続:アーサー・ウェイリーとは・・・! | マンボウのブログ

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フラヌールの視界から、さまざまな事象に遊ぶ

さて、中国の漢詩や日本の和歌にも親しみ英訳で紹介し、謡曲まで興味の幅を広げたウェイリーは、いよいよ「源氏物語」の英訳へと進む。チョキ

 

 

   メモ・・・「きぬぎぬの別れ」はウェイリーの一生を通じての関心事となった。(中略)男女がたがいに相手の衣を着る putting on each other's clothes という場合もあれば、男女が別れに先立ちたがいに相手が服を着るのを助ける mutual dressing という場合もある。しかし十二世紀以後は「後朝」は the morning after の意味でしかなくなった、と解説している。あわせて西洋では雄鶏が暁を告げるが、日本では烏であった、と指摘しているが、そういえばウェイリーはかつて『日本文明の独創性』を論じた際『万葉集』巻七の作者未詳の歌、

 

  暁と夜烏鳴けどこの山上の木末の上はいまだ静けし

 

 を二人の対話に仕立てて訳していた。ウェイリーの翻訳手法がよくわかると思うので、その訳もここに添えておく。

 

  HE.  'Dawn, dawn, dawn!' the crows are calling.

    SHE.  Let them cry!

             For round the little tree=tops

             Of yonder mountain

            The night is still.

 

  男、「夜明けだ、夜明けだ」と烏たちが時をつげている。

  女、鳴いても構わないわ。

    だって向うの山の

    梢のあたりは

    まだ夜が静かなのですもの。 

 

 ロメオとジュリエットの後朝の別れさながらではないか。ちなみにシェイクスピアの悲劇の第三幕第五場のカプレット邸の二階のバルコンの二人の会話はこうである。

 

   女、もう行ってしまうの? 朝にはまだ間があるわ。 いま聞えたのは雲雀ではなくてよ。

   男、いや朝を告げる雲雀だ。 ほら、ごらん、あの向うの東の空を。ほがらかな朝がはや霧を破って山の頂きにつま先立ちに立っている。・・・(p.145-6)

 

 

確かに、「源氏物語」には<きぬぎぬ(後朝)>の場面が頻出すると言っていいだろう!グラサン

おそらく、多くの文学作品には、そんなシーンが盛り込まれているのだろうけど、「源氏物語」における<きぬぎぬ>ほどその叙述に関心を惹かれる作品は少ないかも。。。ウシシ

 

 

著者の専門とする比較文学・比較文化というジャンルはともすれば脇に追いやられてしまうのが我が国の習い(スペシャリストという命名で専門家を育てる、というか専門分野に限定するというアカデミックな機関の封建的とも言えるパターン)に疑義を唱えている私としては、とっても面白い著書であるわ!

 

国文学とか英文学とかいった鎖国的なジャンルに身を置くとウェイリーの業績は目に入らないかも。。。世界はグローバル化されて久しいけど、文学においては依然として狭い範囲に拘り過ぎた感が拭えない。大学など高等教育機関において文学部の位置づけが低下して久しいのも頷けるけど。

 

 

   メモ・・・「秘密のかくれ家で寄りそい、愛しあう若い二人の姿態と感情を描いて、なんとこまやかに美しい文章であろうか」というのが芳賀徹の評釈で、「「それにしても「たとしへなく静かなる夕の空」のもと、夕明かりを映す互いの顔を見交わしている(「夕ばえを見かはして」)というのは、それこそえもいえず美しい愛の情景である」と褒めている。1976年、サイデンステッカーは As they gazed at each other in the gathering dusk....と英訳し、2001年、ロイヤル・タイラーは They looked at each other in the twilight glow と訳した。いずれも正確で無難な訳である。だがウェイリーは1925年、The watched the light of the sunset glowing in each other's eyes.とした。これはウェイリーが自分の頭の中に浮かび上がった光景を英文に書いたのである。源氏は夕顔を「若う心ぐるし」あどけなくいじらしい、とほれぼれとして、相手の眼の中に燃えあがる夕映えに見入っている。そして夕顔も源氏の眼の中に燃えあがる夕映えに見入っているのである。・・・(p.151)

 

 

「夕顔」についての卓越した叙述だろうか!OK

 

 

   メモ・・・六条御息所の物の怪が能作者によって再三とりあげられたのは、物の怪がいかにインプレシヴであるかを証拠だてるものである。物の怪が主役のシテである。(中略)

 『源氏物語』の中で仏教にまつわる行事などいかにもファッショナブルで確かに度数も多い。貴族社会の中での重要性はわかる。しかし精神世界に与えるインパクトは、宗教的地盤は確実でないかもしれないが、物の怪の出現の恐怖には到底及ばない。『源氏』の中では舶来の宗教としての仏教は高級感があり、表面的にはきらびやかだが、夕顔や葵上にとりついた物の怪の迫力には及ばなし。「物の怪」とは仏教とかキリスト教とかの大宗教以前のものだが、文学では実はそうしたプリミティブなものの迫力もまた大切なのである。日本文学のインスピレーションの源の一つは ghostly Japan にあるのではないだろうか。ちょうどイェイツなどのアイルランド文学のインスピレーションの一つが ghostly Ireland であるように。・・・(p.157)

 

 

そうして著者は、こう断ずるのだ!グラサン

 

 

   メモ・・・リアルな実在の人間を描くことだけが文学ではない。生霊や亡霊や物の怪は隠された人の心の真実を語る。その ghost の声も新しい声であり得る。その『源氏物語』の「霊的なるもの」の世界とは、現世とは異なる死者の霊の世界である。それは日本においては多分に神道的なアニミスティックな世界として大掴みにすることも許されよう。『源氏物語』も夢幻能などの謡曲の世界も、仏僧はあらわれて時に重きをなす。しかし仏僧があらわれるにもかかわらず、これらの作品は本質的に神道の ghostly な伝統に連なる世界である。なるほどそうした物の怪や妖怪を鎮めるために、仏僧が招かれ、お経が唱えられるが、その役割は、前にも説明したように、機外神的のものにとどまっている。神道には聖典がないとチェンバレンは『日本事物誌』の中で嗤ったが、しかし神道的感情は、佐伯彰一も指摘したように、日本古典文学の多くの作品の中に湛えられている。この世ならぬ夢まぼろしこそ私たちの関心を強く惹く詩的な世界である。それもまた文学の根深い霊感の源なので、ウェイリーが日本文学の中に発見した物の怪の文学世界は多分に ghostly Japan と呼ばれるものであった。そしてそれは偶然ながらハーンが日本文化の中に見出した特質でもあった。・・・(p.192)

 

 

引用など長くなりそうなので、次回へと続くことに!バイバイ

 

 

 

 

   <「源氏物語」を愉しむ!>・・・13