2023年3月12日、下越の神社仏閣参拝記録の続きです。
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こちらの記事に関するお寺の関係者様や地域の方々へのお問い合わせは避けてくださいますようお願い申し上げます。
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ここからは実家の方角に引き返します。その道すがら、当初の予定通り菅谷寺に立ち寄りました。
こちらは『菅谷不動尊』として知られる名高いお不動様のお寺です。既に複数回の参拝経験がありました。
個人的に、祓う力の強力さにおいて信頼を置いている神仏といえば不動明王様なんです。
ブログでは詳細を書きませんが、ちょっと霊的に良くないことをやってしまったかな? ということがしばらく前にありまして、その後に護摩焚きを介して厄払いをお願いしたのがこの菅谷不動尊です。
その際も何か霊障があった訳ではないのですが、念のために……ですね。菅谷不動尊は眼病に対しての霊験あらたかとの評判ですが、この時は目に関わる案件ではありませんでした。
ダウジングによれば、預けた護摩木を焚く日に、こちらの眷属の紅龍様が自室に現れ、不動明王様の祓いの力を行使してくださったそうです。その後も毎月28日(不動明王様の縁日です)に紅龍様が様子を見に来てくださっているのだとか。
護摩焚きの後いただいたお札
そういう経緯で、参拝に留まらない縋り方をした経験のある菅谷寺。こちらも地域の方々に愛され、その愛を静かに湛えるかのような印象を覚える、懐が深いと思わせる聖域です。
この日の参拝ではないのですが、こちらのお寺において摂社全てにおいて丁寧に挨拶し、その上で近況報告や感謝の言葉を述べつつ参拝なさっているお方を見かけたことがあります。
こういうお方こそ神仏に愛され目にかけて頂ける信仰心をお持ちなのだろうなぁ、と思うと同時に、年月と共に多くの方々のそういった信頼・お慕いする気持ちを受け止め積み重ねられてきた仏閣なのだなとも実感したものです。
この日も複数の参拝者様が和やかにお参りされておりました。
早速、この日の霊的な参拝記録を探っていきましょう。
当然ながら、非常にパワフルで存在感がある不動明王様がおられます。黒鉄ちゃん達たちも不動明王様にご挨拶し、その時に一言ご教示をいただけたそうでした。
それに加え、最澄様ともコンタクトが取れたとのことでした。こちらのご本尊である不動明王像は最澄様が日本に持ち込んだと伝えられているのです。
他の仏様もおられ、そちらにもお参りしたのですが、この日は黒鉄ちゃんたちは他の仏様とはお話しなかったそうです。
仏様以外の霊的存在についてです。
境内の『みたらせの滝』は眷属の龍様の仕事場兼宿り場となっているようです。
護摩焚き以降にうちに巡回してくださるようになった紅龍様もこの日みたらせの滝にいらっしゃったようですが、お仕事中であったので黒鉄ちゃんたちは挨拶だけに留めたそうでした。
こちらの紅龍様含めて、この時はみたらせの滝に龍様が三名おられたそうです。
そのうちの一人が一時期うちに滞在していた紅蓮龍(赤黒龍)の泰山くんでした。まだ龍神の資格は得ていないようでしたが、見違えるほど逞しい大人の龍となっていたようです。黒鉄ちゃんも泰山くんとここでたっぷりお話したとのことです。ちなみに、同時にこちらに弟子入りした『火の鳥の縁ちゃん』という子もいたのですが、この日は不在だった(菅谷不動尊に在籍はしている)そうです。泰山くんも毎月28日のうちへの巡回に参加してくれているそうでした。
この日滝に居たもう一名はこれまで個別認識していなかった黒龍様であるとのことでした。
そして菅谷不動尊の境内には、仏様の眷属ではない自然霊の狼さんが生息しています。
境内、といっても仏様の領域には常駐していない(入ることはある)そうです。ならばどこにいるのか。境内の奥、石段を上った先にある『日吉神社』の領域を活動範囲としているようです。神社の神様の眷属でもない、自然の精霊たちです。この日は十四名の狼さんが日吉神社にいらしたようです。
日吉神社の領域は男性の鼻高天狗さん(一名)が守っておられます。そして、菅谷の土地神として炎の力を持つ、銀色を帯びた赤い龍神様がおわします。
こちらの紅龍神様からは二名の女性の狼さんが彼女たち自身の勉強・修行のために遣わされました。双子の姉妹で、人間で言うと中学生程度の成熟度。どちらも大地の力を宿していて、毛皮も目も黒色。呼び名は『理沙(りさ)』・『智沙(ちさ)』としました。
この後、新発田市内の他の神社などを尋ねるのもありかなと思っていたのですが、夕方に差し掛かっていたのでこちらの参拝をもって神社仏閣巡りを切り上げ、農産物直売所などに寄りながら新津の実家へと戻りました。新潟県内に店舗のない成城石井様の製品もとんとん市場様で購入できる! などの気付きを得た帰路でした。
私は参拝の度に神秘現象や明らかなお導きを感じる! という訳ではないのですが(気付いていないだけという可能性は大いにありますね)、この日の参拝は驚くほど『導かれている』感覚があった、不可視の計らいを実感できた参拝となりました。