【西東京市】鈴木街道 | ぼっちあるき

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歩きながら考えてみた

阿波洲(あわしま)神社から、鈴木街道を東へ向かって歩いています。

 

 

「ほうやし」のマンホールを発見。旧保谷市や旧田無市の痕跡を見つけるのも、西東京市探索の醍醐味です。西東京市が誕生して20年になりますが、このマンホールは彩色も綺麗に残っていますね。旧保谷市の痕跡と言えば、眼鏡で有名な光学機器メーカーの「HOYA」が筆頭でしょうか。旧保谷市が創業の地であり、現在も社名は存続しています。

 

 

鈴木街道の起点まで来ました。こうして江戸時代の街道を辿っていると、300年前なんてそんなに昔じゃないような気がします。鈴木利左衛門が開発した鈴木新田が無くなっても、こうして街道に名は残り、人々の往来は受け継がれているのです。

 

 

鈴木街道の起点には、天明四年(1784)に建てられた庚申塔があります。当時は辺り一面田畑でしょうから、さながらランドマークのような役割を果たしていたでしょうね。文字庚申塔ですが、上には青面金剛を表すサンスクリットの種子(しゅうじ)が刻まれ、下には三猿も並んでいます。

 

種子とは、大乗仏教の空(くう)の思想に基づく唯識(ゆいしき)の概念で表されるもので、阿頼耶識(あらやしき)という根本的な潜在意識の中に蓄えられているものです。唯識とは、「世界は人間の八識(五感+意識+潜在意識+阿頼耶識)によって主観的に構想されたものであり、客観的なものは何もない」という考え方です。

 

全ての存在(色)は各個人のイメージであって、それらは無常であり消滅する(空になる)ので、実体がない。これを色即是空と言いますが、この言葉は耳にしたことがあるかもしれません。ちょっと難しくて「何言ってるか分からない」感じですが、僕はシンプルに、世界は全て主観的に成り立っていると解釈しています。間違ってるかもしれないけど、死んだら終わりってことかなと。ちょっと飛躍し過ぎですけどね。

 

庚申塔が建てられた前年には、岩木山(青森県)と浅間山(長野県/群馬県)の噴火によって、農作物は壊滅的な打撃を受けました。これをきっかけに天明の大飢饉が発生し、東北を中心に多くの人が亡くなっています。上保谷新田の入口に設けられた庚申塔には、左側に「五穀成就」と刻まれており、当時の状況を危惧した人々の願いが伝わってきます。

 

 

庚申塔から見た現在の様子です。五日市街道の周囲に放射状に道が分岐しており、数えてみると八差路になっています。先程「300年なんてそんなに昔じゃないような気がする」と書きましたが、当時の人々が見たら、何処か別の世界に来たような光景でしょうね。

 

 

八差路の中には深大寺街道もあります。川越から深大寺(調布市)へと続く軍事街道で、後に参詣道となりましたが、ここから南へ行く道は残っていません。写真左手(北)へ旧田無市と旧保谷市の境となって続く西武新宿線までの道が、辛うじて昔の名残を留めています。

 

次回は、武蔵野大学前の大きな交差点を歩道橋で越えて、旧五日市街道を歩きます。それではまた!