経歴
1987年 東京都中央区の聖路加病院にて生まれる
1994年 江東区立南陽小学校入学
1997年 江東区立越中島小学校へ転校
2000年 江東区立深川第三中学校入学
2003年 香川県立高松高等学校入学
2006年 大阪大学経済学部入学
2010年 公認会計士試験合格
2011年 ストリートダンスで学生日本一
プロフィール
1987年東京都聖路加病院にて3人兄弟の末っ子として生まれる。
父はサラリーマン、母は専業主婦という典型的な中流家庭で生活に関しては特に不便もなく、また兄弟とは年が離れた末っ子として割と大事に育てられた。と思う。
兄がヤンチャだったことから事あるごとに母の大変そうな姿を見て育ったためか、心配させたくないという思いもあって反抗期はなく、良いように言えば素直な子だった。悪く言えば自己主張の弱い子だったとも言えるだろう。根はあまりまじめではないが、目立ちたがり、かつ見栄っ張りな性格から、幼いころから試験前になると必死に勉強していた。
中学までを東京で過ごし、高校からは父の仕事の都合により香川へ行くことに。
大学からは大阪で一人暮らしをし、今に至る。趣味は高校から始めたダンス。現在は友人たちと事業立案中。
大学院入学、そして世界へ
就職試験に敗れた僕には、途上国の発展に貢献したいというオモイがあり、大学院進学を決意。途上国開発の研究をするため、経済学研究科に入学した。もう一度留年して就職活動をするよりも、途上国の発展に貢献するという将来に繋がっていると思えた。しかし憧れや夢だけでモノを語ることに違和感を覚え、自分の目で途上国を見る必要があると思った。大学院での研究が始まれば一年も休めない。働き出したらなおさら休みなどない。今しかないというオモイもあった。そこで、大学院を入学と同時に一年間休学し、海外放浪の旅に出た。
①大学院を休学し、世界を周るという決断
②海外に出発
③現地での情報集め
④海外放浪のルート
⑤各地での困難
⑥一年の放浪を振り返って
①大学院を休学し、世界を周るという決断
大学院を一年間も休学し、世界一周に旅立つと決意するにあたって、二つ大きな不安があった。一つ目は「一年間も休学して大丈夫か」という不安。これに対しては、自分の中で約束事として、後半の半年間は経済学の学習をしながら旅をする、最低でも復学の一カ月前には日本に帰る、ということを決めた。もう一つは、「死なないか」という不安。これに関しては、不安よりも、「危険かもしれないが今行く必要がある」というオモイが勝った。
②海外に出発
世界一周をするにあたっての下調べはほとんどしなかった。現地で一番安い宿に泊まり、安い飯を食う。情報は現地で集め、途上国を中心に、面白そうな地域を周る。英会話は少しできたため、1ヵ国目の中国語だけ、簡単な会話本を持って行った。
③現地での情報集め
情報集めには様々な手法がある。現地の人間に訊く、旅行者に訊く、安宿にあるガイドブックを見る、インターネットを使う…etc。
④海外放浪のルート
日本→【船】中国→【鉄道】香港→フィリピン→ベトナム→【バス】ラオス→【バス】タイ→インド→【バス】バングラデシュ→マレーシア→日本→フィリピン→イギリス→フランス→スペイン→モロッコ→トルコ→【バス】シリア→【バス】ヨルダン→【バス】イスラエル→【バス】エジプト→エチオピア→【バス】ケニア→【バス】ウガンダ→【バス】タンザニア→【バス】ケニア→日本
⑤各地での困難
あえて詳しく書くことは避けるが、途上国はどこに行っても騙そうとするやつがいる(宿泊費やバスの乗車賃をふっかけようとする等々)。そういう輩とは常に全力で言い争ってきた。舐められるわけにはいかないという意地のみだった。どこの国に行っても日本人は騙しやすく、馬鹿正直というイメージを持たれている。裏を返せば、人は疑わず、相手を尊重すると言えるが、そんな日本人が舐められているという現状に黙っていられなかった。夜遅くひとりで安宿を探さなければならず、心折れそうになったときも日本から持ってきた音楽を聴きながら負けるものかと踏ん張った(めちゃ熱いやんオレ!笑)。
⑥一年の放浪を振り返って
この一年間の海外放浪が、今までの自分の価値観を大きく覆した。それまで見ていたモノがいかに操作され、偏ったモノであったのかを痛感した。例えば途上国は貧困で、救うべき対象だ、といったような価値観は簡単に壊れた。収入額で見れば貧困な場所でも、十分に幸せなところもあるということを自分の目で確認することができた。もちろん救うべき貧困地域はいくらでもあるのだが。
この海外放浪の経験から、「自分」が本当に喜びを感じるコトはなにかを意識するようになり、また何事に関しても、もっと自分の頭を使わなければと強く思うようになった。
現在
起業に向け、爆走中。
就職試験に敗れた僕には、途上国の発展に貢献したいというオモイがあり、大学院進学を決意。途上国開発の研究をするため、経済学研究科に入学した。もう一度留年して就職活動をするよりも、途上国の発展に貢献するという将来に繋がっていると思えた。しかし憧れや夢だけでモノを語ることに違和感を覚え、自分の目で途上国を見る必要があると思った。大学院での研究が始まれば一年も休めない。働き出したらなおさら休みなどない。今しかないというオモイもあった。そこで、大学院を入学と同時に一年間休学し、海外放浪の旅に出た。
①大学院を休学し、世界を周るという決断
②海外に出発
③現地での情報集め
④海外放浪のルート
⑤各地での困難
⑥一年の放浪を振り返って
①大学院を休学し、世界を周るという決断
大学院を一年間も休学し、世界一周に旅立つと決意するにあたって、二つ大きな不安があった。一つ目は「一年間も休学して大丈夫か」という不安。これに対しては、自分の中で約束事として、後半の半年間は経済学の学習をしながら旅をする、最低でも復学の一カ月前には日本に帰る、ということを決めた。もう一つは、「死なないか」という不安。これに関しては、不安よりも、「危険かもしれないが今行く必要がある」というオモイが勝った。
②海外に出発
世界一周をするにあたっての下調べはほとんどしなかった。現地で一番安い宿に泊まり、安い飯を食う。情報は現地で集め、途上国を中心に、面白そうな地域を周る。英会話は少しできたため、1ヵ国目の中国語だけ、簡単な会話本を持って行った。
③現地での情報集め
情報集めには様々な手法がある。現地の人間に訊く、旅行者に訊く、安宿にあるガイドブックを見る、インターネットを使う…etc。
④海外放浪のルート
日本→【船】中国→【鉄道】香港→フィリピン→ベトナム→【バス】ラオス→【バス】タイ→インド→【バス】バングラデシュ→マレーシア→日本→フィリピン→イギリス→フランス→スペイン→モロッコ→トルコ→【バス】シリア→【バス】ヨルダン→【バス】イスラエル→【バス】エジプト→エチオピア→【バス】ケニア→【バス】ウガンダ→【バス】タンザニア→【バス】ケニア→日本
⑤各地での困難
あえて詳しく書くことは避けるが、途上国はどこに行っても騙そうとするやつがいる(宿泊費やバスの乗車賃をふっかけようとする等々)。そういう輩とは常に全力で言い争ってきた。舐められるわけにはいかないという意地のみだった。どこの国に行っても日本人は騙しやすく、馬鹿正直というイメージを持たれている。裏を返せば、人は疑わず、相手を尊重すると言えるが、そんな日本人が舐められているという現状に黙っていられなかった。夜遅くひとりで安宿を探さなければならず、心折れそうになったときも日本から持ってきた音楽を聴きながら負けるものかと踏ん張った(めちゃ熱いやんオレ!笑)。
⑥一年の放浪を振り返って
この一年間の海外放浪が、今までの自分の価値観を大きく覆した。それまで見ていたモノがいかに操作され、偏ったモノであったのかを痛感した。例えば途上国は貧困で、救うべき対象だ、といったような価値観は簡単に壊れた。収入額で見れば貧困な場所でも、十分に幸せなところもあるということを自分の目で確認することができた。もちろん救うべき貧困地域はいくらでもあるのだが。
この海外放浪の経験から、「自分」が本当に喜びを感じるコトはなにかを意識するようになり、また何事に関しても、もっと自分の頭を使わなければと強く思うようになった。
現在
起業に向け、爆走中。
就職活動and失敗
大学3年生になり僕にも、大学生の多くが経験する就職活動というビッグイベントを迎えることになる。
小さい頃から仕事に対する夢や目標とは無縁だったものの、海外への憧れと、大きなコトがしたいというオモイ、そして厄介なことに、仕事と割り切ってつまらないことをするということができないという性分を持っていた。そんな僕でも就職活動を通じて、自分には途上国の発展に貢献したいというオモイがあることに気づいた。当時僕の興味を惹いたのが、「総合商社」。愚かにも五大商社と、違う業界の3社のみしか入社試験を受けず、見事全敗。複数その要因はあるが、何よりも完全な準備不足だった。社会というものを舐めきっていたのだ。就職がダメなら大学院で研究しようという考えも少なからず頭にあった。なんと情けなくカッコ悪い。
それまで何をしてもなんとか上手くこなせてきた。就職活動もそうだろうと思っていたが、社会はそれほど甘くはないようだ。22歳にして始めての挫折を味わうことになった。
大学3年生になり僕にも、大学生の多くが経験する就職活動というビッグイベントを迎えることになる。
小さい頃から仕事に対する夢や目標とは無縁だったものの、海外への憧れと、大きなコトがしたいというオモイ、そして厄介なことに、仕事と割り切ってつまらないことをするということができないという性分を持っていた。そんな僕でも就職活動を通じて、自分には途上国の発展に貢献したいというオモイがあることに気づいた。当時僕の興味を惹いたのが、「総合商社」。愚かにも五大商社と、違う業界の3社のみしか入社試験を受けず、見事全敗。複数その要因はあるが、何よりも完全な準備不足だった。社会というものを舐めきっていたのだ。就職がダメなら大学院で研究しようという考えも少なからず頭にあった。なんと情けなくカッコ悪い。
それまで何をしてもなんとか上手くこなせてきた。就職活動もそうだろうと思っていたが、社会はそれほど甘くはないようだ。22歳にして始めての挫折を味わうことになった。