【八王子市】子安神社(4) | ぼっちあるき

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歩きながら考えてみた

本殿裏から再び拝殿前に戻って来ました。

 

 

右が金刀比羅神社の参道で、左が子安神社の拝殿です。間に建っているのは神水殿。安産祈願の御神水が湧いているらしいので、見てみましょう。

 

 

おぉ~!木花開耶姫の銅像が祀られている。神様だから当たり前なんだけど、なんとも神々しい。そしてクールビューティー。子授祈願の竹筒が奉納されているのを見ると、安産や子育てだけでなく、子宝に恵まれるご利益もあるようです。

 

子安神社には、浅間神社の祭神である木花開耶姫の系統と、櫛名田比売(稲田姫)の系統があります。こちらの子安神社の祭神は木花開耶姫で、境内末社には菊理媛の白山神社もありました。市杵島姫の厳島神社もあって、美神揃いの神社になっています。

 

 

こういうのって日本人らしいなぁ。底抜けの柄杓ならスルッと安産できると捉え、底有りの柄杓なら元の体に戻ると捉える。物は考えようというか、捉え方(見方)次第ということです。

 

視点を変えるのって難しいけど、まずは一人称(自分)から二人称(対象となる人)の立場に立ってみる。それが出来るようになったら、今度は三人称(客観的な立場の人)に置き換えてみる。さらには俯瞰(ある意味神の視点)してみる。

 

でもそういう使い分けって難しいので、もっとシンプルなやり方としてポジティヴ(前向き)に捉えてみる。別な言い方をすれば、積極的に良い所に目を向ける。

 

欠点(粗)って見ようとしなくても目に付くものです。だからそれは捉え方ではない。"look"や"watch"じゃなくて"see"な訳です。日本語で言えば、気にしなくても見えてしまうものと、注意して見ないと気付かないものの違い。

 

ちょっと極端に言えば、見えてしまうものってスルーでいいのです。視界に入ってきた光景の中で、気になれば注視しますよね。二度見とか。で、なぜ気になったのかが一人称で、自分がその立場だったらどう考えるだろうというのが二人称な訳です。

 

少し引いて三人称になると、あの一人称と二人称はお互いに何が気になるのだろうって感じ。さらに神の視点になれば、「人間のなんと愚かなことよ」と呟くみたいな。

 

逆に言えば、気になった三人称を二人称に引きずり込むのが人間関係で、僕はそこから逃れんが為にスルースキルを磨いています。だから社会参加していても、極力当事者となることを避けている。

 

「そんな人生寂しいよ」とか、「孤独死するよ」なんて声が上がったとしてもスルー。だって僕の人生を他人に定義付けられるのって、変じゃないですか。同様に、他人に人生訓やらを語るのもおこがましいと思っています。あくまでも「僕は」という一人称でしか語れないと思っているのです。

 

 

橘社がありました。子安神社を創建した橘右京少輔が祭神です。八王子開祖の人であり、学問の神として祀られています。

 

 

この子見るとなんかホッとする。

 

 

美神がいっぱい見所たくさんだったので、長居した子安神社。そろそろ次の目的地へと向かいます。神社を囲むように並ぶ提灯にはお店や企業の名前が多く、さすが街中の神社って感じですね。

 

次回は隣のお寺に立ち寄ってから、甲州街道を西へ進みます。それではまた!