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マンボウのブログ

フラヌールの視界から、さまざまな事象に遊ぶ

日本でのサティ受容は、坂口安吾に嚆矢を。。。流れ星

 

 

コクトーの翻訳を紹介してみよう!チョキ

 

 

  定本坂口安吾全集〈第13巻〉 (1971年)

 

本坂口安吾「定本 坂口安吾全集 第13巻」(冬樹社 1971)

 

 

この全集の第13巻に所収されている中からの引用である。

 

 

 

  エリック・サティ (コクトオの訳及び補注)

 

 ある作品を愛するためには、新しい精神状態に自分を置かなければならない。他の作品によって批判してはならない。批評家達の最大の欠点は、芸術の新しい表現に興味を寄せる批評家達でさえ、その作品の価値は感じる、しかも尚、在来の表現と矛盾する点は、すべて欠点であり稚拙であると看做すことである。独創は、この距りの中にのみ存在する。それ故、どの時代にも、新精神は反撥精神の最高の形であると言ってよい。

 

    (中 略)

 

 さて、サティは嘗て、モンマルトルに最もみじめな放浪生活を送っていた。当時はワグナア全盛の時代だった。ワグナアは神であった。ワグナア全ての上に。それはサアル・ペラダンの時代----彼のサロン『ラ・ローズ・クロア』で、豪勢な、わけの分からない、不合理なお祭騒ぎが行われていた時代だった。ニイチェから『老いたる魔法使い』と呼ばれた男が、フランスを暗くし、我々の持つ新鮮さを歪められた伝説の下で窒息させた。彼の『肥った女の兵隊』が、われらの国へ侵入した。

 ある見方からすれば、(ああ!)ワグナアを担ぐこと、それが唯一の態度だった。愚人達に反抗し、ワグナアを防ぐために全力をつくす必要があった。恐らく、真実の勇気は、尚別の理由のために咆哮すべきであったろう。(ドイツでは、それをニイチェがしている) ----しかし結局、それは報酬のない仕事だった。そしてフランスに於ては、その勇気を、何人にも求めることが出来なかった。

                                    (p.144-6)

 

 

坂口安吾ゆかりの地を巡る/新潟市|新潟県観光協会公式ブログ たびきち|【公式】新潟県のおすすめ観光・旅行情報!にいがた観光ナビ

 

 

巻末に置かれた「解題」には、こう記されている。

 

 *エリック・サティ(コクトオー訳及補注) 昭和六年五月一日発行の『青い馬』創刊号に発表。その後どの単行本にも収められていない。本全集における初収録のものである。

                                    (p.491-2)

 

 

引用者註:なお、この訳は後にジャン・コクトー「エリック・サティ」深夜叢書に収録されている。

少しばかり、全集の方が早かったというわけである。ウシシ

 

 

それにしても、今から慮るに、エリック・サティと坂口安吾とがすぐには繋がらない憾みも。。。えー

 

無頼派作家というレッテルが貼られた坂口安吾と、サティの音楽とが結びつきにくいのは何だか頷ける気がするけど。グラサン

 

日本における文学と音楽とのジャンルは互いに別々に捉えられ、同時に視界に入れることの困難さを伝えているようにも思えるなあ(この状況は現代でも変わらない・・・国民性だろうか)。。。おばけくん

 

 

 

ジャン・コクトーとエリック・サティ、坂口安吾との繋がりを再認識したわ!びっくり

 

 

 

 

この解説も一読されたし!拍手

 

 

 

 

  <エリック・サティ没後100年に寄せて!>・・・24

 

こんな本を図書館から借りてきた。チョキ

 

 

 

 

 

いろんな人たちが小林秀雄について語っている文章が並んでいる。

 

この中から、小林秀雄の近くにいた三人の女性による文章を抜き書きしてみよう!グー

 

 

 

先ずは、妹のリボン高見澤潤子から。

 

 

 大正十年三月二十日、私たちの父は、四十七歳で死んだ。兄は十九歳であった。

 ちょうど第一高等学校の入学試験の最中で、兄としてもかなり緊張していた時機だったが、父の死が、兄の人生のはじまりであっただろう。最初の人生の曲り角といってもいいかもしれない。私たちの生活が、父の死で、全く変ってしまったからである。

 私は十七歳であった。まだまだ甘ったれていたし、家の経済のことは全く知らずに育って来たので、父の死は悲しかったが、生活のことは、まだピンとは来なかった。 

   (「新潮」昭和58年8・9月:「兄 小林秀雄」p.141)

 

 

 

次に、長女のリボン白洲明子(小林明子)だ。

 

 父の仕事はまず感動する事からきっかけが生まれていたと思います。ある時は絵であり、ある時は音楽であったり対象は様々でしたが、感銘を受けたものに父の心の中の虫はどんどん入り込み、調べ、考え抜き、努力と工夫を重ねて仕事を完成させてきたのだと思います。病気になってからも、美しいと感じるものには例の感動の虫、考える虫はむくむくと動いていた。 

   (講演レコード「信ずることと知ること」解説書。昭和59年3月:「父 小林秀雄」p.163-4)

 

 

 

最後は、姻戚関係にあったリボン白洲正子である。

 

 小林が骨董をやっていなかったら、どうなっていただろう、と青山さんはしばしばいい、私は青山さんの自慢話だと思って聞き流していたが、今はそう思わない。フランス文学に育まれた明晰この上ない頭脳の持主が、人間の欲望と執着心にまみれた煩悩の世界に耽溺したことは、大きな意味があったと信じている。それはいわば馬鹿になってはじめから出直すことだった。

「骨董を見る時は、先入観を持ってはいけない。すべての知識を捨てて、無心になれ」といい、そのためにはカンを磨くことしかない、と小林さんは断言した。そんなことはいくら人にいわれても解るものではなく、自分で体得した後、はじめて思い当たるといったようなものだから、説明のしようがない。小林さんの「美を見る眼」とは、そうしたものであったので、編輯者さんには悪いけれども、私にはほかに書きようがないのである。

 文章を書く場合も、「七分は運動神経、三分が頭」だといっていた。頭がいいからいえることなのかも知れないが、無心になれとか、カンを磨くというのは、スポーツ選手のいうことで、骨董を見る眼と、文章を書く行為の間には、何か口ではいえぬ微妙な関係がひそんでいたに違いない。簡単にいってしまえば、運動神経をリズムと解しても間違ってはいないと思うが、日本語には「呼吸」とか「間」とかいういい言葉がある。文章を書く場合も、既成の概念や知識にとらわれず、自然の息づかいに従って事に当れ、という意味だったかもわからない。それは結局、自分自身を発見することにつながるであろう。

    (「新潮」臨時増刊、昭和58年4月:「小林秀雄の骨董」p.105-6)

 

 

 

 

三者三様の、小林秀雄の人物に対する文章を読んでいると、著作にだけ接した小林秀雄像とはまた異なった姿が見えてくるようで、興味深いわ!グラサン 

 

何年かぶりの参加になるかな。チョキ

 

 

 

 

 キラキラ「加藤周一が愛したもの-----言葉と人間」というタイトルなので、申込を済ませて参加。

 

 

講座は、二人の登壇者が・・・

 

 リボン「加藤周一が愛したもの----言葉と人間」 報告:半田侑子(加藤周一現代思想研究センター研究員)

 

 デニム「加藤周一が憎んだもの----戦争と権力」 報告:鷲巣 力(加藤周一現代思想研究センター顧問)

 

 

この二本立てだけど、半田さんの報告はそれなりにだったけど、興味深かったのは、後半の鷲巣さんの講演だ!びっくり

 

 

 

 

そもそも、愛したものと憎んだものという対照を際立たせるところに工夫もあるし、話の筋道などがとても面白く聞けたわ。

 

 

加藤周一は東京帝国大学医学部を繰上げ卒業し、1945年10月には日米合同原爆影響調査団参加というキャリアで、もともと医者だったけど、医学は人類を救えない?ということで、文筆家として生きたのだった。拍手

 

学生時代(旧制中学から大学まで)は、十五年戦争(1931-1945)と重なる時期なのであった。ガーン

 

 

なお、2016年4月に開館した「平井嘉一郎記念図書館」には加藤周一文庫もあるし、手稿ノートは「立命館大学図書館 / デジタルアーカイブ」で公開されている。

 

 

昨今の世界の動静は危機感を含んだものとなりつつあるご時世に、もう一度、加藤周一の思想に耳を傾けてみることも大切かもしれない。グラサン