潜在意識のナビゲーター ビリーブス田中  -35ページ目
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シンクロニシティ(偶然の出逢い)

ここ最近、シンクリニシティが続いている。
 先月、たまたま大阪に出張し、梅田を歩いていたら、15年前に通っていた身体心理療法学院の学院長にバッタリ出会った。

 そして、翌月には、同じく梅田を歩いていて、茨城で合宿トレーニングをやっていた頃の受講生にバッタリ出会った。彼女には、鳶職になる直前までトレーニングをしていた。
 その後、私が茨城から消えたので、どうしているか気になっていたようだ。「キャー、何でこんなところにいんのん?」
 偶然の出逢いにびっくりし、梅田の道の真ん中で、大声で叫びあってしまった。
 しかも、彼女は近日中に、大阪から引越し、私がいた茨城の会社に住み込みで勤める予定なのだという。


 それから、MIXIでは、私が通っていた中学校のコミュを覗いていたら、しばらくして、1学年下の女性からメールが届いた。最初はわからなかったが、よくよくメールのやり取りをしているうちに、なんと、私の住んでいた家の4軒くらい隣に住んでいて、しかも同じ吹奏楽部に在籍していたという。おぼろげな記憶を辿っているうちに、どんどん思い出し、同時に過去が癒されていく体験をした。

 シンクロニシティはさらに続く。
 足跡に、どこかで見覚えのあるVさんのニックネームを発見、相手のページを覗いてみると、とてもマニアックなコミュニティ一覧、「これは、絶対あのⅤさん以外ない」と思ってメッセージを送ると、案の定、そのⅤさんだった。13年ぶり位のコンタクトだ。
 更に、今一緒に仕事をしているニケタンと大阪の焼き鳥屋で話をしているうちに、彼の人生に大きく影響を与えた人物として話してくれた中に、あのⅤさんの名前が出てきて、またまたびっくり、「え~、ニケタンとⅤさんってつながっていたの?」
 さっそく、焼き鳥屋からⅤさんにメールを送ると、「今ニケタンと飲んでいるんだよ!」とメールを送ると、「えー、しんちゃんと、ニケタンが繋がっているってことの方が、こっちとしてはビックリだよ!」の返事。

 先月の億万長者専門学校では、自己啓発セミナーで一緒学んだことのある女性と、17年振りに再会した。

 そして、一昨日、朝パソコンを開くと、
新着メッセージが1件届いています。
開いてみると、16年くらい前に、関わりを持っていた知人から、「MIXIを見てたら、しんちゃんの名前を発見したのでメールしました」のメッセージ。
 彼は、茨城を出て鳶になる1日前にも偶然、電話がかかってきて、その時以来だった。早速、その日に部屋で会い、旧交を温める。

 その繋がりから、「最近どうしているかな?」と気になっていたTさんの携帯番号を聞き、電話してみた。
 彼女はMIXIをはじめたばかりだけど、使い方が分からなくて、そのままになっていたそうだ。そこで、使い方を教えてあげ、マイミク第1号になる。
 そして、2日後に会う約束をした。

 彼女はアドラー心理学のカウンセラーでもあり、私も学んでいたことがあるので、知っている人がいないかな…と思って、「アドラー心理学のコミュ」をクリックしてみた。

 そうしていたら、「以前アドラー心理学を一緒に学んだことがあるんですよ」というSさんからメッセージが届いていた。

 きっと、さっきアドラーのページをクリックしたから、それを辿ってきたんだろうな…と思って、返事だけ書いておいた。

 そうして、昨日はTさんが部屋に遊びに来る日だった。一人で来るはずだったのだが、「もう一人、私の知っている人を連れて行くから」と連絡が入った。

 会ってみると、そのもう一人というのが、あのSさんだった。SさんとTさんは一緒に仕事をしている仲間で、てっきり、アドラーのページをクリックしたことや、Tさんを通じて、Sさんがメッセージを送ってきたのだと思っていたら、そうではなかった。

 実は、Sさんの方は、全く別経由で、娘さんがMIXIをやっていて、私のページを偶然発見し、プロフィールの中に「アドラー心理学」という文字があったので、「お母さん、アドラー心理学をやっている人を見つけたよ!」と教えてもらったそうだ。そこで、見てみたら「以前一緒にセミナーを受けたことがある しんちゃんじゃないの!」ということになり、メッセージをくれたのが、たまたまTさんがMIXIを開いた同じ日の同じ時だったのだ。

 さらに、SさんとTさんは普段毎日のように、電話で話をしているのだが、その日だけ偶然連絡が取れなかったというのだ。そして、昨日、Tさんが、私の部屋に来る前にSさんに連絡したら、「えっ!私もしんちゃんのことを昨日、偶然発見したのであなたに話そうと思ってたのよ! じゃあ、私も一緒に行くわ!」と言って一緒に来ることになったというのだ。

 私自身が『人生を本気で変える!』ということを意図し、15年間続けてきたセラピストを辞めるて、茨城を去ったときには、ほとんど体一つで出たため、過去の住所録も名簿も全て処分し、それまでの人間関係を全てリセットして、鳶の世界に飛び込んだ。そして、1年間の鳶での関係も全てリセットして、9月1日から、また0から事業を立ち上げている。

 住む場所も、仕事も、着る服も、人間関係も全取っ替えで人生の巡りを変えてきたが、こんな風に必要な人には出会うのだから面白い。

 そして、私に再会した人は、よくよく話を聞いてみると、「人生このままじゃいかん…」と思いながら、キッカケがつかめないでいた人が多いようだ。
 
 再会の挨拶代わりに、ミニセッションをしてあげたところ、自分の中のブロックしていた感情と信じ込みに気づき、これをキッカケに人生が大きく変わっていきそうだ。


 また、今、MIXIを通じて、初めて知り合う人達との交流が急速に広がっている。
 特に私が管理人をしているコミュニティ
 「人生を本気で変える!」 
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1320062
を通じて知り合った人は、確実に人生を変えはじめている。

 かくいう、私自身、タッチフォーヘルスのインストラクターコースで5年位前に一緒に学んだニケタンから連絡があり、再会したのがまだ3ヶ月位前のことだ。それをキッカケに鳶をやめ、全く新しいことを今はじめているのだから人生は面白い。


 この日記を偶然読んだあなた! あなたの人生も、これをキッカケに大きく変わってしまうかもしれませんよ!
 「人生を本気で変えたい!」と思っている人は、是非、ご連絡ください。

感動! プレイバック・シアター

癒された!

 実は今日、横浜スピルチャル・コンベンションでマイミクさんであるサマンサのプレイバックシアターを受けてきました。

 プレイバックシアターとは、観客の中の一人の人生に起きた物語をアクター達が目の前で即興で演じてくれるものです。
 ステージのそでには、見たこともない楽器を駆使して、効果音を鳴らしてくれるミュウジシャンもいて、これも即興。


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 最初に演じられたのは、
 キャリアウーマンだった女性が突然ガンを宣告され、生存率40%という医者の診断に失意を味わったものの、立ち直り、自然食品のお店を経営し、輝きを取り戻すという物語。そして、今では「ガンは本当の自分を取り戻させてくれた先生」という境地にまで至っているという素敵な女性の実体験だ。

 ステージ中央には、黒いズボンに白いシャツ姿の男性2人女性1人のアクターが立ち、右脇にはミュージシャン、左に置かれた2つのイスには、観客の中から自主的に出てきた「自分自身の人生の物語の語り部(テラー)」とコンダクターが並ぶ。
 
 コンダクターがテラーにインタビューし、「人生で起きた印象に残っている出来事」を語ってもらう。この時、アクターもミュージシャンもじっと耳を傾けこれから始まるドラマの準備をする。演じるのに必要なポイントをインタビューが終わると、「では見てみましょう!」の一言を合図に、効果音が即興で演奏される。

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 ステージに準備されていた色とりどりの布を舞い上げ、キャリアウーマンだった頃のバリバリ仕事をしている様子が演じられる。そこに、忍びよる黒い布をまとったガン。そこへ医者が現れガンの宣告。失意に陥る彼女、残された人生をどう送ったらいいのか、「そうだ自然食品の店を開こう!」、レインボーカラーの布をまとったアクターが現れ、一緒に踊る…

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 こんな展開で演じられていった。
 流れるようにな絶妙なコンビネーションで進んでいくドラマ、これが何の打つ合わせもなく即興で演じられているのだから凄い!
 私は、アクターの演技と自分の物語を見ているテラーの様子を交互に観察していた。ところどころで、大きくうなづき、感情が動き、癒されていく様子が手に取るように見えた。

 そして、私もテラー役を名乗り出た。
私が語ったのは、日記にも記した「1年前、セラピストの仕事を辞め、鳶の世界に飛び込み、先輩に怒られながら、自分の人生の巡りを変えるために修行してきたこと。そして、新たな出逢いから、次のステップとして、今があること」をかいつまんで話した。

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●「では見てみましょう」を合図に、効果音が流れる。

クライアントの前で堂々とセッションをしている様子、

そこへ人生の師匠でもある妻が現れ
「それは違うでしょ! 何度いったらわかるの!」

体面が保てず、同様しながらも、何とか取り繕うとする自分。

「先生もいろいろ大変ですね」といって、笑いながら去っていくクライアント。

身もだえする自分。

「このままじゃお互いにとってうまくいかないから、別れましょうか」と明るく切り出す妻。

未練を残しながらも、思い切って飛び出し、鳶の世界に飛び込む自分。

怒鳴りつける先輩職人。

「何で俺が年下に怒鳴られてなきゃいけないんだよ」とぼやく自分。

足場の上でへっぴり腰で仕事をしている様子。

「てめー、鳶をなめてんのか!」の罵声。

「本当にお世話になりました」と言って、握手をして鳶の先輩に別れを告げる様子。

「今頃どうしてるかな~、本物になれたかな」と遠くから思いをはせる妻。

新しい旅立ちで、「ああ、なんだろう、この内側から溢れ出るエネルギーは、この1年のお陰で本当の自信がついたな」とすがすがしい様子の自分。

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私は、見ていて、可笑しくて可笑しくて、笑いがとまらなかった、それと同時になぜか涙も溢れて止まらなかった。
身体の内側では、もの凄くエネルギーが動いているのが判る。

この1年間、どんな辛いことも、意識的に明るく、前向き、発展的に考えることを選んできたが、内側に残って処理しきれていなかった感情が、今、癒され統合されていくのが解った。

私自身にとって、とても意味のある1日だった。
 
*この日記を読んだあなた、是非、行ってみて下さい。
他の人の物語を観客として見ているだけでも共感して感動しますが、自分の人生体験をドラマとして目の前で演じてもらうと、自分自身を客観的に見直すことができ、癒されます。
プレイバックシアター、皆さんも、是非体験してみて下さい。
  
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●プレイバッカーズURL
http://www.playback-az.com/pz/index.html

人生を変える旅路⑦ 卒業と旅立ち


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 この1年間は本当にいろいろなことがあった。
入ってすぐに、先輩に連れられて、近くに飲みにいったら、同じ会社で、酒癖の悪くて評判の年配のAさんがいて

 「てめえ、何しに来たんだ! その歳で鳶をはじめるだ~!
てめえ、鳶をなめてるのか!」

と、もの凄く怖い顔でつかみかかってきたこともある。
 Aさんは職長で、よく一緒の現場になり、怒鳴られまくった。自分がこんなに物覚えが悪く、ドジだったのか…と落ち込むこともあった。
 
 足場に登ろうとした時に、腰からぶら下げている安全帯が鉄筋に引っかかり、急激に引き戻され、危うく鉄筋で串刺しになりそうなところを何とかかわし、胸の強打と口を切るだけですんだこともある。


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 逆に、自分の不注意で、パイプが人に当たって、ケガをさせてしまったこともある。幸い大事には至らなかったが、身体ひとつで生きている年配の職人さんに対して本当に申し訳なかったと深く反省した。

 鳶を辞める決意をした時、最初に職長のAさんに話した。
また「テメエ、なめてんのか!」と一喝されるかと思いきや、
とても穏やかな声で、

 「そうか、お前の人生だから、俺はとやかくは言わないが、
俺は、『50歳までにお前が一人前になりたい』っていったから、いろいろな仕事もさせたし、口うるさくもいってきた。若いのだったら、2~3年ほっといて、何にも言わないよ。
お前はもう歳だし、後がないと思ったから、怒鳴りもしたけど、

それは、決してお前が憎かったからじゃないからな。お前を育てようと思って言ってきたことだ…。
どこへ行っても同じだ。俺が言ってきたことは、これから、どこで何をするにしても、役立つことだと思うよ。」

そう言ってくれた。そして、人に話したことのないような自分の過去のことや、将来の夢などについて話してくれた。
 
  私は、この言葉を聞いたとき、

「ああ、このことを本当に分かるようになるため、この一年があったのだな…」

と悟った。

 「あなたが憎いから言ってるのじゃないのよ!
あたなの為を思って言ってるのに、どうしてそれが分からないの?!」
 
 
これは、分かれた妻からも、そして、私の育ての母からも、ずっと言われ続けてきた言葉だ。
生みの母2歳で亡くなり、5歳から15歳まで、二番目の母が私を育ててくれた。
 私の為にとても厳しく躾てくれたのだが、あまりに反抗ばかりするので、

「なんでよその子を育ててあげているのに、もっと感謝しないの!」と言われ、

「親が子を育てるのなんか当たり前じゃないか!
 本当のお母さんでないから、こんな仕打ちを受けるのだ」

と卑屈に思い込み、少しも言うことを聞かなかった。
 
 15歳の時、母が、
「私には実の子が居て、その子が、『お母さん一緒に住もう』っていってくれてるの、信二はどう思う」
と相談を持ちかけてきた。

 その時、

「やっぱり本当のお母さんじゃなかったんだ」

と思うと同時に、

「お母さんを、その子に返してあげなくちゃ…」

と思った。

 「お母さん、本当にありがとう。今まで反抗してきたけど、育ててもらって、とっても感謝しています。僕たちのことはいいから、どうか、その子のところへ帰ってください」
本当はそんな風に言いたかったのだが、口から出たのは

「勝手に出てけよ!その方がこっちだってセイセイするわ!」

 
その数日後、父が不在の夜、兄と自分が眠っている間に、出て行った。

 私は、本当の気持ちを伝えられなかったことを、ずっと後悔していた。 だが、同時に頭ごなしに何かを言われると、素直になれない自分がいた。
 
 そして、「女は、みんないつか僕を捨てていく」と思い込むようになっていた。 このことは、セラピーを通して、何度も扱ってきたつもりだったのだが、なかなか解決せず、妻とも別れることになった。
(後日談ですが、この問題も完結させることができました。)
http://ameblo.jp/mindupdate/entry-11161303852.html

 

一人になって、Aさんから

「お前が憎くていってきたんじゃない。お前を育てようと思ったからこそ怒鳴りもしたんだ」
という言葉を思い出していたら、この言葉が、なんども私の中でこだまし、子供時代から、今に至るまで、沢山の人からいっぱい怒られてきたことが蘇ってきた。

 「そんなの絶対ウソだ!」と思っていたけれど、そうじゃなかったんだ!
  
 自分のことを否定され、やりたいことを妨害されていると勘違いしてきたけれど、そうじゃなかったんだ!
 
 その全ては愛だったんだ。
 俺は、沢山の人に、本当に愛されてきていたんだ!


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と、心の底から受け入れることができたら、涙が溢れてとまらなくなった。
 Aさんは、普段口うるさく怒鳴ってばかりいるので、周りからは敬遠された存在で、誰もAさんと腹を割って話した人はいないようだった。
 私は、以前から、現場から帰る車の中で、Aさんに意味が分からないまま怒られていても、とにかく最後まで聞くようにしてきた。そうすると、周りの人以上に深くいろいろなことを考えているからこそ怒っているのだということが、理解できるようになってきた。

長年一緒にやっている人でもAさんの話をそこまで聞く人はいないので、誤解したままだと思う。
 

 自分にとって、ずっとテーマだった、
「自分の考えを脇に置いて、素直に人の話を聴き、実行する」

ということが、この1年間、職人の世界に飛び込むことで、トレーニングされた。
 そして、あれだけ最初に怒鳴られたAさんと、最後には、誰よりも深く話せる関係を作ることができた。これだけでも、この1年間、ここで働いた意味があったと思った。

さあ、1年間お世話になった部屋を片付けて引越しだ!

人生を変える旅路⑥ メンターからの課題

今日で、日中の鳶職、夜の居酒屋ともに卒業だ。
振り返ってみると「よく1年間頑張った」と誇りをもっていえる。



 今だから告白するが、
1年前、自分があまりに自己中心的で、思いやりがなく、妻に三行半を突きつけられた。

 私の妻は、16歳の時から朝・昼・晩3つの仕事を掛け持ちし、どの業界でもすぐにトップに登りつめるが、その当時女性で出世するのは限界があった。そこで、そこまでいくと3つの仕事を同時に辞め、また別の3つの仕事を始めるということをやったそうだ。
 
 当時としては珍しかった女性バーテンダーの走りとして、話題になったり、トップセールスレディとして、給料袋がタテにたつほどの報酬をもらったり、宝石のデザイナーとして活躍したり…。そして、20歳で全てを捨て、出家得度し、日本仏教界で初の百日の大荒行を2度に渡って修めたり…。
 その後は山を降りて、乗馬倶楽部を経営する傍ら、ヒーリングをしたり、経営コンサルティングをしたり…。
 彼女の体験談を聞いていると、「この人いったい何歳なんだろう、300年位生きているんじゃないか…?」と疑うほど、密度の濃い人生を生きている人だった。

 それまでの自分にとっては、絶対に出会うはずのないような世界に住んでいた彼女だが、ひょんなことから、知人を介して、個人セッションの依頼を受け、1週間泊り込みでの集中セッションをすることになった。

 当時、スリーインワンのファシリテーターとして東京の恵比寿で大々的にトレーニング・コースや個人セッションをしていたが、それが少しうまくいかなくなり始めた頃で、どう打破したらいいか模索中だった。そんな時に、すごい経歴を持つ彼女のセッションができることになり、「これは、自分の人生を変えるきっかけになるぞ!」と直感的に思った。
 

 彼女は普通の人と違って、ほんの少しの気づきから、もの凄く大きな変化を起こせる人だった。
 それは、彼女の力なのだが、「俺もまんざらではないな」と勘違いし、俄然自信を取り戻した私は、彼女と組んで一緒に仕事をはじめ、それまで「私は絶対に結婚しない」と周りに豪語していた彼女と奇跡的に結婚した。

 ところが、それからが大変だった。
彼女は全て自分自身の体験を通して獲得したものを通してクライアントに関わっている。私も同じようなことを言うのだが、全てセミナー等を通して学んできたことの受け売りであって、一緒に居れば居るほど、自分の薄っぺらさに直面した。

 また、彼女は常に本質的な関わりを追求する人で、私の表面的なごまかしや、取り繕いは決して許さなかった。

 私が、セミナーの講師として前に立っている時でも、何かズレているところがあれば、容赦なく「それは違う!」と言った。

 私は、それを素直に受け止められず、取り繕いようがなくて困ってしまい赤面するばかりだった。

 プライベートでは、とても甘え上手だし、料理も上手で、キレイ好きで、女性としても人間としても申し分ない人だった。
 彼女の信条の『必要なときに必要な 人・物・金・情報 が必要なだけ在る』という言葉の通り、大邸宅に住み、年に何回もリゾートや、高級旅館に泊まっての旅行をしたり…と、今までの人生で体験したことのないようなリッチな生活もさせてもらった。

 そんな申し分のない生活をしながら、私の内側では、常に彼女と自分を比較し、自分の至らなさに直面し、


「このままではいつか捨てられるのではないか…」


という恐れが膨らんでいった。


限りなく豊かな生活をしていながらも、


「それは彼女の力によるものであり、自分の実力で得たものではない…」


と思うと、心の底からその豊かさを享受し、喜ぶことができない、感謝知らずの自分にもイヤになった。

 彼女は、愛をもって、あらゆる形で私に接してくれたが、


「何とか相応しくならなければ!」


ともがいている自分は、結果的に


『俺だってこんなことができるんだぞ!』


と張り合うだけで、それは不調和しか生むことはなかった。しかし、どうしていいのか分からなかった。

 彼女は万能で、何でも一人でできるし、ものすごい強い意志を持ち、決して弱音を吐かない人なので、彼女といると、完全に「お母さんと子供」になってしまい、自分のことで精一杯で、対等のパートナーとしての役割を完全に放棄していた。

 普段気丈な彼女でも、調子が悪いときには、気弱にもなるし、夫からのやさしさや思いやりを求める一人の女性であることに想いがいたらなかったのだ。
 それでも彼女は辛抱強く7年間一緒に生活をしたが、もうこれ以上は手に負えないと感じて、別れることになった。

 ある先生に相談したら、


「セミナーの講師やセラピストは沢山居るけれど、必ず二つのタイプに分かれる。


それは、『自分の体験を通して得たものを伝える人』と、『そういう人から学んだ知識を伝える人』
後者の人は必ずあなたのように行き詰まるんだ。
 


 一度、全部を捨てたらいいね。なるべく、どん底から始めた方がいい。

飯場とか長距離ドライバーなんかいいね。
 そういうところで、自分が思ったほど動けないことに直面して、年下にとことんバカにされ、そこから這い上がってきたら、本物になれる。

 45歳なら今が最後のチャンスだね。50歳になったら、『もう歳なんだから、可哀想だし、今更言ってもどうせ変わらないから…』と誰も何も言ってくれなくなる。今ならバカにし、怒ってもらえる。それが目的なんだから、ありがたいね。」

と言われた。



 絶望と希望が交錯する中、なんとか希望の光の方を見ることを選び、

一年前、全てを捨てて飛び出した…。

人生を変える旅路⑤ 足場の上で

今日、朝礼で監督が
 「本日は、コンクリート打設があります。
 コンクリート打設は、今まで鳶さん、鉄筋屋さん、型枠大工さんをはじめ、たくさんの職人さんの協力してやってきた仕事の集大成です。
 最近、あるゼネコンさんが、ほんの少しの鉄筋やコンクリートをケチッた為に、ものすごく沢山の職人さんの汗と努力の結晶を取り壊さなければならなくなり、それまで積み上げてきた信用も全て無にする事態が発生しました。
 我々は、決してそのようなこと起こしてはなりません。
今日打設するコンクリートは、少なくともここにいる皆さんが死んだあとでも残るものです。
 我々、職人の意地をかけても、いい作品をつくり、世の残していきましょう!

と檄を飛ばして一日が始まった。

 俺にとっても、自分自身を再建設するために、全てを捨てて飛び込んだ仕事の、残り2日の総決算だ! 最後まで気合を入れて取り組もう!」と腹を決めて仕事に臨んだ。

 さて、人生を変える旅路そのものは、まだまだ続くだろうが、ひとまず「鳶編」の締めくくりとして、つづきを書きます。

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 鳶を始めてすぐは、足場の下で材料を段取りするのが仕事だったが、3ヶ月が経った頃、8階建てのマンションの外部足場をテッペンに上って解体する経験をした。



 周りの人の中に、自分自身の過去・現在・未来の姿を見出だし、高い場所で自分の視野が広がったように感じた一瞬だった。

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 初めて一本の命綱だけを頼りに、足場のテッペンを歩き、ビルの先端までいって、枠を引き抜くときは、さすがに足が震えた。

 「もし、支えきれずに落としてしまったら大変なことになる。自分がバランスを崩して落ちたりしたら大惨事だ!」

そんなことが脳裏をよぎると、身体がこわばり、屁っぴり腰になってしまう。

 すると先輩が「なんだ、こわいのか! どいてろ!
俺だってホントは怖いんだぞ! 怖くなけりゃ なめてかかるから、かえって危ないんだ!」
と言って足場の上をスタスタ歩き、サッと枠を引き抜き、私に手渡した。
 その颯爽とした姿が男らしく、何とも言えずカッコイイ!

「そうか、怖くて当然。怖くても、今やるべきことを、ただやるだけなんだ! ヨシッ!」
と深呼吸して気合を入れなおした。

 もう、下の景色を見て、あれこれ不安な気持ちに意識を向けるのをやめ、今するべき仕事に集中したら、テキパキ動けるようになってきた。


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 ふと目をやると、下では、1週間前に入った新人が右往左往しながら足場材を片付けているのが見えた。
 上では、先輩がテキパキ足場を解体している。
自分は中間で、足場材を上から確実に受け取り、下に受け渡し、「よし、もらった!」と必要最低限の言葉だけ交わしながら、皆と呼吸を合わせて動いている。
 

 1週間目は1週間目の、3ヶ月は3ヶ月の、そして3年目は3年目の自然な位置、役割がある。焦ることなく、奢ることなく、一歩一歩確実にそのプロセスを踏んでいけばいいんだ。

人生を変える旅路④ 居酒屋でのバイト

今寮に住んでいる為、8月一杯で鳶を辞めると同時に引越しもしなけらばならない。あと2日だ。9月からは全てが新しくなるので、過去のことをとやかく言っている暇はなくなる。そこで、この1年の振り返りを③に続いて連続になってしまうが、つづきを書くことにした。もう少しお付き合いください。

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 自衛隊で4年間鍛えたとはいえ、22歳で除隊して以来、あまり身体は使ってこなかった。
46歳とはいえ、気持ちだけはまだ30代、
「なんとかなるさ…」とトンビならぬタカをくくっていたが、
さすがに、最初の1、2ヶ月は、筋肉痛バリバリ、仕事が終わるとバタン・キュー。
 翌朝、5時起床だが、身体が思うように動かず大変だった。
15年もボディ・サイコ・セラピストとして人の身体や心を扱ってきたんだから、自分のことは自分でなんとかしようと、自分なりに調整をしてみるが、日々の疲労の蓄積には追いつかない。やっぱり身体は46歳だ…と改めて認識する。

 そういえば、こんなときに、マッサージやカイロでは、どんなことをするのか体験するのもいい勉強だろうと、休日になると行くようになった。
 
 ところが、なまじ、こちらに知識がありすぎるため、もう少し、「こうしてくれたら…」なんてことを考えて委ねきれない自分がいた。これで、1日汗水流して働いた分の日当のほとんどが消えていくのか…と思うとなんだか空しくもなる。

 もっといい先生はいないかと、「○○流△△整体」という、いかにもすごそうな看板を掲げているところにも行ってみた。
 すると、恰幅のいい大先生が出てきて、
「いやー、ひどい状態だ。完全にヘルニアですよ。よくここまでほって置いたもんだ。このままじゃ大変なことになるよ!もっと早くうちに着たらよかったのに!」
と言われ、沢山のお弟子さんの囲む中、気合もろとも、バキバキっ「入った!」とすごいパフォーマンス。
 施術が終わって、少し様子を見ていると、次の患者さんにも全く同じ語調で同じことを言っている。
 「ああ、何も知らない、患者さんは半ば脅されてその気になって通うようになるんだな」
と思った。

もっといい方法がたくさんあるけど、この先生はそんなことには聞く耳持たないだろうし今更学ぶきもないだろうな…。
治療家がお山の大将になって、成長できなくなっていく姿がを見せつけられ、今までの自分と重なった。

 さて、それでも2ヶ月が過ぎた頃には、少し余裕ができてきた。そこで、夜は8時から1時位まで、居酒屋の厨房でバイトを始めた。


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 こちらの方は、日中の黙々と仕事をする鳶とは打って変わって、大学生や高校生のバイトが中心で、明るく大きな声で、「いらっしゃいませ!」をはじめ、お互いに声をかけあいテンションを上げていく職場。
 忙しいときは、キッチンもホールもてんてこ舞いだ。

 そんな中、ホールがオーダーミスをしたり、キッチンが作り忘れたり…ということも起きても、誰の責任かを責める事もなく、起きている事実を明らかにし、お客様の満足を最優先にする共通認識の下、即フォローし合っていく明るい雰囲気だ。
 社員は店長だけで、あとは全員が高校生、大学生のバイトであるにも関わらず、この雰囲気が代々受け継がれているということにも驚いた。

マスコミ等の影響で、「今どきの高校生は…」といった自分の中の偏見が、実際に一緒に仕事をしてみて、一掃された。

 私の持ち場は、超大量の皿洗いや、焼き場、揚げ場で、焼き鳥や唐揚げなどの大量の注文を捌くこと。
 もともと、子供の頃、家が食堂で、その手伝いをしてたこともあって、久々の厨房仕事をしていて、内側から喜びがあふれてくるのを感じた。
 
あの頃は、
「友達はみんな遊んでいるのに、なんで僕ばっか家の手伝いをさせられなきゃならないんだ!」

と反抗しながらも、同級生が知らない大人の世界で仕事をする自分に誇りも持っていたし、本当は好きだったことを思い出す。

 忙しさの合間を見つけて、調理場に長年堆積してこびりついた油汚れの塊を少しずつ磨いてピカピカにしていくことに生きがいを感じる。
 それまでは、あまりにも汚いし、すぐ汚れるので、掃除といっても通りいっぺんだったようだが、いったん綺麗になってしまうと、汚れてもすぐに落とせるので、綺麗な状態が保たれるようになる。そうすると、最初は、「そこまでやらなくても…」と遠巻きに見ていたが他のバイト達も、だんだん念入りに掃除をするようになり、全体がどんどん綺麗になっていった。

 仕事が終わると、1食200円でまかない料理を自分で作って食べていいルールになっていた。これがまた楽しい。
 焼き鳥の焼き加減での味の違いを研究したり、メニューにある料理を一つずつ作って試食して研究する。
 そんなことをして、バイトが終わり、バイクを飛ばして寮に帰り、洗濯機の中の作業服を干して、床に就くのは2時。そして5時に起床して日中は鳶職、夕方6時過ぎに現場から帰り、作業服を洗濯機に突っ込んで、急いで支度し夜のバイトへ…の繰り返し。
 どこまでやれるか、自分の限界に挑戦する日々が続く。

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イカン、調子に乗って書いていたら3時を過ぎてしまった。
続きは明日。今日は寝ます。


人生を変える旅路③ 見習い鳶奮闘!

 15年間続けてきたセラピストの仕事をやめ、人生を変えるために全く今までと違うことをしようと、鳶の世界に飛び込んで約1年、この間いろいろなことがあった。そして、意図した通り、人生の巡りが変わり、次のステップに進む時期が来たようだ。鳶の仕事も、8月一杯、あと2日間だ。
 そこで、この1年を振り返る日記も早く「つづき」を書き終え、今現在に戻ってこなくては…。

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 鳶の仕事は、一現場4人~6人で動いていた。

そんな中、私が最初に戸惑ったのは、皆無口で、朝の打ち合わせにしても、一服つけながら一言二言言葉を交わしたかと思うと、あとは阿吽の呼吸で、暗黙のうちに役割が決まり、たったか仕事をこなしていく。 

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そんな中で、見習い鳶の私の仕事は、足場に上がった先輩職人の方々が必要なパイプやクランプ(連結金具のこと)などの材料を下で段取りし、手渡すこと。

 「○○持って来い!」と上で叫ばれ、「ハイ!」と元気よく返事をしたものの、よくわからなくてモタモタしていると、先輩がいつの間にか黙って自分で取りに行って仕事を進めていく。ようやく、見つけて私が駆けつけたときには、もう仕事は進んでしまっていて、無駄になり、自分だけ一人取り残されてしまうことになる。
 そこで、「次は何を用意しますか?!」と自分から聞くようにした。ところが忙しく仕事をしている先輩方からは、返事があったり、なかったり…。そうこうしているうちに、一週間経つと、
「うるさいな、イチイチ聞くな! 
 もう、これからは何も言わないから、自分で考えて仕事して!」

と突き放されてしまった。

 しかし、私はこの時嬉しかった。
「そうか、自分で考えていいんだ。どうせド素人のオレが居ても居なくても、仕事はドンドン進んでいく。
 だったら、焦らず、落ち着いて全体を観察し、何が必要か考えて準備してみよう」
と思った。

 すると、全体の状況が見え始め、「これから、○○を作るんだから、まず、△が何本必要で、その次には□が何個、ついでに、×も一緒にも準備しておこう!」と自分で段取りが組めるようになってきた。そうなると、俄然 仕事が面白くなり充実感が湧いてくる。
 
 また、ド素人ゆえの失敗はつきものだ。
「バカヤロ! なんで○○するんだ!」
と怒鳴られ、事情を聞かれているんだと思って、

「実は、△△だったもんですから○○しました…」
と答えると

「うるさい! 言い訳するな!」
と一喝されてしまう。

今まで、人にものを教えたり、気づかせるのが仕事だったため、いかに相手に分かりやすく説明するかということばかり考えてきたが、今は教えてもらう立場、こちらの事情なんてどうでもいいんだということに気づく。
 また、相手の気分を害してしまったと思って、
「さっきは、すみませんでした」と謝った方がいいかな…と思っていってみても、そんなやり取りもウザッタイという雰囲気、失敗は謝る事より、しっかり印象付けて、次に活かすだけでいいんだということ、怒られた時ほど、学べるんだということにも気づく。

 職人の世界は、時間までは、漫画を読んだり、花札をしたり、寝ていたりもするが、
いざ仕事となったら、とにかく速い。与えられた仕事に対して、いかに段取りよく、正確かつ美しく、また、その足場を使う他の職人さんのことを思いやって、どうしたら、安全でしかも作業がしやすか…ということを一瞬のうちに判断して、動いていく。

 また、その日与えられた仕事は、その日のうちに、仕上げるため、全力を尽くす。

 しかも、10時、昼、3時に休憩を取り、5時には終了 というリズムが体内時計に組み込まれているようで、黙ってテキパキ動いていていた手が突然止まり、「そろそろ時間だろ」と聞かれる。私が時計を見ると、大抵5分前。 時間になったら、スパッと切り上げ、だらだらやらない。
 私はみんなの速さになんとか着いていこうと、時間のことも忘れて無我夢中で動いているが、なかなか時間までに一段落つけられない。「もう少しやりたい…」と思うが、それは私の事情だ。全体の調和を考えたら、「ズルズルやりたい…」その気持ちに区切りをつけること、そして、次には全体のリズムに合わせて、皆の手が止まったときには、自分の仕事も一段落している…そんな状態になるよう努力することが大切だということを学ぶ。 

 茶髪でピアスをつけ、わざと怖そうに眉間にシワを寄せたツッパリお兄ちゃん達だが、仕事はできる。
 それまで、自分の中にあった、ホワイトカラーの優越感、そしてブルーカラー(肉体労働)をどこかで下に見ていた自分の傲慢さが、ことごとく打ち砕かれていく。
これを身をもって知る必要があったんだと思う…。

 
                                                    <つづく> 


人生を変える旅路② 鳶 職

鳶職って何をするのか…実は何も知らなかった。
とりあえず「肉体労働をしよう」ということしか はっきり決めていなかった。
 

life-chengeさんのブログ


 ガテンを買ってみて、いろいろな職種があることを知った。土工、はつり工、解体工、型枠工、などなど。どれもあんまりピンとこなかった中、「鳶」という文字だけ何故か惹かれるものがあった。

 
 とにかく電話して、面接にいってみることにした。
「○○組」なんていう文字を見ただけで、この世界に無知な自分にとっては、ちょっとおっかない世界に入る感じがした。

 面接に行くと、そこの社長(組長とは呼ばないだけでも少しほっとする)は、値踏みをするように、私の身体つきを眺めた上で、履歴書を見て、「建設現場で働いた経験はないの?」と聞いた。

「建設現場は、兄が設備屋をしているので、バイトをさせてもらった経験は多少あります。自衛隊に4年いた経験があるので、体力的には自信があります」
(本当は、それ以降、あまり身体を使っていなかったので、自分の身体がどれだけ動くか、そんなに自信があったわけではないが、とにかく採用してもらう為に、元気に言ってみた。
 
 すると、社長はこんなことを話してくれた。

 「鳶職ってどんな仕事か知っているかい? 
 工事現場には、様々な職種の人が入り乱れて仕事をしているけど、どの業者よりも先に工事現場に乗り込み、仮囲い(工事現場の柵)を組む。
 
 そして建物の骨となる鉄骨を建てるためのクレーンを組み、それで鉄骨を組んでいく。
 また、命を落とす危険がある場所へも真っ先に乗り込み、他業者の為の足場も組む。

 このように、常に鳶が工事を先行していくんだ。鳶がいないと工事が進まないわけだ。」


 そう聞いて、これは、自分にとって必要な学びをする上でぴったりの仕事だと確信した。

 建設現場にたとえてみるならば、自分は今まで設計屋さんのようなものだったと思う。机上で図面をひいて、ビルの設計図を描いただけで、ビルを建てた気分になっていただけなのかもしれない。

 これからは、実際に現場に出て、どの業者よりも先に、危険を冒して足場を組んでいく、率先して自ら動くという行動が必要なんだ! そう思って鳶職を始めることを決めた。

                            <つづく>

人生を変える旅路① 旅立ち

 7月の末から人生がまた急速に転換中。
いよいよ今の職場も今月限り、今日、引越し先を決め、不動産屋さんで、契約を済ませる。
 そこで、「この1年間が自分にとってどんな意味があったのか」を整理するためにも、何篇かに分けて書いてみます。

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 15年間セラピストの仕事をしてきて、最初のうちは無我夢中、人が輝きを取り戻していく瞬間に立ち会えることが嬉しくて夢中になってやってきた。

 ところが、人の人生に口出しをしていい気になっているうちに、自分の成長が止まり、クライアントの方がどんどん追い越していっているのにうすうす気づき焦りを感じる。

 それでも新しいクライアントが訪れることで、すぐに忘れるが、そのクライアントもいつのまにか自分を追い越している。まるで、「愛と青春の旅立ち」の仕官候補生教育教官の鬼軍曹のような心境だ。

life-chengeさんのブログ

 そうしているうちに、私生活でのトラブルが続き、「人に偉そうに言ってきたほどには、自分のことは出来ていないじゃないか!」ということに直面する。


 当時45歳
「このまま自分を欺き、一生イミテーションのまま終わるのか、ここで奮起して本物になるのか」

身悶えするような想いの中で、

「50歳になったら、もう手遅れだ!今ならまだやり直せる」

と、全てを変えることを決めた。

しかし、一方では、前途洋洋たる人生に思えていたのに、この俺の人生にこんなことが待ち受けていようとは…という想いもあった。

 妻と別居し、全く見知らぬ土地に住み、今までの自分なら絶対に選ばない仕事をしようと決める。どうせ住むなら、少しでも自分の前途に利ある方位にしようと、気学を観て、割り出した吉方位が南西。

 この方位は、気学によると、「与える事と受け取る事のバランスが整うと同時に、今まで積み重ねてきた物事に対して、純粋により多くの実りを受け入れようとする姿勢が養われる。対人面では、お互いに学びあえる、フィフティーフィフティーの関係を作り上げていく力が身についていく」というものだった。

「おおー、今の自分にぴったりの学びが出来る方位ではないか! なんてラッキーなんだ!」


 さて、どんな仕事をしてみるか…

「頭でっかちになっていた自分を変えるには、身体をはって、命がけで動く仕事がいいだろう」

と鳶職に決める。
 地図に線を引き、その線上をガテンを片手に、身体ひとつで歩いていく。
 
 片っ端から電話をしてみるが、「鳶職は30歳までだね…」と断られ、「この歳で俺は一体何をしているんだ…」と弱気にもなりかける。「いや、だからこそチャレンジしているんだ」と、気を取り直して、探し続ける。こうして見つけたのが海老名にある○○組、「寮付、まかない食有り」に惹かれ、転がり込む。
 
 ほとんどが、自分より年下、茶髪の職人さん。年上は、いかにも頑固で怖そうなオジサンが3人位。
 
 「お疲れ様です~! 今日からお世話になる田中信二です!よろしくお願いします!」
明るく挨拶するものの、

皆、「なんだこのよそ者は…」 という感じで一瞥するだけで、後は無視。

「さて、一体これからどうなっていくものか…」 

いきなり不安な気持ちがもたげてくる…。 

〈つづく〉
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