はじめに

 みなさん、こんにちは。本野鳥子です。今回は、中公文庫の「世界の歴史」シリーズの第一巻、「古代文明の発見」についてです。本を通して、古代の世界に旅してみましょう。

 

「世界の歴史 1 古代文明の発見」貝塚茂樹(中公文庫)

 中国から西アジアの広い範囲を網羅した古代の歴史が語られる。三国志の世界が展開されると思いきや、うってかわって旧約聖書の元となったできごとが解説されたりして、全く違う場所で様々な人びとがそれぞれの歴史を紡いでいったのがよく分かる。

 

 発掘の苦労話や、未だ解明されない謎など、思わずくすりと笑ってしまうような記述も多く、気づけば歴史の面白さの虜になっていた。特に、序盤にあった

クロマニョン人たちが洞穴にのこした壁画、彫刻などの無数の美術作品は、現代の文明国の作品と肩をならべるばかりでなく、その躍動する表現力はかえって現代を凌駕している。

 このような高度の芸術を創造しえた根源は、第一に、活字印刷物を読む不自然な疲労からまぬかれた、健康な旧石器時代人の目にある。

 これを、今まさに「活字印刷物を読む不自然な疲労」を甘受している読者たちに投げかけてしまうのに笑ってしまった。いかにも堅い文体と見せかけて、このようにユーモアに満ちた文章が突然登場するので、歴史を学ぼう、という真面目な姿勢も忘れ、ただ歴史の中に身を委ねる気分になった。

 

 しかし、そうやって歴史を探る営みの中でも、歴史学者、考古学者たちは、当時の政治事情に振り回され、発掘を中断せざるをえないことも少なくなかった。学問の発展のためにも、政治の安定、他国との友好は不可欠だと思う。政治事情によって、学問が妨げられるようなことは、決してあってはならないことだ。残念ながら、今でもそれが実現しているとは言えないが、いつの日か、学問が誰の手によっても止められることなく、好奇心のおもむくままに探ることができることを願う。

 

 ところで、私は今まであまり中国史には詳しくなかった。だから散々中華もの、と言われる十二国記も、単に名前や文字が漢字であるだけで、それ以外は古代の習俗を踏襲しているのだと思っていたのだ。

 

 つくづく、自分の読みが浅かったことを実感する次第である。妖魔などが中国の神話に登場する妖怪などをモデルにしていることは知っていたが、根本的な設定が中国史に依っている、ということは、全く知らなかったのだ。それに気づいたのは、つい最近、岡田英弘さんの「世界史の誕生」を読んだときだった。

 

 

 どういうことかというと、表面的なところもそうだが、もともとの世界設定が、中国の歴史観そのものである、ということである。たとえば、

殷王朝は、天の神から命をうけて天の子として地上を統治するというが、「民は神なり」というように、天意は民意の象徴であった。天神をないがしろにすることは、実は民意をかえりみぬことのあらわれである。そのむくいは遠からずやってきた。ある日、公がと渭水のあいだの野原に狩猟に出かけると、一点雲のない晴天にとつぜん雷がはためいて、武乙は黒こげになって震死した。

 武乙は、君主の権力が強大化して、専制政治の形態により近づきつつあった時代に生きた、殷王朝の終わりから三代目の王である。天意によって王が選ばれ、それに則って統治する。これが、現代まで通じる中国の歴史観である。なんとなく、君主の統治には民衆の支持が欠かせない、と「君主論」で述べたマキアヴェッリを思い出した。

 

 

 さて、これは、まさしく十二国記の王の選定の仕組みの通りではないか。民意の具現である麒麟が、王を選ぶ。十二国記の根幹をなすこの設定は、明らかに中国の概念としての歴史観を、事実としてシステムとして組み込んでいるに違いない。改めて、十二国記の奥深さに圧倒された。

 

 それから、春秋時代に列強として名の挙がる国は、十二国であるという。これが関係あるのかは分からないが、やはり一致している。他にも、西王母や蓬莱、崑崙の丘などについての伝説なども紹介されており、思わぬところで十二国記の理解を深めることができた。

 

 こうやって、歴史の知識を深める中で、少しずつ私の原点となったファンタジーへの理解、ひいてはどこの世界においても変わらない、人間への理解も深まっていくのではないか、と思う。だが、そんなことは関係なく、とにかく歴史は面白い。これからも、人間の歩みを振り返り、そして前を見つめることを、忘れないようにしたいと思った。

 

おわりに

 というわけで、「世界の歴史」シリーズ、他の本も交えながら、少しずつ読み進めていきたいと思います。それでは、また次回お会いしましょう。最後までご覧くださり、ありがとうございました!