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Life Collection

様々な人生のターニングポイントを集めたブログ

 僕は大学4年生のときに全国の大学生のダンスコンテストで優勝しました。僕一人でではなく、チーム全員で勝ち得た優勝でした。こう言えば、「個人個人がすごかったんだろう」と思われがちですが、正直そういうわけではなく、チーム力によってなされたものだったといえます。
 

・ダンスとの出会い
 それは中学3年生の時。テレビで芸人の岡村隆がブレイクダンスをしているのを見て一目惚れしました。高校に入って運よくダンス部というものが存在していたため、そこでダンスを始めることになりました。大学受験で1年間休んだのですが、大学に入って再度ダンスを始めました。


・趣味から生まれた苦しみ 
 大学2,3年のころは自分の実力も上がってきて、イベントで結果を残すことができました。しかしその後、スランプに陥ります。理想のダンスとできるダンスに乖離が生じ、何を目指せばいいのかが不明確になり一向に上手くならない時期が続きました。僕は会計士試験の勉強をしていたため、その頃は練習時間も満足に確保できず、たまに練習すれば怪我さえするという最悪な状況でした。同年代のダンス仲間はどんどん上手くなり関西のダンスシーンで頭角を現している中、僕だけ置いて行かれた気分でした。「上手い奴らの集団に仲間として加わりたい」「認められたい」そんな思いとは裏腹に距離は開いていくばかりでした。
 上手くいかない時期はイベントに行くことも控えるようになりました。しかしどんなことでも言えることですが、実践を積まない限り成長はありません。成長しないからまたイベントから離れる。完全に悪循環に陥ってしまい、ダンスが楽しくなくなりました。たまにイベントに行っても全然結果を残せず、つらい思いをするだけでした。何度「もうやめよう」と思ったことか。そしてそんなネガティブな考えをしてしまう自分が本当に嫌で情けなかったです。まさか大好きなダンスがこんなにも自分を苦しめるなんて思ってもいませんでした。「もうダンスでいい経験はできないのかもしれない。」日々そんなことを考えていました。


・チャンス
 こんな僕にチャンスが訪れたのは大学4年のときです。サークルの後輩たちが一緒にコンテストに出たいと僕を誘ってくれたのです。サークルの外の世界にばかり目を向けていた自分は、こんなにも身近に仲間がいたことに気づいていませんでした。それまで自分のことばかり考え、後輩たちに先輩らしいことをしてやれたことがなかったのに、そんな僕のことを慕って一緒にやりたいと言ってくれたことが本当に嬉しくて、先輩として「是非こいつらの力になりたい」「こいつらと最高の経験をしたい」、そう思い、僕はみんなとコンテストで優勝することを誓いました。
 
 この頃には会計士試験も終わり、時間も確保でき、ダンスにおもいっきり時間を注げる最後のチャンスでした。このチャンスを絶対に逃さないため僕は今までの人生で一番の気合いを入れて、このコンテストに臨みました。チームの士気を高めるための雰囲気作りや雑用、ショーの構成についても積極的に関わり、とにかくこの頃は全力でした。チームのみんなも全員がチームに貢献するようになり、いつしか、最高のショーケースが完成していました。
 結果は、まさかの優勝。正直できすぎだったと思います。それは今までの人生の中で1番涙であふれた瞬間でした。


・諦めないことで得られたもの
 それはチームメンバーが同じ志をもつことで絶大な力が生まれるのだと知ったことです。仲間がそれぞれチームに貢献し、メンバーそれぞれを尊重していました。チーム全員で同じ目標を持ち、本気でその目標を達成するために一生懸命になれたこと、そしてそのチームの一員であれたことは僕にとって最高の宝物です。「あー、ダンスやめないでよかった」って心の底から思ったと同時に、こう思えるほどの経験ができたことに感謝しています。
今になれば思えます。スランプの頃の僕は自分のことでいっぱいいっぱいだったと。自分の結果云々よりももっと大切なことがある。自分にも最高の仲間がいること、またその仲間の大切さを再確認できたこの経験は自分の中で大きなターニングポイントになったに違いありません。
・いきなり香川!?
 中学3年のある日、突然父に香川へ引っ越すことを告げられました。東京での生活しか知らなかった幼い自分にとって言葉や環境が大きく異なる土地に移住することは大きな不安がありました。当時高校受験を控えていた僕は、自分だけ都内の高校には行かないことをなかなか友達に言い出すことができず、受験の話になる度に複雑な気持ちを抱えていたことを今でも思い出します。結局自分から言い出すタイミングが見つからず、情けなくも担任の先生からみんなに告げてもらいました。それだけ当時の僕にとって地方に行くことは受け入れ難い事実だったのかもしれません。


・生活の開始と心境の変化
 当時、勉強はよくできていたため高校は必然的に県内の進学校に決定し、無事合格。大きな不安を抱え、香川県での生活はスタートしました。初めのうちは自分だけ標準語であることに対する違和感があったのですが、なかなか香川の言葉を話せませんでした。周りの言葉を聞いて話そうと思えば話せたのかもしれませんが、急に言葉を変えることに恥ずかしさもあったのだと思います。そこで僕は学年が変わりクラス替えでメンバーが新しくなるのを機に一気に香川の言葉にシフトさせました。不思議なことに、言葉を合わせるだけで一気にその土地に馴染めた気がしました。もう自分は香川の人間なんだぞって。
 
 最初はただ漠然と嫌で嫌で仕方なかったのですが、もし香川に引っ越していなかったら僕はずっと東京で生活を続けていただろうし、意味のないプライドを持ち地方都市に対してくだらない偏見を持ち続けていたことだろうと思います。僕は大学から大阪に行くことになるのですが、これは香川の生活を経験していなければありえない選択肢だったはずです。香川に来たばかりの頃は大学に入るときに東京に戻ればいいと考えていたため、大阪の大学という選択肢は自分の考え方が変わった証拠です。東京以外の都市に対する障壁が低くなり世界が広がりました。
 
 都会に生活しているだけでは見えてこなかった地方での生活感やそこでの人々に触れられたこと、また、環境の違いなんてすぐに適応できるものなんだと知ることができた香川での3年間は、僕にとって最初の大きなターニングポイントでした。
 僕は小学校4年生になるとき、新しい家に引っ越すことに伴って転校をしました。転校後も友達には恵まれたものの、先生には恵まれませんでした。担任の先生はすぐに生徒を殴る人でした。僕は体罰はある程度必要だと思っているのですが、その先生は、可愛がっている生徒には手を出さず、そうじゃない子には些細なことでも手を出す、言い換えると人を選ぶ先生だったのです。クラスでいじめにあっているような女の子の頭を教科書の角で叩いていたことがありそのときは衝撃でした。本来助けるべき立場の人間が、さらにいじめを助長するような行為をしていいのかと、幼いながらに思っていました。

小5のときのことです。担任の先生が始業式2日目に体調不良で姿を消したことに端を発し、僕らのクラスで学級崩壊が起こりました。全く授業にならず、担任の先生が次々に変わり、毎日のように先生たちが怒り狂っていました。ある女性教師は生徒とつかみ合いになって生徒の服をびろびろに伸ばし、またある女性教師は生徒の机を蹴り倒す、「このクラスにはウイルスがいる」と叫ぶ保健室の先生もいました。今思えば先生たちがおかしくなっていたことが崩壊の原因だと思えます。些細なことで声を荒げて怒る。怒るようなことじゃないだろってところで。恐怖心を与えて僕たちをおとなしくさせる作戦だったのでしょうか。それはすべては逆効果となり、僕たちはそれを面白がってさえいたように思います。

僕たちは確かにヤンチャだったのですが、決して悪い子たちではありませんでした。ただ信頼できる先生が現れないことに反発心を抱いていたにすぎません。小学校の先生は、小学生をなめない方がいいです。小学生といえ、理不尽な事には疑問を感じるものだし、頭ごなしに叱ることは何の解決にもならないのです。生徒の話をよく聞いてくれる先生がもしあの時いたなら、僕たちの小学生生活はもっと豊かになっていたかもしれません。