さて、アンヌ・レエ
「エリック・サティ」では、こう語られている。
信じがたいのは、1917年5月18日にシャトレ座で「初演」された『パラード』が、その四年ほど前のストラヴィンスキーの『春の祭典』と似たようなスキャンダルを巻き起こしたことである。呆れかえって物もいえないが、(リズムや編曲の問題を根底から問いなおした)『祭典』の時は、振付けに対して野次がとんだのに対して、(ピカソが舞台装置と衣装を担当した)『パラード』では、サティが慎ましやかに編曲したささやかな楽隊が観客や批評家の非難の的にされたのである。なかでも極めつきの毒舌を振るった数人に対して、サティは中傷の葉書を送って然るべきだと考えた。それが裁判沙汰になり、証人ジャン・コクトーの熱烈な戦闘精神のおかげで、しまいには大喧嘩に発展し、被告サティには禁固八日と百フランの罰金、音楽家サティには名声という落ちがついた。 (p.105)

「ハルサイ」初演時には物議を醸したけど、今やストラヴィンスキーの代表作として親しまれている。
賛否両論を惹き起こすのが芸術のもつチカラだということを常に念頭に置いておきたいものだ!

一方の、サティ
「パラード」は知る人ぞ知る作品となっている。
もっともっと、親しまれる作品として人口に膾炙する時代が来ればいいけど。
無残な後退戦になると、戦いが人々を熱狂させるというのはほんとうだ。それはまた作品評価の観点をも決定する。ある者は手放しで褒めちぎり(「『パラード』は見る者を若返らせる。われわれは声を立てて笑い、涙を流す。いまや失われた子供時代が、思春期に追放され、息の根をとめられたあの子供時代が戻ってくる。いまここに甦るのだ、あのポエジーが。このうえなく繊細なこの音楽のなかに」と、1921年になってもまだルイ・ユーリエは『フーユ・リーブル』誌に書くだろう)、また他の者は、反戦的な意図があるのではないかと疑って、「いまどき、こんなこけおどしは流行らない」とぼやく。それに「キュビスト」のピカソがいた。 (p.106)

「・・・・・そのときコクトーは理解したのである。パリには芸術的右派と左派があり、この両陣営は然るべき理由もなしに互いに相手を無視したり軽蔑したりしていること、そしてこの両陣営を和解させるのは少しも不可能ではないということを。そのためにはディアギレフに現代絵画を理解させ、現代の画家たち、とりわけピカソの目をバレエの壮麗で装飾的な美学に向けさせなければならなかった。キュビストたちをその孤立状態から抜け出させ、パイプと煙草とギターと古新聞に埋もれたモンマルトルでの得体の知れない暮らしから引き出す必要があった。 (p.107)
1920年代のベル・エポックへと向かう10年代は、さまざまな芸術シーンが飛び交い、互いを仕留めるかやられるか瀬戸際で活動していた時代だ。音楽も絵画もバレエもまた詩や文学においても、時代を席巻した芸術家たちが跋扈していたのだ。
翻って日本の状況を鑑みるに、日清・日露戦争から悪夢の十五年戦争へと驀進する時期にあたる。ここには、パリのような文化的状況は覗うことができない。まあ、「大正ロマン」と称された一時期があったくらいだ。社会における芸術の位置づけは明治期以来、それほど変わっていない気がする。

<エリック・サティ没後100年に寄せて!>・・・18