「源氏物語」の英訳は・・・<ウェイリー vs サイデンステッカー>! | マンボウのブログ

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さて、この二人の英訳者による比較は・・・虫めがね

 

 

先ずは、指輪「桐壺」の冒頭から。

 


原文は・・・右差し

 

   いづれのおほん時にか、女御更衣あまた侍ひ給ひけるなかに、いとやむごとなききはにはあらぬが、すぐれて時めき給ふ、ありけり。 (玉上琢彌訳注「源氏物語」 角川ソフィア文庫 p.25)

 

 

 

  At the Court of an Emperor (he lived it matters not when) there was among the many gentlewomen of the Wardrobe and Chamber one, who though she was not of very high rank was favored far beyond all the rest; ・・・(ウェイリー訳: p.4)

 

 

  In a certain reign therewas a lady not of the first rank whom the emperor loved more than any of the others. ・・・(サイデンステッカー訳: p.3)

 

 

 

二つの英訳文を見て、すぐに分かるのはウェイリー訳が十分な説明を行っていることで、サイデンステッカー訳では、さらりと過ごしている。なお、「いとやむごとなききはにはあらぬが」は、

 

  

  not of very high rank (ウェイリー訳)

 

  not of the first rank (サイデンステッカー訳)

 

 

とよく似てはいる。ハイ・ランクかファースト・ランクかの違いだ。

 

 

 

それでは、指輪「若紫」の場面はどうか・・・口笛

 

 

原文は・・・右差し

 

  (源氏)「見ても又逢ふ夜まれなる夢の中にやがて紛るヽ我身ともがな」

と、むせかへり給ふ様も、さすがにいみじければ、

  (藤壺)「世語りに人や伝へむ類なくうき身を醒めぬ夢になしても」

おぼし乱れたる様も、いと道理にかたじけなし。

 

 

それぞれの英訳は、

 

 

  I need not tell all that happend. The night passed only too quickly. He whispered in her ear the poem: "Now that at last we have met, would that we might vanish forever into the dream we dreamed tonight!" But she, still conscience-stricken: "Though I were to hide in the darkness of eternal sleep, yet would my shame run through the world from tongue to tongue." And indeed, as Genjiknew, it was not without good cause that she had suddenly fallen into this fit of apprehension and remorse. ・・・(ウェイリー訳: p.94)

 

 

      "So few and scattered the nights, so few the dreams.

          Would that the dream tonight might take me with it."

 

      He was in tears, and she did, after all, have to feel sorry for him.

 

            "Were I to disappear in the last of doreams

             Would yet my name live on in infamy?"

 

      She had every right to be unhappy, and he was sad for her. ・・・(サイデンステッカー訳: p.98-9

 

 

こちらは一見して、ずいぶん違った印象を与えるなあ。。。うーん

ロマン(物語風小説)とドラマの違いほど印象が異なる。

 

 

ウェイリー訳は、両大戦間のイギリスで、サイデンステッカー訳は、戦後のアメリカでという20世紀前半と後半という時代の違いもさりながら、長い宮廷文化の歴史をもつイギリスと、そもそも宮廷文化を持たなかったアメリカという文化背景の違いも大きいだろう(なので、現代日本の読者は後者の方が読みやすいかも)!OK

 

 

 

ここで、長くなるけど、本「平川祐弘決定版著作集」(勉誠出版 2020)からの引用を紹介してみたい!

 

「Ⅳ 世界の中の日本を愛したい」・・・

 『源氏物語』の歌とウェイリーの英訳----エクスプリカシオンの試み

 

源氏と藤壷の歌

 その藤壷の里の邸で一夜を過ごしたあと二人はこんな歌を交わす。源氏は「お逢いしてもふたたびお逢いすることも難しい、夢のような逢瀬です。私は夢の中にこのまま消えてしまいたい」と夢のようなことを言う。しかし藤壷はより現実的に事が露見するのではないかと気にかける。「こんな憂き身はさめることのない夢のなかのものにしてしまいたい。しかしそうしたところで世間は悪い評判を後の世に伝えるでしょう」

 

  見てもまた逢ふ夜まれなる夢のうちにやがてまぎるるわが身ともがな   源氏

  世語りに人や伝へむたぐひなく憂き身をさめぬ夢になしても       藤壷

 

  Now that at last we have met, would that we might vanish forever into the dream we dreamed tonight!" But she, still conscience-stricken: "Though I were to hide in the darkness of eternal sleep, yet would my shame run through the world from tongue to tongue.

 

 ウェイリーの訳の巧みさは、源氏の言葉を一人称単数でなく複数の we に訳した点だろう。二人は共犯者としてともに夢の中に逃げ込みたい。 at last という原(もと)の歌にない言葉をここに入れると、二人はこの夜はじめて契りを交わしたという印象を与えてしまうので、ミスリーディングというべきだろう。そんな主観的な源氏の詠嘆に対して藤壷は、悪評のために傷つくのは自分だ my shame と一人称単数で訳している。このコントラストに二人の間の食い違いがかいま見られる。源氏の方はやはりいい気な男なのである。

 なお同じ「若紫」という巻の題をウェイリーは Murasaki と人物名として訳したが、サイデンステッカー(中略)は Lavender と色の名として訳した。それだけでも違いは生ずるのだから、源氏の歌についても二人の訳は大きくずれる、アメリカの日本学者は「(逢瀬の)夜はいかにもまれで間遠である。昨夜の夢が夢とともに私を連れ去ってくれればよかった」と訳した。なんだかつまらぬ男のつまらぬ台詞のような気がする。

 

       So few and scattered the nights, so few the dreams.

          Would that the dream tonight might take me with it.

 

 

           Were I to disappear in the last of doreams

           Would yet my name live on in infamy?

 

 それに対して藤壷の露見をおそれる気持はサイデンステッカー訳でもウェイリー訳に近い表現で訳されている。なおサイデンステッカー訳では男も女も単数で自己中心的で話している。あまり詩的ではない。竹西寛子(1929年生)は源氏のこの一首について「私は行く先を悲観した嘆きの歌としてよりも、これほどの仕合せを知ったら、もういつ死んでもよいとでも言いたそうな、ききわけのない子がそのまま育ったような若者の憎めない恋歌として読みたい」と述べているが、はたしてそれほど読者の感動を誘う歌であろうか。源氏の歌を聞いて藤壷は男女の喜びのことよりも良心の咎めと世間体に悩んだ。「昨夜の夢の中にたとい自分が消えてしまったとしても、それでもわたしの名前は恥にまみれて後世に伝わることになるのでしょうか」。・・・(p.641-3)

 

 

 

この文章を読めば、ウェイリー訳とサイデンステッカー訳との違いがよく分かるだろう!グッ

 

 

 

 

   <「源氏物語」を愉しむ!>・・・11