こんにちは、リブラです。
今回は「イニシエーション」第14章の解説です。
まずは、あらすじから。
第14章「闇」
新婚生活が始まって間もない頃、エリザベスの右目に、
突然、黒い線が見えるようになりました。
まだ二十代だった彼女の硝子体に、
まるで高齢者のような濁りが生じたのです。
いわゆる「飛蚊症」と呼ばれる症状でした。
医師から告げられたのは、治療法がないということ。
しかも、加齢や精神的な緊張によって症状が
進行する可能性があると言われます。
やがて左目にも、同じような症状が現れ始めました。
エリザベスにとって、目の前を横切る黒い線は、
単なる視覚上の異常ではありませんでした。
それは次第に、「見えなくなるかもしれない」という
死の恐怖そのものになっていったのです。
黒い線は、まるで死と腐敗を象徴する
「メメント・モリ」のように、
彼女の日常へ入り込んできました。
そして、その恐怖は、彼女が大切にしていた夢まで
奪おうとしていました。
エリザベスは、素描や彩油の才能を
周囲から期待されていました。
しかし、視力を失う可能性を考えれば、これまでの
ように絵を描き続けることは難しくなります。
「もし目が見えなくなったら、
私はどうなるのだろう?」
そんな絶望の中で、彼女が思い出したのが、聴覚を失い
ながらも音楽家であり続けたベートーヴェンでした。
実は、右目に異変が起こる以前のエリザベスには、
誰にも明かしていなかった大きな野望がありました。
それは、「一世を風靡する華麗なアーティストになる」
という夢です。
視力を失うかもしれないという現実に打ちのめされ
ながらも、彼女は、その夢にかろうじてすがりました。
そして、目隠しをしてピアノを弾く練習を始めます。
「目が見えなくても、音楽ならできるかもしれない」
そんな思いが、彼女を絶望の底から、かろうじて
支えていました。
さらに彼女は、食塩水を注射する治療にも耐えました。
この治療は、結果的にはほとんど効果がありませんでした。
しかも、目を開けたまま注射を受けなければならず、
肉体的な痛みだけでなく、
強い恐怖にも耐え続けなければなりませんでした。
けれども、後になってエリザベスは、
この苦痛に満ちた経験が、思いもよらない
意味を持っていたことに気づきます。
それは、「自然の本能をコントロールする」
訓練だったのです。
痛みを感じれば、身体は反射的に逃げようとします。
恐怖を感じれば、目を閉じ、身体をこわばらせ、
そこから逃れようとします。
けれども彼女は、逃げることのできない状況の中で、
その本能を意識によって抑え、恐怖と苦痛を
真正面から受け止めなければなりませんでした。
当時の彼女には、それがヨガの訓練につながっている
などとは知る由もありません。
しかし、後になって振り返ったエリザベスは、
この経験が、ヨガにおける高度な訓練の
ひとつになっていたことに気づきます。
それは、「身体のすべての機能を完全に
コントロールする技」を身につけるための、
強力な足がかりだったのです。
「目が見えなくなるかもしれない」
そう思ったことで、エリザベスは、
それまで当たり前に使っていた「視覚」を
失うことへの恐怖に直面しました。
けれども、ひとつの感覚が閉ざされようとするとき、
人間の意識は、別の感覚へと
より深く向かうことがあります。
視覚を失う恐怖の中で、エリザベスは次第に、
聴くことへ意識を集中させていきました。
逃げ場のない状況に追い詰められ、
恐怖を直視し続けたことで、彼女は全神経を
聴覚へ集中させる力を身につけていったのです。
そして、そこで待っていたのは、
思いもよらない「声」でした。
それは、エリザベスがかつて生きた、
古代エジプトの転生の時代。
そこで彼女を導いていた、
懐かしい師の声だったのです。
目の前の世界が「闇」に覆われていく。
しかし、その闇の中でこそ、
これまで見えていなかったものが、
少しずつ姿を現し始めていたのでした。
「イニシエーション」第14章の要約
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「幸せすぎて怖い」とき、エゴの中で何が起きているのか
前章では、愛する人と結婚し、
本来なら幸せの絶頂にいるはずのエリザベスが、
エゴの生み出すネガティブな思考によって、
「死が、愛する人も、今の幸福も、すべて奪ってしまう」
という恐怖に苛まれていく姿が描かれていました。
そして第14章では、その心の中にあった「怖れ」が、
ついに彼女の視界に「黒い太線」となって現れ始めます。
失明するかもしれない。
そう思えば思うほど、その未来が
現実のような恐怖を伴って迫ってくる。
この章では、心の中で生まれた怖れが、
身体感覚をともなう苦しみへと発展していく過程が、
生々しく描かれています。
「幸せすぎて怖い」の正体
私たちは、ときどきこんな言葉を口にします。
「幸せすぎて、なんだか怖い」
不思議な言葉ですよね。
本来なら、幸せは嬉しいもののはずです。
それなのに、私たちは時として、
その「幸せ」さえも怖れの材料にしてしまいます。
なぜなのでしょうか。
エゴにとって安心できる幸せには、
ある条件が絡んでいるからです。
それは、
「自分が頑張ったから、この幸せを手に入れた」
と、自分自身が納得できることです。
努力した。我慢した。頑張った。
だから、その報酬として幸せを受け取る。
これは、エゴにとって、
とても理解しやすい世界です。
ところが、自分の努力や計画では
到底説明できないような幸せが、
突然、目の前にやってきたらどうでしょう。
「こんなに幸せになっていいの?」
エゴにとっては、
むしろそのほうが不安なのです。
そして、その不安を落ち着かせるために、
エゴはこんな思考を始めます。
「こんな幸せが、ずっと続くはずがない」
「きっと、何か悪いことが起こる」
「この幸せを失ったらどうしよう」
幸せそのものを怖れることで、
エゴは自分が理解できる世界へ戻ろうとするのです。
「それでエゴが落ち着くのなら、考えさせておけばいい。
どうせ妄想なのだから、現実にはならないはず」
そう思うかもしれません。
けれども、ここに身体意識としてのエゴの、
やっかいなところがあります。
ネガティブな思考は、
単なる頭の中の言葉だけでは終わらないのです。
思考は、身体に「現実」を体験させる
私たちの脳は、とても多くのエネルギーを使う器官です。
だからこそ、頻繫に意識に上がることは、次第に
「考えようとしなくても考えてしまう」思考回路
になっていきます。
そして、その思考には、それに応じた
身体の反応も結びついていきます。
怖いことを考えれば、心拍が速くなったり、
呼吸が浅くなったり、身体が緊張したりする。
感情を伴うことで、
頭の中の思考には臨場感が生まれます。
「これはただの想像だ」と頭ではわかっていても、
身体はその瞬間、まるで本当に起きている
かのように反応するのです。
たとえば、怖い話を聞いて
鳥肌が立った経験はないでしょうか。
頭では、「これはフィクションだ」とわかっている。
それでも、その直後にひとりで暗い道を歩けば、
いつもより周囲が怖く感じられる。
つまり、身体は「現実に起きたこと」と
「リアルに感じたこと」を、私たちが思うほど
単純には区別していないのです。
では、エゴが「ネガティブな思考回路」を繰り返し、
そのたびに怖れを誘発していたら、
身体はどうなるでしょうか。
身体は危険に備えるサバイバルモードへ入っていきます。
それが一日だけなら、
身体には元の状態へ戻る力があります。
けれども、それが朝から晩まで繰り返され、
眠っている間まで夢に現れるほどになったとしたら――。
まるで身体が、休む暇なく「危険が迫っている」と
言われ続けているような状態です。
エリザベスも、このような心と身体の状態だった
のではないかと思いました。
彼女は「死」を恐れ続けました。
そして、その怖れは、
愛する人を失うことへの恐怖から始まり、やがて
「自分自身も死に近づいているのではないか」という
身体への恐怖へと変わっていきました。
その恐怖を象徴するかのように、
彼女の視界には黒い線が現れます。
私にはこの黒い線が、ひとつの象徴として
映ります。
「恐怖の檻に閉じ込められている」
まるで、身体そのものが彼女にそう伝えている
かのように見えるのです。
恐怖から逃げられない場所へ
そしてエリザベスは、その恐怖から逃げること
のできない治療を受けることになります。
目に食塩水を注射される。
しかも、目を開けたまま、
眼球を動かさずに耐えなければならない。
痛みと恐怖を、
真正面から受け止めるしかありません。
ところが、治療を続けても症状は改善せず、
ついには正常だった左目にも黒い線が現れます。
恐怖から逃れようとしても、逃れられない。
目を閉じることもできない。
まさに、自分が最も恐れているものを、
目の前で見続けなければならない状況です。
しかし、ここで、
この試練の意味が変わってきます。
これは、エリザベスをただ苦しめる
ための試練ではなかったのです。
どんなに恐ろしい現実であっても、
感情に飲み込まれず、
意識を保ったまま直視する。
その力を鍛えるための訓練だったのです。
彼女には、感情に翻弄されることで
イニシエーションに失敗した過去生
の体験がありました。
だとすれば今回の人生では、
そのときとは違う選択をする必要があります。
どれほど悲惨な現実に直面しても、
恐怖に意識を奪われるのではなく、
自分の内側に意識を集中し、
目覚めた状態で現実を受け止める。
その力を身につけること。
そう考えると、
目の病気をめぐる一連の出来事は、
後に彼女がヨガへ深く向かっていくための、
大きな伏線として見えてきます。
「見ない」という選択
さらに興味深いのは、
あれほど彼女を苦しめていた黒い線が、
目を閉じれば見えなくなることです。
物質世界から入ってくる情報に
意識を奪われるのではなく、
目を閉じて、別の感覚へ意識を向ける。
エリザベスは、視覚を奪われる恐怖の中で、
ピアノを弾くことに集中し始めました。
そして治療では、目を開けたまま眼球を
動かさないという、極度の集中を要求されます。
一見すると、どちらも苦痛に満ちた経験です。
けれども後から振り返れば、それらは、
「身体の反応を意識によってコントロールする」
ための実践的な訓練になっていました。
それは、後にエリザベスがヨガの中に見出す、
「身体のすべての機能を完全にコントロールする技」
へとつながっていくのです。
人生の中には、そのときには
ただの苦しみにしか見えない出来事があります。
けれども、後になって振り返ってみると、
「あの経験があったから、今の自分がいる」
と気づくことがあります。
イニシエーションの試練とは、もしかすると、
そういうものなのかもしれません。
その渦中にいるときには意味がわからない。
ただ苦しく、ただ怖い。
けれども、その経験を通り抜けた先で
振り返ったとき、そこに次のステージへ
進むための「伏線」が置かれていた
ことに気づくのです。
そしてエリザベスは、
この長く苦しい「闇」の中で、
ついに、探し求めていた存在とつながります。
視覚が閉ざされていくことで、
彼女の意識は聴覚へと向かいました。
そして、その「聴く力」の先で彼女が受け取ったのは
古代エジプトに生きていた頃の、懐かしい師の言葉でした。
見えなくなったからこそ、
聴こえてきたものがあった。
「闇」は、エリザベスから何かを奪うだけの
ものではありませんでした。
それまで見えていた世界をいったん暗く
することで、彼女を、まだ知らなかった世界へ
導く入り口にもなっていたのです。
試練に遭遇したとき、どこに意識を向けるのか
私たちの人生にも、突然、
自分ではどうにもできないような出来事が
起こることがあります。
病気。事故。失恋。仕事の問題。大切な人との別れ。
そんなとき、最初に出てくるのが、
「どうして私ばかり……」
「なぜこんなことが起きるの?」
「私はこんなに頑張ってきたのに」という思いかもしれません。
それは、とても自然な反応です。
けれども、そこに意識を留め続けると、
私たちは「被害者」という立場から、
何度も同じ出来事を考え続けるようになります。
「こんな目に遭った」
「私はかわいそうだ」
「あの人が悪い」
「どうしてこんな人生になったのだろう」
思考が繰り返されるたびに感情が動き、
その感情がまた同じ思考を呼び戻す。
そして、気がつけば、
その思考と感情の循環から
抜け出せなくなってしまいます。
タフティの言葉を借りるなら、これは
「振り子」に意識を持っていかれている状態
とも言えるでしょう。
振り子は、私たちの注意を引きつけます。
怒り、恐怖、悲しみ、自己憐憫。
強い感情ほど、
私たちの意識をそこに釘づけにします。
だからこそ、試練に遭遇したときに大切なのは、
「この出来事をどうにかしなければ」
と考え続けることだけではありません。
まず、
「いま、私は何を考えているのだろう?」
「身体はどんな反応をしているだろう?」
と、自分の内側を観察してみることです。
胸が締めつけられている。
呼吸が浅くなっている。
肩に力が入っている。
お腹が硬くなっている。
身体のどこに緊張があるのかを感じてみる。
そして、
「私はいま、怖がっているんだな」
「私はこの出来事を失うことを恐れているんだな」
と、感情を否定せずに眺めてみる。
それだけでも、少しずつ立ち位置が変わります。
「私は恐怖そのもの」ではなく、
「恐怖を感じている私を観察している意識」になる。
これが、エリザベスが試練の中で
身につけていった力だったのではないでしょうか。
恐怖を消す必要はありません。
痛みを感じない人になる必要もありません。
ただ、恐怖に意識のすべてを明け渡さない。
身体がサバイバルモードに入っていることに
気づいたら、まず呼吸を戻す。
身体の感覚を感じる。
そして、いま自分の内側で
何が起きているのかを静かに観察する。
それは、現実から逃げることではありません。
むしろ、現実を直視するために、
意識を取り戻すことなのです。
エリザベスは、目の前の恐怖から逃げることが
できませんでした。
だからこそ、視覚から意識を離し、
聴覚へ集中していきました。
そして、その「聴く力」の先に、
彼女が探し求めていた師の声がありました。
私たちも、人生の試練に遭遇したとき、
同じように問いかけることができるのかもしれません。
「この出来事は、私から何を奪うのだろう?」
ではなく、
「この出来事を通して、
私は何を学ぼうとしているのだろう?」と。
もちろん、苦しみの真っ最中に、
すぐそんなふうに考えられなくても構いません。
まずは泣いていい。
怖がっていい。
休んでもいい。
助けを求めてもいい。
そのうえで、少し力が戻ってきたら、
自分の意識を振り子から取り戻す。
外側の出来事に奪われていた意識を、
もう一度、自分の内側へ戻していく。
そこから、次の一歩が始まります。
第14章の「闇」は、エリザベスから視力を奪う
物語であると同時に、外側の世界を見ることが
できなくなったとき、内側の世界へ意識を向ける
物語でもあったのではないでしょうか。
人生の試練は、その渦中にいるときには、
ただの苦しみにしか見えません。
けれども、その経験を通り抜けたあとで振り返ると、
「あの出来事があったから、私はここまで来られた」
と思えることがあります。
闇の中にいるときには、先の道は見えません。
それでも、意識を自分の内側へ戻してみる。
すると、そこには、まだ自分が気づいていない
「声」があるのかもしれません。
見えなくなったからこそ、
聴こえてくるものがある。
エリザベスの「闇」は、そんなことを
私たちに教えてくれているように思います。
次回も「イニシエーション」の解説を予定しています。
Noteも更新しました。こちらも読んでいただけたらうれしいです!
わたしのサロン、リブラライブラリーでは、
あなたの心のしくみをホロスコープで解説し、
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