カナダでの3ヶ月間~語学学校、そして農家へ~
大学3年になる春休みに、英語習得のためカナダに渡る。
大学2年の春にアメリカを1カ月旅行したことにより、英語を話すことへの憧れが強くなる。
大学の授業の履修登録がインターネットで行えたため、大学を休学することなく3ヵ月間カナダに滞在できた。
①なぜカナダ?
②いざトロントへ
③語学学校に失望
④語学学校を辞め、農家へ
⑤農家での生活
⑥カナダでの3ヶ月間を振り返って
①なぜカナダ?
語学留学を目的としてカナダに渡ったのだが、留学先をカナダにした理由はいたって簡単。
すべてを自費で賄う必要があったので、留学先を決めるにあたっての条件は二つ、お金(具体的には学校の価格とその国の物価)と日本人の少なさ。これらの条件でインターネットや雑誌を見て語学学校を探した結果、それがカナダのトロントにあった。現地の滞在先は、ある私立大学に併設されたアパート。仲介業者に頼んでこちらから賃貸契約をしていった。
②いざトロントへ
カナダの滞在期間は3ヵ月。必ず英語を習得して帰るという決意をし、意気揚々とトロントに出発。そうしてトロントに着いたのは2月の後半。真冬真っ只中。気温-25℃。思い出したくもないほどの寒さ。翌週から語学学校へ通うことになるのだが、そこには大きな失望が待っていた。
③語学学校に失望
その大きな失望とは、語学学校で学べることの内容の薄さ。1日4コマか5コマの授業を受けたのだが、周りの受講者も英語学習者なので、先生のみがネイティブスピーカーという環境。(いや、あかんやん!)もちろんそれは行く前からわかっていることなのだが、学習内容が、自分の予想以上にレベルの低いものだったため(ややこしい笑)、半月も経たないうちに、学校に通うことが意味のないように感じるようになった。滞在3ヶ月で英語を習得するという目標が、余計に焦りを募らせた。自分の英語力が伸びている実感ができない。学校の授業で他の生徒と話していても、ネイティブではないため喋るのも遅いし、語彙も少ない、自分の英語を訂正してもらえない、そんな自分勝手なことばかりが気になってしまっていた。気負いすぎだった。
④語学学校を辞め、農家へ
トロントで語学学校に通う生活に嫌気がさしていた僕に救いの手が伸びたのは、ちょうど1カ月が経った頃だった。同じアパートに住むカナダ人とすごく仲良くなり、頻繁に夕食を共にすることになった。彼との会話の中で、学校に対する不満をぽろぽろとこぼしていると、彼が僕に農家を紹介してくれると言うのだ。もちろん即決で、お邪魔させてもらうことにした。語学を習得するにはもってこいの環境だ。こんなチャンス逃す手はないと。
⑤農家での生活
これはあとになって知ったことだが、友人に紹介してもらった農家はWWOOF加盟農家だった。WWOOFとは世界的に組織されている有機農家の組合のようなもの。この加盟農家では、労働への対価は賃金という形ではなく、1日3食の食事と宿泊施設を提供するという形をとる。僕のような旅行者もたまにはいるようだが、有機農業を学ぶという目的で訪れる人がほとんどだ。毎日6時間働いて、空いた時間は自由。友人が僕の英語を学びたいという事情を説明してくれていたこともあって、みんな丁寧に英語を教えてくれた。しかし、彼らと生活し、関係を築いていく中で、気づけば英語を教わるというのは、会話の中の単なる一トピックに過ぎなくなり、僕の中の英語習得への焦りも自然となくなっていった(習得できたというわけではないが、帰る頃にはいわゆる日常会話で困ることはほとんどなくなった。ネイティブ同士が話しているのはさすがに理解できないが)。たった1ヶ月半の滞在だったが、彼らには本当に大きな影響を与えてもらった。教わったのは英語なんかよりもむしろ人生に対する考え方だった。周りの目を気にする必要はないのだということ、自分の思うがままに生きていいのだということ、どんな他人でもいいところを探し、受け入れるということ。もちろん頭では理解できていることだろうが、それを実践することは難しい。彼らのおかげで欧米へのコンプレックスもほとんどなくなった。感謝の想いでいっぱいだ。あれほど別れが惜しかったのは、人生で初めてだったかもしれない。
⑥カナダでの3ヵ月を振り返って
当時の自分になにかアドバイスできるとしたら、語学習得のため、その国に渡ることは間違いではないが、語学学校に通うことは必ずしも近道ではない。語学習得への一番の近道は、現地の人と交流しながら働ける環境に身を置くことだ。今ならインターネットでWWOOF以外にも農家や働き先を見つけることはそれほど難しくないだろうから、語学学校に通うのであれば、働いたほうが何倍も早く身に付くだろう。以下語学学校への僕の考えと農家での生活の個人的な感想を記す。
語学学校
語学の習得を第一目標とし、既に中学卒業程度の英語の知識があれば、語学学校に通う必要は必ずしもないと思う。語学学校で学べるレベルのことは、ほとんど自分ひとりでできることばかりだということだ。ひとりでできないことは、会話ぐらいだろう。それも自分でネイティブの友達を作れば必要ない(これは運が良ければすぐに見つかるが、それほど簡単なことではないと思う。現地の大学に行って掲示板に募集広告を出す。滞在先の周りで探す。ランゲージエクスチェンジの集会を探すなど、様々な手段を駆使しよう)。
語学学校のメリットを挙げるとすれば、友達を作りやすい環境であることと、多様な国籍の人と出会うチャンスがあることだろう。もちろん同じ国籍の者で集まるというのはよくあることだが、それでも多様な国の文化を知るにはいい機会だと思う。
農家
本当に充実した1ヶ月半だった。カナダ滞在の3ヵ月間すべてを費やしたかったと思うほどに、いい経験ができた。大阪市内で生まれ育ったため、農業体験もほとんどしたことがなかった僕にとっては、毎日が新しいことだらけで、楽しいことの連続だった。何度も繰り返すが、農家の人達との出会いが何にも代え難い温かい経験になった。
初の海外旅行~アメリカでのひとりバックパッカー1ヵ月間の旅~
大学2年になる春休みに、アメリカにひとりバックパッカー旅行に行くことを決意する。
①-1なぜアメリカ?
①-2なぜひとりでバックパッカー?
②アメリカでの1ヵ月間
③アメリカでの一ヶ月間を終えて
①- 1
なぜアメリカ?
僕は欧米に対するコンプレックス常に持ち続けてきた。
物心ついた頃から、身の回りには映画、音楽、ファッションに至るまで、あらゆる欧米文化が溢れており、僕はそれら欧米文化をカッコいいとする環境で育った。特に映画の影響もあってか、外国=アメリカという考えを持っており、それは本当に強い憧れでもあった。裏を返せばその強い憧れは、自分が日本人であることに対するコンプレックスにまでなっていた。
その漠然とした憧れであり、コンプレックスの対象でもあるアメリカを自分の目で見たいと思ったことが、アメリカに旅立った大きな要因のひとつである。
①-2
なぜひとりでバックパッカー?
当時(大学一年)の僕は、サッカー、遊び、バイトと毎日予定がビッシリの生活をしていたわけだが、ふと自分に対する危機感のようなものを抱くということが多くなっていった。このままで大丈夫か?という不安が心の中で巻き起こる。大学生活は楽しいが、ただそれだけで、全く成長していない自分に言いようのない焦りを感じていた。そして、これは自分に試練を課す必要があるなと思うに至った。(武士か!笑)
②アメリカでの1カ月間
ガイドブック片手に安宿に泊まりながら、西海岸はサンフランシスコ、ロサンゼルス、ラスベガスをバスと鉄道で周り、飛行機でニューヨークへ渡り帰国。
アメリカでの一ヶ月間は、海外経験ゼロで英語もろくに喋れない僕にとって、毎日が弱い自分を押し殺す戦いだった。アメリカでの自分に課したルール(?)は、街中や宿、電車やバスで出会った人間には何でもいいのでとりあえずこちらから話しかけるということ(これは試練なので、自分を追い込む必要があります)。自分がアジア人だからか欧米人から話しかけられることはほとんどなかった。自分で課したルールの縛りが厳し過ぎて、端から見れば好奇心旺盛すぎると思われても仕方がないくらいに、ところ構わず様々な人(ゴツイ黒人にも冷たそうな兄ちゃんにも)に話しかけた。これは当時の僕にとって本当に勇気のいることだった(常に自分に鞭打ってました)。
もちろん無視されたり、あしらわれたりもしたが、それでも僕を突き動かしていたのは、自分の持つ欧米に対するコンプレックスと弱い自分でありたくないという気持ち、そして成長しなくてはという焦りだった(成長を定義することなくただ漠然とそれを渇望していた)。
③アメリカでの1ヶ月間を終えて
アメリカに渡ったときの僕はただがむしゃらだったと思う。半月が経つ頃には、アメリカにも慣れ、焦りはほとんど感じなくなっていた。一方で、英語を話せるようになりたいという思いが強くなり、翌年カナダに3ヶ月間滞在することになる。
当時の自分に思うことは、もっと目標を明確にしておけば、違った経験もできたであろうということ。何を見たくて、アメリカ旅行を終えた後どうなっていたいか、という目標。具体的な目標を持っていれば、自分と同世代の学生がどんなことを考えているのか、アメリカと日本では何が違うのか等、他のことにも目を向けられたと思う。
T.F
1987年 大阪市内のヤンキーの多い街に生まれる。
1994年 大阪市立喜連小学校 入学。
2000年 大阪市立喜連中学校 入学。
2003年 大阪府立天王寺高等学校 入学。
2006年 大阪大学 入学。
2007年 アメリカでのバックパッカー旅行。
2009年 カナダでの語学学校、農家での就労。
2010年 就職活動に失敗し、大学院進学。
2011年 大阪大学大学院経済学研究科 入学 同時に世界一周旅行へと出発。
2012年 現在。
自己紹介文
自営業を営む父親と中学校の保健室の先生である母親、5歳年上の兄と僕。両親の離婚によってこの家庭が崩壊を迎えるのは僕が4、5歳の頃。兄と共に父親に引き取られる。父親と母親どちらと暮らすかという選択肢は僕達兄弟には与えられず、両親とその周りの人達の話し合いで決定されたのだった。そのときは、これは僕が口を出せるような問題ではなく、両親の決定に納得せざるを得ない状況なのだと、妙に道理をわきまえたような考えだった。それからというもの、洗濯や洗い物、休みの日の炊事などを自分ですることになった。小学校高学年ぐらいになってくると、僕は自分だけが大変で、特別なことをしている気になっていた。しかし、もちろんそんなことはなかった。土地柄もあり、「家庭環境に難アリ」という子供はクラスに何人かは必ずいたのだ。年齢に関係なく、他にも大変な経験をしている人間はいる。幼いながらにそのことに気づくことができ、それからは周りを見る目が変わった。自分を悲観せず、同等の人間として接することができるようになったと思う。
中学校に入る頃には親友と呼べる 友人も複数でき、サッカーと遊びに没頭した。
学習塾に行かせてもらえたため成績も良く、父親になにかを言われたことはほとんどない。ただ唯一、他人に迷惑はかけるなとだけ言われて育った。
家では比較的おとなしかった(というよりはほとんど話さなかった)僕だが、外ではヤンチャな友人もおり、夜遅くに外を歩き回ることもしばしばだった。やることさえやっていれば、何をしてもいいと考えていた。高校に入ってもその生活はほとんど変わらず、高校2年間は、授業中は睡眠、放課後はサッカー、帰ってからは遊びという生活が続いた。
高校3年の春にサッカーを引退してからは、大学入学に向け、受験勉強をすることになる。ほとんど消去法で学部を選び、自分の学力に相当する大学に進学することになった。
1987年 大阪市内のヤンキーの多い街に生まれる。
1994年 大阪市立喜連小学校 入学。
2000年 大阪市立喜連中学校 入学。
2003年 大阪府立天王寺高等学校 入学。
2006年 大阪大学 入学。
2007年 アメリカでのバックパッカー旅行。
2009年 カナダでの語学学校、農家での就労。
2010年 就職活動に失敗し、大学院進学。
2011年 大阪大学大学院経済学研究科 入学 同時に世界一周旅行へと出発。
2012年 現在。
自己紹介文
自営業を営む父親と中学校の保健室の先生である母親、5歳年上の兄と僕。両親の離婚によってこの家庭が崩壊を迎えるのは僕が4、5歳の頃。兄と共に父親に引き取られる。父親と母親どちらと暮らすかという選択肢は僕達兄弟には与えられず、両親とその周りの人達の話し合いで決定されたのだった。そのときは、これは僕が口を出せるような問題ではなく、両親の決定に納得せざるを得ない状況なのだと、妙に道理をわきまえたような考えだった。それからというもの、洗濯や洗い物、休みの日の炊事などを自分ですることになった。小学校高学年ぐらいになってくると、僕は自分だけが大変で、特別なことをしている気になっていた。しかし、もちろんそんなことはなかった。土地柄もあり、「家庭環境に難アリ」という子供はクラスに何人かは必ずいたのだ。年齢に関係なく、他にも大変な経験をしている人間はいる。幼いながらにそのことに気づくことができ、それからは周りを見る目が変わった。自分を悲観せず、同等の人間として接することができるようになったと思う。
中学校に入る頃には親友と呼べる 友人も複数でき、サッカーと遊びに没頭した。
学習塾に行かせてもらえたため成績も良く、父親になにかを言われたことはほとんどない。ただ唯一、他人に迷惑はかけるなとだけ言われて育った。
家では比較的おとなしかった(というよりはほとんど話さなかった)僕だが、外ではヤンチャな友人もおり、夜遅くに外を歩き回ることもしばしばだった。やることさえやっていれば、何をしてもいいと考えていた。高校に入ってもその生活はほとんど変わらず、高校2年間は、授業中は睡眠、放課後はサッカー、帰ってからは遊びという生活が続いた。
高校3年の春にサッカーを引退してからは、大学入学に向け、受験勉強をすることになる。ほとんど消去法で学部を選び、自分の学力に相当する大学に進学することになった。