上方落語にある程度通じている人にとっては、この人を知らないはずはない。
小佐田 定雄
オサダ サダオ
1952年、大阪市生まれ。落語作家。77年に桂枝雀に新作落語『幽霊の辻』を書いたのを手始めに、米朝一門を中心に落語の新作や滅んでいた落語の復活、東京落語の上方化などを手がける。これまでに書いた新作落語は200席を超える。近年は上方落語だけでなく、東京落語や、時には狂言の台本も手がけている。90年に第7回咲くやこの花賞、95年に第1回大阪舞台芸術賞奨励賞を受賞。著書に「落語大阪弁講座」(平凡社)、「5分でらくごのよみきかせ」全三巻(PHP研究所)、「上方落語のネタ帳」(PHP研究所)などがある。
260を超える新作落語を作り、東京落語を上方へ輸入し、消えてしまった噺を復活させてきた著者が、自作を語りつつ落語作家という職業の秘密をあかす。
第1章 持ちネタの変遷;
第2章 枝雀精選48席―演題別につづる舞台裏噺(青菜;あくびの稽古;愛宕山;阿弥陀池;池田の猪買い;いらちの愛宕詣り;植木屋娘;江戸荒物;延陽伯;親子酒 ほか);
第3章 音と映像と文字と
桂枝雀(1939-1999)
1959年に桂米朝から弟子入りの承諾を取り付ける[13]。これに際しては、反対する母親(英語教員にしたい意向を持っていた)を姉の助力で説得する曲折を経ている[13]。「前田クンならプロになれると思っていた」米朝は申し入れを即座に了承した[13]。
1960年(昭和35年)に神戸大学文学部に合格し、相談した米朝の勧めで入学したが、1年間通った後「大学は別に大したところやない」(米朝の証言)「もうええわと思いまして」(枝雀の後年の述懐)という理由でやめ、1961年(昭和36年)4月に「10代目桂小米」として正式に米朝の住み込み弟子となる[14]。兄弟子に3代目桂米紫、月亭可朝がいるが、内弟子としては米朝の一番弟子である[15]。(Wiki)
私は、小米ちゃん時代のストイックな落語も聴いているので、枝雀を襲名してからの派手なパフォーマンスが正直なところ馴染めなかった。なので、枝雀落語に親しんだのは、もっと後になってからである。
枝雀が亡くなって四半世紀が過ぎ、しだいに遠い存在へとなりつつあるけど、弟子の雀三郎が師匠の衣鉢(ハハハというわざとらしい笑いなど)を継いで、愉しい落語を聴かせてくれているのがせめてもの慰めだろうか。。。
・・・この噺のマクラで枝雀さんは「酒は百薬の長」という諺と「酒は命を削る鉋」というフレーズを並列して紹介しておられたが、枝雀さんはまた、こうも言っておられた。
「お酒は悲しい心を嬉しく変えることはできません。心の動きを増幅させることができるだけなんです。ですから、楽しい時に飲んだら楽しさが増幅されてより楽しくなって結構なんですけど、悲しい時に飲むと悲しさが増幅されてよけい悲しくなってしまいます。ですから、『やけ酒』というのは悔しさを増幅させる最悪のお酒でして、これがまさに『命を削る鉋』なんでしょうね。ですから、お酒は機嫌よくいただかないと、お酒に対して失礼なんです」・・・(p.65)
・・・「わたしは『お酒が好き』というより、お酒の力を借りて気を散じさせるために飲んでる部分があります。どないしても、根クラというか生真面目なほうに気持ちが狭く狭く寄ってしまうんで、そうならないようにお酒の力を借りてパーッと気持ちを発散させてるわけです」
その言葉のとおり、酒席の枝雀さんはいつもご機嫌だった。・・・(P.66)
こういうお酒がイチバン旨いかな(^^)
・・・枝雀さん曰く、落語というものは落語家のおしゃべりと身振りを頼りに、聞き手の皆さんが各自の頭の中に世界を描くことで成立している芸能である。聞き手の想像力にほぼ頼り切っているわけで、それぞれの頭の中に描かれている景色は聞き手の数だけあると言っていい。落語家は無意識で演じているだけなのに、今日のあんさんのように、自分の想像力で勝手な景色を見て感激してくれることがよくある。例えば、昔の名人が真夏の寄席で雪山で道に迷っているシーンを演じていたら、お客が寒さを感じたというたぐいの「名人伝説」があるが、その場合は落語家の演技力を褒めるより、そんな景色を見ることができた聞き手の想像力を褒めてあげるべきである。ただ、極めて主観的なものなので、全員が同じ思いをするわけではなく、ひょっとしたら、その場で一人だけが見た錯覚かもしれない。
真面目な顔で続けていた枝雀さんは、そこで破顔一笑。
「ま、そこが落語ちゅう芸のおもろいとこですけどな」
そして、さらに続けて・・・・・落語というものは演じ手の思いと聞き手の思いが一致することは大変難しい芸能である。演じ手である落語家が「今日は一度もトチらなかったし、テンポよくしゃべれた」と満足している時は、お客の反応はいまひとつで、ボロボロの二日酔いで舌は噛むわ、リズムは狂うわでほうほうのていで高座を降りて来た時に限って「今日の高座、良かったですね」と褒められることがある。なんでやと思います?・・・(p.135-6)
小佐田さん相手に真顔で話している枝雀さんの姿が彷彿としているわ!
・・・枝雀落語には詩情がある。
その「詩情」が最もよく表れていたのが『天神山』であった。ご本人も、「『たちぎれ線香』ほどではないにしても、ワーワーワーワーだけの噺ではありません」と言っておられた。・・・(p.158)
この後の文章は割愛するけど、私も好きなネタである。
「恋しくばたづね来てみよ南なる天神山の森の中まで」
https://www.nhk.or.jp/archives/common/image/copy_guard.png
小佐田定雄が初めて枝雀さんのために書いた作品である。