雑なものではなく、ドラッグクイーンになることを夢見ている16歳のゲイの男の子が、その夢と彼のアイデンティティによって、周囲の親、友人、クラスメイト、先生たちに波紋をもたらしていくというもの。
LGBTQの物語ですが、これは5ハウス「彼が内側から湧き起こる情熱と共に個性を表現する物語」であり、そのパワーの源である8ハウスの命の衝動ときらめきを放つことで、集合の中で彼の存在が尊重されるのか?安全であるのか?というテーマをはらんだ物語です。
観ながら、その情熱や、アイデンティティへの周囲の反応、それに対する彼の葛藤に何度も心を打たれて泣きました。ジェイミー役の俳優さんがめっちゃキュートです。
クラスメイトに意地悪な子がいて「ゲイのフリーク(変態)」と、からかうのに対して「そうだよ。僕はゲイ。ゲイ、ゲイ、ゲイ……だから何? そんな言葉で僕は
傷つかない」と言い放つところとか。
傷ついた彼が母親に「もし僕が普通の男の子だったらって、思ったことある?」と尋ねた瞬間、母親が「NEVER(決して)」と間髪入れずに即答するところとか。
ジェイミーを取り巻く環境には、彼の絶対的な味方も、彼を受け容れるのが難しく拒絶したり、戸惑ったりする人たちもいて、その反応に振り回されながらも、「自分」になっていく……。
8ハウス研究会のテーマとあまりにもドンピシャでリンクしていたので、ものすごくいろいろなことを内側で考え、感じながら観ていました。
どうして安全で、自分が尊重されていない状況のなかで、堂々と自分を表現できるというのだろう。
ザビエはどの講座でもいつも必ず「尊重すること」の大切さを話してくれるのですが、それを聴くたびに、日本の文化に尊重ってあるのかな?と、考えさせられます。
優れた功績を讃えて尊敬したり、人に迷惑をかけないように配慮したりはするけれど、その人の存在や命の輝きそのものに対して、ひとりひとりに、果たして尊重したり、されたりするのだろうか?
親子のあいだに愛はあるとは感じられるけど、親が子どもの意志や感情や存在を尊重しているといえるか?
自身の信念や信条を通して、相手をジャッジして見ているだけじゃないか?
自分自身に対しては?
いつも、なんだか落ち着かない、ざわざわした気持ちにさせる、パンドラの箱を開けるような8ハウス研究会です。