はじめに
みなさんこんにちは。本野鳥子です。今回は、「馬・車輪・言語」の下巻を読みたいと思います。上巻の感想はこちらからご覧ください。
それではいざ、「文明」の起源をたどって、はるかな歴史の旅を始めましょう。
「馬・車輪・言語 下 文明はどこで誕生したのか」デイヴィッド・W・アンソニー(筑摩書房)
印欧祖語の起源に始まり、墓の副葬品を中心に、文化の発展をたどることで、文明の発展の過程を丁寧にたどるのが、本書である。
かなり難解だったというか、固有名詞や専門用語の多さはなかなか読み進めるのも容易ではない。だが、歴史への作者の情熱は感じ取れた。訳者である東郷えりかさんが末尾に記している、
とはいえ、本書を少しでも楽にご理解いただくには、第1章のあと、まず最終章をお読みいただくとよいかもしれない。
という文を最後に読んでずっこけた。本を選ぶときには、だいたい裏表紙のあらすじや帯、表紙、あとはカバーの折り込みなどを見るのだが、あいにく作者や訳者のあとがきは読まないのだ。ネタバレがある場合も多いので、警戒しているのだが、それでもこういう文が最後に書いてあると、最初に読むべきだったと後悔する。
頻出するカタカナの固有名詞と格闘しながら(逃避して覚えず読み流しながら、という方が正しいが)ようやく読み終えた本書だが、この記述は印象的だった。
エリック・ホブズボームがかつて述べたように、歴史家は偏見とナショナリズムに原材料を提供する運命にある。しかし、彼はそのために歴史を研究するのをやめたわけではない。
この記事を書くにあたって、エリック・ホブズボームとは誰か調べてみたら、イギリスの歴史家らしい。この言葉には感銘を受けたので、いずれこの方の著書も読んでみたいものだ。
それはともかく、歴史家という存在については、考えさせられた。ただ歴史という、無数の人々が積み重ねてきたものに、計り知れない魅力を感じ、追いかける人々。しかし、その性質ゆえに国家に利用されずにはいられない。印欧祖語は、アーリア人によって話されており、その民族を神格化したナチスなどを思い出すにつけ、この言葉が響いた。
ここで思い出してしまうのは、やはり銀英伝のヤンである。歴史家志望だったこともあるが、彼が歴史家になっても、結局はナショナリズムに貢献する羽目になったのかもしれないと思うと、皮肉な微笑を禁じ得ない。
歴史という、この上ない魅力を存分に含んだ存在。そのことを深々と感じさせてくれる一冊だった。
おわりに
というわけで、時間はかかりましたが、「馬・車輪・言語」についてでした。さて、次回は「神招きの庭」という集英社オレンジ文庫の作品を読もうと思います。今までの記事とは少し傾向が異なりますが、たまにはこういう軽い読み物も良いですよね。それでは、また次回。最後までご覧くださり、ありがとうございました!