「明治の翻訳ディスクール」を読む・・・! | マンボウのブログ

マンボウのブログ

フラヌールの視界から、さまざまな事象に遊ぶ

こんな本を図書館から借りてきた。チョキ

 

 

   明治の翻訳ディスクール―坪内逍遙・森田思軒・若松賤子 (ひつじ研究叢書(文学編) 7)

 

本高橋修「明治の翻訳ディスクール ---坪内逍遥・森田思軒・若松賤子--- 」(ひつじ書房 2017)

 

<ひつじ研究叢書(文学編) 7>である。

 

 

<目次>
 第一部<人称>の翻訳
第一章 <人称>の翻訳・序説
第二章 <人称>的世界と語り ---- ジュール・ヴェルヌ『拍案驚奇地底旅行』
第三章 変換される<人称> ---- 坪内逍遥訳『贋貨つかひ』
第四章 <探偵小説>の試み ---- 坪内逍遥『種拾ひ』
第五章 「周密体」と人称 ---- 森田思軒訳『探偵ユーベル』
第六章 <自己物語>の翻訳 ---- 森鷗外訳『懺悔録』
第七章 <人称の翻訳>の帰趨 ---- 坪内逍遥『細君』
 第二部 言語交通としての翻訳
第一章 「媒介者」としての翻訳
第二章 <教養小説>の翻訳 ---- 丹羽純一郎訳『欧州奇事花柳春話』
第三章 『花柳春話』を生きる ---- 坪内逍遥『新磨妹と背かヾみ』
第四章 「探偵小説」のイデオロギー ---- 内田魯庵訳『小説罪と罰』
第五章 翻訳される「子どもらしさ」 ---- 若松賤子訳『小公子』
 第三部 冒険小説の政治学
第一章 明治期のロビンソナード
第二章 ナショナリズムの翻訳 ---- 矢野龍渓『報知異聞浮城物語』
第三章 「海洋冒険小説」の時代 ---- 『冒険奇譚十五少年』の背景
第四章 「冒険」をめぐる想像力 ---- 森田思軒訳『冒険奇談十五少年』
  初出一覧
  あとがき
  索引
 
 
   むらさき音符発見される<人称>
   
   メモ・・・「江戸時代には三人称を知らなかった」と喝破したのは野口武彦であった。あまりに大胆できっぱりとした物言いに戸惑いもするが、今日いうところの「人称」なる概念が存在しなかった、「江戸人はまったく別の体系に属する「人称」で物を書いていた」というのである。それが、明治に入り、翻訳作業と西欧語文典の知識を介して「三人称的言表」の存在を知り、かつ日本語ではそれが「形態差異的に特立されていない」、つまり、ある形態を伴って標示されていないという事実に気づかされる。野口によれば、それまでの日本語の文法空間では一人称的に語る/書くしかなかったが、これを契機に「三人称的言表」のあり方が模索されることになる。そして、「三人称」を示す「た」という文末詞が浮上すると同じく言文一致体が作り上げられ、「言表対象の客観性と定住性、言表行為の公正性と信憑性の外見を保持すること」が可能になったという。・・・(p.3)
 
 
「人称」という普段はあまり気にしない視点は、やはり明治期に入ってから西欧文学などの翻訳作業を通じて、顕になってきたのだった。のっけから、目から鱗の叙述を読んで、日本文学の近世までと近代以降の違いにも眼を開かせてくれたわ!口笛
 
 
   メモ・・・これに対して、ポルトガルと戦争状態にあり、かつカトリック教国の海外布教政策と一線を画していたオランダは、封建制を脅かす存在であるキリシタンの排除と同時に新たな貿易統制策を施こうとしていた徳川幕府と利害を同じくし、旧勢力のポルトガルを追い落とす側に立った。こうした情勢を後押しに、封建体制の維持をはかる幕府は寛永年間に五回にわたり通達を発し、日本人の出入国ならびに外国船とくにポルトガル船の渡来を厳に禁じることになる。ここに、九十年間続いたポルトガルとの関係は途絶・断絶され、それに代わって、オランダが鎖国後の通商的学問的交渉の特権的位置を占めることになる。この後、西洋からの情報は常にオランダ経由でもたらされ、洋学といえば蘭学をさすということになっていくのである。・・・(p.94)
 
ふむふむ。
江戸時代における海外との関係は、このようにしてポルトガルからオランダへと移行したのだった。
そして、それはイギリス、フランスへとさらに移行し、特に外交交渉と交易上で英語の重要性が高まり、喫緊の言語習得となってゆくのである。
 
 
もう少し、気になったところを引用しておこう。
 
 
   メモ・・・しかしながら、それは無理もないことであった。聖書の翻訳の歴史を振り返ってみても、旧約聖書が全訳されるのは明治二十年のことであり、新井白石はじめ多くの蘭学者たちが禁制下にもかかわらず聖書に特別の関心を持続していたにしても、キリスト教をとおしての西洋文化理解という次元にはとうてい到ってはいなかった。上田敏は「明治の大翻訳は疑もなく敬虔の信徒等が刻苦して大成せし旧新約聖書」であると述べているが、彼が念頭においていたのは、『欽定英訳聖書』なる英訳本を底本とした、翻訳委員会中訳『新約聖書』(明治十三年)と東京翻訳委員会訳『旧約聖書』(明治二十年)であった。これらは、日本在留の諸ミッションの宣教師----ヘボン、ブラウン、グリーンらを中心にした翻訳で、その格調の高さと論理の明晰さにおいて聖書和訳史に一時代を画するものであったといえる。それは、信仰上の意味だけでなく、新たな文体の創出という意味でも特筆すべき試みだった。・・・(p.100-1)
 
 
   メモ・・・そうした安定した<自己>に揺らぎを与えたのが、その名も『懺悔記』(『告白』)というジャン・ジャック・ルソーの自叙伝であり、その翻訳自体も重要な意味を持つことになるのである。・・・(p.103)
 
   メモ・・・むろん、鴎外がそれをどこまで理解していたかは俄には判じ難い。だが、少なくともこうした自己言及的な一人称のテクストを、自らの文学活動に先立って翻訳しようとしたことは見逃すことはできない。というのも、それと相似形の物語として『舞姫』(『國民之友』明治二十三年一月)を思い浮かべることができるからである。・・・(p.106)
 
 
  
          Mori Ogai Former Residence – Gururich! Kitakyushu