今度は、こんな訳である!
加島祥造セレクション全3巻の第三巻である。
これはエドガー・アラン・ポーの詩「大鴉 The Raven」の2009年の改訳である。私の決定訳とする。
加島祥造
と始まる訳である!
1 「ただそれだけだ、なあんでもないのさ」
2 この世に戻らないのだ。
3 それだけのことな、なあんでもないんだ」
4 ほかにはなあんにもない。
5 それっきりだ、なあんのこともない!
6 ほかになあんのこともないのさ」
7 なあんのこともない、という様子だ。
8 「なあんでもな----い Nevermore!」と大鴉は叫んだ!
9 「なあんでもな----い Nevermore!」と答えるなんて----
10 「そんなことはなあい Nevermore!」
11 お前はひとつ覚えにしたんだ」
12 またとなあい Nevermore とは?
13 またとないのだ Nevermore!
14 「それはなあい Nevermore!」
15 「それはしなあい Nevermore!」
16 「にどとなあい Nevermore!」
17 「それはしなあい Nevermore!」
18 けっしてできなあい Nevermore!
(P.6-27)
このあとに、「ロマンティシズムの再生」と題するエッセイが続いている。
それはこのように始まるわ。
この詩「大鴉」を楽しんでもらいたい。何よりもまず、ひとつの物語詩としてエンジョイしてもらいたい。この詩にスリルとロマンティックな情緒を感じてほしい。それを読者と分かちたくて、私はこの仕事に従った。詩を読んでスリルを覚える。それはすばらしい経験であり、誰かと分かちあいたくなる共同体験だ。
もともと詩を読むとは、その人の感性が詩に直接タッチする経験だ。読む人とその詩との間には、じかに電流が流れるのであり、その間に立って解説者があれこれ言うのは、その直接体験の喜びを邪魔することだ。だからできれば読者には、この詩「大鴉」をまず心を潜めて読んでもらいたい。そして、興味を駆られたら、いわばこの解説を聞いてもらいたい。しかしむろん、解説をはじめに読む人に話しかけてもいる。
これは十八連二百行ある物語詩であり、登場するのはひとりの語り手と一羽の大鴉だ。もうひとり、陰の存在だが、レノーアという娘がいる。死者であり、口はきかないが、この物語の中心軸である。それは、物語が展開するにつれて明らかになる。この三者のつくる物語だ。
(p.30-1)
この後に続く叙述も興味深い。
大鴉
この詩の鴉(raven)は、私たちのなじんでいる烏(crow)とはかなり違う。これはワタリガラスであり、ヨーロッパと北米に分布、全長は六十センチと大きい。それにその鳴き声もちがうようだ。「なぜ鳴くの」と童謡に唄われるカーカーという声ではない。夕焼け空に似合う優しい声ではない。そういうカラスを連想したのでは、ポーの描く大鴉のイメージからかけ離れてしまう、この詩全体の調子もくずれてしまう。
(中略)
こんな声のせいか、鴉(raven)は欧米では不吉な鳥とされていて、これが声たかく叫ぶのを聞くと、どこかの家で死人が出たようだ、と村の人々は噂したものだった。いまは忘れられているが、わが国でも、烏の声は不吉なものとされていたようだ。小林一茶が友、耕舜の死をいたんだ句には「此次は我身の上かなく烏」とあり、註者はこう言う----烏のなき声は人の死を知らせると言って忌まれている。
この詩では鴉は五度ほど鳴く----それは nevermore の一語で表されているが、烏の嘴は nevermore のうちのV音(唇音)ができないから、「ネワーモー」といった叫びなのだろう。それを陰気で恐ろしい声で甲高く叫ぶ。
(中略)
もうひとつ、この詩の重要なポイントがある。それはこの大鴉が主人公の心の象徴だということだ。主人公の青年は、深く愛した娘レノーアの死を悔やみ、惜しみ、なおもその面影を求めるあまり、深夜にレノーアの使いが来たかと幻想する。大鴉の影に----自分の心の象徴に----とらわれて、しまいに狂気に至らんとする。このように大鴉は主人公の語り手と一体になっているものであり、だから題も「大鴉 The Raven」となっているのだ。
Nevermore と個人的追想
Nevermore と一語についても、述べておこう。意味は、「もうこれ以上、二度と起こらない」とか「二度とない」といったところだ。古い語法であり、いまの話し言葉には使われない。この一語の訳には私も困り果てた。同じ語だが、章の末に使われるたびに、その意味がやや違っている。結局、訳ではその違いを出しつつ、同じ原語 nevermore をつけ加えて使った。
この後には、訳者が学んだ早稲田で教鞭を取っていた日夏耿之介と谷崎精二との比較も述べられている。
平明な文語体の訳だ。しかし、深い詩的感動からのリズムや情緒はまったく感じられない。これは、谷崎氏が散文作家であるから仕方ないことだ。
もうじつに六十五年も前に出会った人たちの仕事が、いまの私に物足りなく思えるのも当然かもしれない。日夏さんの訳は高踏的で晦渋であり、谷崎さんの訳は平明で乾いている。そしていわば私の訳は、この両方の狭間にあって詩の情念とリズムと平明さを結合しようと苦心している。
(p.30-37)
この後にも、「語り手について」や「レノーア」などの項もあり、最後の「物語詩の可能性」まで、なかなかに読み応えある文章が続いている。引用しだすと煩瑣になるので、このあたりで止めにするけど、この「大鴉」について、もっと知りたいと思召す方は是非とも、この書を手に取ってみられることをオススメしたい!
ポーの「大鴉」は、原文と加島訳とともに、この解説エッセイを合わせ読むと、理解が進むだろうて!
<エドガー・アラン・ポーを読む!>・・・39