記憶(42) 死を悼む、愚かな大人がいて子供が死ぬ残酷 | 自分史の旅 tarojie

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黄昏の落ち葉が似合う年齢になった。何かを残すこともない過ぎ去る日々、何かストーリーを書いておきたいと思いブログを始めたものの面倒だと思う日もある。忘れること思い出すことできなくなるかもしれない。まだ真黄色な楽園ではない。少しは色もある萎びれ枯れて行く。

記憶(42) 死を悼む、愚かな大人がいて子供が死ぬ残酷

 

童話に『マッチ売りの少女』と『フランダースの犬』がある。マッチ売りは1枚の絵からアンデルセンが書いたと言われている。もう一方は英国のウィーダが作者である。どちらも共通するのは1800年代後半、ベルギーとデンマーク、そして最後に子供が死ぬ残酷。

 

いかにも天国に旅立ったように幸せに死んだように描かれている。哀しいが救いを残す余韻が少しある。どちらもフィックションだ。1800年代はヨーロッパでは産業革命がはじまり多くの新しい道具が発明される。鉄道、電気、写真もそうだ。

 

帝国主義がはびこり多くの植民地ができた時代だ。経済が拡大しより大きな欲望の時代に突入している。もう一つの背景は貧困が必ず入っている。主人公が金持ちでは物語はつまらない。貧乏な少年少女の死をもって話は完結している。

 

日本の童話では子供が亡くなったおじいちゃん、おばあちゃんに会いに行くような話が多い。残酷に子供が最後に死んでは流行らないかもしれない。日本人のメンタルと社会的背景かも知れない。

 

童話ではないが『火垂るの墓』では子供が死に物語が始まる。サクマのドロップ缶の蓋が開いて蛍が飛び交うシーンである。サクマドロップの廃業はまだ昨年の話だ。私的にはまだ最近の話で童話ではない。今のウクライナとガザにはそんな死が多くあるであろう。

 

何となく湿っぽく書いてしまった。今日23日、外は雨。井上陽水氏に『傘がない』フレーズに『行かなくちゃ 君に会いに行かなくちゃ 君の街に行かなくちゃ 雨に濡れ』『君にそんな人いたかね』『忘れたかね』

(2024年2月25日)