【朝霞市】内間木通り | ぼっちあるき

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歩きながら考えてみた

美女神社から朝霞蕨線(県道79号)に戻って、新河岸川に架かる新盛(しんせい)橋を渡ります。

 

 

この先で黒目川と合流し、すぐに二手に分かれる新河岸川。一方は荒川に合流し、もう一方は荒川と並行して流れ、岩淵水門(東京都北区)で荒川と合流し、隅田川となって東京湾へ注いでいます。

 

川越藩主松平信綱によって舟運ルートとなった川で、新河岸川という呼び名もその際に付けられました。物流が鉄道に取って代わられ、嘗ての賑わいはなくなりましたが、その鉄道ですら道路に物流を譲ることとなり、時の流れの速さを感じますね。

 

 

川の上に立つと風を受けるので、少し肌寒く感じます。それでも、吹く風は南風だし、春分を過ぎて日も長くなっているので、十分に春を感じることが出来ます。

 

 

上内間木の交差点に差し掛かりました。道が"K"の字に交わっています。ここに庚申塔が建てられています。横断歩道の手前です。このアングルで写真を撮ったのは、この位置だと建てられた頃からポジションが変わってないんだろうなと思ったからです。近付いてみますね。

 

 

左が庚申塔で、右はお地蔵さんっぽいけど、頂髻相(ちょうけいそう/俗にパンチパーマと呼ばれている頭髪)な感じだし、定印を結んでいるから如来でしょう。首に包帯を巻かれたような修正跡があり、廃仏毀釈の影響を受けたものかもしれません。

 

それよりなにより!昨夜の大河ドラマ(光る君へ)で、番組終了後の紀行にて庚申待が紹介されていましたね。いやぁ、やっと時代(NHK)がこのブログに追いついて来ました(違)

 

本編では、庚申の夜に道長と倫子(ともこ)が媾(まぐわ)う描写がありましたが、庚申の夜には禁じられていたことではあります。「庚申の夜に交わってできた子どもは泥棒になる」と言われていて、天下の大泥棒石川五右衛門も庚申の夜にできた子だと言われています。

 

まぁ俗説ですし、ドラマもフィクションですからね。虚実ないまぜになってクレームを入れるなんて愚行はしませんよ。ちなみに誤って庚申の夜に子ができてしまった場合は、名前に「金」の字を入れればいいなんてことも言われてもいました。

 

番組でも紹介のあったように、上流貴族の庚申御遊(ぎょゆう)から始まった庚申待は、やがて武家階級にも広がり、江戸期には庶民の間で爆発的な流行となります。僕がこうして各地の庚申塔を巡っているのは、なぜそれほどまでに大流行したのかが気になったのが発端です。

 

媾うことを禁じながら、飲酒や宴会はOKというも面白いですよね。そもそも貴族階級では、徹夜する為に囲碁や歌会等を催していた訳だし。要はパリピがオールしてたって話で、庚申の夜ってただのきっかけだったんじゃないかなと思ってたりします。

 

もちろん、「三尸(さんし)が天帝に悪事を告げに行く」というのは信じていたでしょう。令和の都市部では、何のきっかけもなく終夜騒いでいる人は大勢いますよね。ちなみに今年の庚申の夜(60日に1回)は後5回あります。4月26日、6月25日、8月24日、10月23日、12月22日です。

 

天帝に悪事を告げられると寿命が短くなるので、もし可能であれば、試しに庚申待をしてみてはいかがでしょうか。媾っちゃダメですけどね

 

 

庚申塔の向かいにあった廃屋(たぶん)です。食堂としての立地条件はいいと思うんですけど、駐車場が無かったのが災いしたのかもしれません。近隣企業のランチ需要はあったと思われ、単に店主が高齢で廃業したとかなのかもしれません。昭和遺産な感覚でカメラに収めてみました。

 

 

タイトルを内間木通りとしましたが、沿線は企業立地が目立ち、長い道のりな割には目立った物はありませんでした。これはバスの運転間隔がほぼ2時間だったので撮った写真ですが、次の写真は氷川神社で、道中は黙々と歩いただけでした。もちろんそれも嫌いじゃないですけどね。

 

そんな訳で、次回は氷川神社です。それではまた!