はじめに
みなさんこんにちは、本野鳥子です。今回は、前回に引き続き、銀河英雄伝説の再読をしていきたいと思います。初回となる「銀河英雄伝説 1 黎明篇」はこちら。それでは、今回も広大な宇宙の大海へ、足を踏み出しましょう!
「銀河英雄伝 3 雌伏篇」田中芳樹(創元SF文庫)
銀河帝国と、自由惑星同盟が、今回も火花を散らし、壮絶な戦いを繰り広げる。相変わらずの火種となるラインハルト・フォン・ローエングラムと、ヤン・ウェンリー。お互い魅力的な部下たちを従えて、宇宙を舞台に歴史を作り上げていくのだった。
1、2巻の再読のときには気づかなかったが、3巻では、点だけでなく、線で歴史を見つめている、作者の視点が妙に意識された。「のちに」や、「後世の」と出てくる、様々な叙述には、この物語を歴史として見る、第三者の存在が感じられる。それには、ユリアンやミッタマイヤーなども登場し、この物語が歴史の一部となるのが、そう遠い未来ではないことを思わされる。それが、寂しいような、待ち遠しいような、不思議な感覚を覚えた。
そして、ユーモアにあふれた文章もたまらない。ヤンがデスクにあぐらをかき、ひっくり返る場面などには、くすりと笑い声を立ててしまった。ユリアンとの会話もまた、いつまでも読んでいたいと思わされる温かみにあふれている。と同時に、彼の歩む未来を思い浮かべ、暗澹たる心地になるのもまた事実だ。ヤンには、静かな歴史家としての人生を歩んでほしかったと思う自分と、華々しい戦果を上げる彼に熱狂する自分が、私の心の中で常にせめぎ合っている。
また、市民の代表であるはずの政治家たちと、ヤンが相対する査問会では、軍人であるはずのヤンに、当然のように共感してしまう。民主主義の是非が問われるような、そんな場面だ。こうやって考察するのが不粋であると、思ってはいるのだが。
ところで、マキャベリズム、という言葉が登場する。寡聞にして知らなかったが、大方マキアヴェッリの考え方のことだろうと見当をつけて調べてみれば、やはりそうらしい。徹底的に民主主義に立つヤンの視点で描かれている場面で使われているからか、それとも作者自身の考え方なのか。
塩野さんの著作に描かれているマキアヴェッリ像とあまりにかけ離れているような感触を抱いたので、これはマキアヴェッリを実際に読まないではいられない。ただ、まだ「わが友マキアヴェッリ」は未読であるので、それも読みたいところだ。ただ、塩野さんの視点に偏りすぎてしまうのは仕方がない。何にせよ、銀河英雄伝を再読し終わったら、塩野さんの「わが友マキアヴェッリ」と、マキアヴェッリの書いた「君主論」などは読みたいと思う。
それにしても、やはりこうやって現実世界と作品世界を結びつけるのは、やめられない。どうしても矛盾をはらんでしまうのは、結局のところ、私が現実世界の人間に過ぎないからだろう。銀英伝は、現実の歴史もベースにしているだけに、その傾向が消えない。矛盾を消せるのはいつのことになるだろうか。
おわりに
ということで「銀河英雄伝 3」の再読でした。次回も引き続き、銀英伝の再読をしていきたいと思います。お楽しみに!