23日から1泊の小旅行をして、朝食のため24日朝のテレビニュースを見なかった。したがって大変な遅ればせで、帰りの新幹線の車中のテロップで知った。

 

第1回投票で過半数
 日本時間の24日未明、2025年万博が大阪に決まったことだ。
 パリで開かれていた開催地を決める博覧会国際事務局(BIE)総会で、当初から大阪はロシア・エカチェリンブールク、アゼルバイジャン・バクーに比べて優勢と見られいた。一時立候補していたパリが降りた時点で、一気に最有力になった。
 ただ第1回投票で決められる3分の2確保は困難と見られ、その場合、かつて同じ旧ソ連の国だったロシアとアゼルバイジャンの2、3位連合が懸念されていた。
 BIE加盟国170カ国のうち、投票権は分担金を支払っている国に限られたので、総票数は156カ国。第1回投票では、大阪は過半数の85票だった。ただ2位のロシア48、3位のアゼルバイジャン23は圧倒した。2、3位が連合を組んでも大阪に及ばないことから、この時点でほぼ大阪の当選が決まった。

 

エカチェリンブールクもバクーも欧米から遠い
 最終結果は、大阪92票、ロシア61票だった。大阪は、7票しか上積みできなかったけれど、票差では圧勝、であった。
 ロシアのプーチン政権の強権支配や、汚職大国であることが嫌われたと見られる。また開催地のエカチェリンブールクは、ウラル山脈の東側に位置し、ヨーロッパから遠い。またアゼルバイジャンのバクーも、ザカフカースの先でさらにヨーロッパから遠い。
 対して大阪は、アジアの中心都市の東京の隣で、1970年万博の開催地でもあり、地の利はあった。

 

ロシア革命直後にここで5人の子どもを含む皇帝一家は殺された
 ちなみにエカチェリンブールクは、ロシア史に関心を持つ僕に、ひときわ思い出深い。日本も日露戦争で戦ったニコライ二世が、1917年の革命後、妻子とともにボリシェヴィキ(後の共産党)に幽閉され、翌年7月17日、ここで家族もろとも銃殺されたからだ(08年6月27日付日記:「ロシア皇帝一家の非業の死、最終確認:ニコライ二世、アナスタシア、エカチェリンブルク」を参照;写真)。

 


 皇帝夫妻と共に虐殺された幼い皇太子アレクセイ、4人の皇女に深い哀惜の念を覚えるのが、エカチェリンブールクである。ここが開催地にならなくて良かった、と思う。

 

目標は70年万博の半分以下、盛り上げて成功を
 かねてから2020年の東京五輪後に景気後退が懸念されていたが、5年後に大阪で万博が開かれることで、この懸念はだいぶ薄らいだ。そのことだけでも、喜びたい。
 大阪府知事、大阪市長という維新の会の幹部2人がパリに乗り込んだのも、開催地が大阪に選ばれるのは、会場に予定される「不良資産」の人工島「夢洲」(写真)復活に不可欠だったからだ。大阪が拠点の維新にとって、大阪万博は必達目標でもあった。

 


 ただ「人類の進歩と調和」を掲げた70年万博が会期半年間で6421万人も集めたのに、「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマとする25年万博の入場者目標が2800万人とは寂しい。
 近年、ディズニーランドその他の大型テーマパークが世界中に整備され、大阪もUSJがすぐ近くに位置するから、食い合いになる。
 2800万人でも野心的な目標なのだという。実際、2000年のハノーヴァー万博(ドイツ)は、来場者1800万人と目標の半分にも満たなかった。
 インバウンド需要もさらに盛り上げる2025年大阪万博。ぜひ成功させたい。

 

昨年の今日の日記:「11光年先と太陽系に2番目に近い地球型系外惑星がまた見つかる;赤色矮星には地球型惑星がほぼ存在するのか」

 

 エチオピアのメケレの朝、ホテルの窓から外を観た。
 通りを往来する白布の男たちの他、遠くに珍しいものを見つけた。イスラムのモスクと思しき建物である(写真)。

 

 

 久しく休載していたエチオピア紀行を再開する。この間、1月末にニュージーランドのミルフォード・トラックを歩いたり、4月に福島に桜10景の旅に出かけたり(肝心の桜はほぼ終わり、まだ満開だった会津では雨に降られたりと散々だった)、さらに宮古島の旅だとかソウルの旅だとかが挟まり、ずっと放置していた。
 振り返れば、エチオピアの旅はもう2年半前に近い。その後に行ったヨルダン、イスラエルの紀行文は、ずっと休載し放しだ。こちらは今少し、放置するしかない。

 

ティグレ州にはムスリムが約5%
 さて、エチオピアである。旅の7日目(エチオピアでは6日目)の朝のメケレは、ティグレ州に属するが、エチオピア全体と同じ、キリスト教徒が大半だ。
 しかしイスラム教徒が多数の遊牧民の地の東部に近いせいか、人口比5%前後のイスラム教徒もいる。これが東部の低地になると、さらにイスラム教徒の比率が高まる。翌日に観ることになるダロール地溝帯のアサレ塩湖近くの岩塩採掘に従事するのは、アファール族イスラム教徒だ(僕らが訪れたのは金曜日で、イスラム教の安息日に当たったので、岩塩採掘はお休みだった)。
 それでも、ここでエチオピアで初めてのイスラムの気配だった。

 

耐震などどこふく風の柱の細さ
 朝食後、外に出てみた。
 改めて泊まったプラネットホテルを外から観ると(写真)、日本では絶対にお目にかかれないほどの柱の細さに驚く。隣の建設中の建物も、柱は細く、床は薄い。足場も、細い丸太だ。

 

 

 メケレは、まさに日本のインバウンド需要と同じで、外国からの観光需要を当て込んでホテルラッシュである。泊まっている僕たちは分かり難いが、毎度のことながらエチオピアに来て高層建築の貧弱さに薄ら寒さを覚える(写真)。

 

 

 

 万一、エチオピアで大地震に見舞われれば大被害の出るのは必至と思える。
 だから僕は、旅が終わるまでエチオピアで地震が起こらないことをずっと望んでいた。(昨日朝、大阪北部を襲ったM6.1の地震で交通機関がストップし、京都・大阪を訪れていた多数の外国人旅行者の脚も奪われた。地震国日本の1つのリスクだが、エチオピアの都市の建築中ビルを思い出すにつけ、味わった不安さをいかばかりだったかと同情をする。)

 

日本の明治時代的風景も
 そして建物の頑丈さには疑問符が付くけれど、ともかくモダンな建物が建築中である。その足元で、日本の明治時代さながらの光景が目に入る。
 例えば、馬車である(写真)。これはいまだにエチオピアの主要運搬手段のように見える。

 

 

 さらに建設中のビルの囲い塀の傍らに、露店のような店が出る(写真)。一部は、ここに寝泊まりしているのではないか、とも思える。

 

 

昨年の今日の日記:イスラエル・ヨルダン旅行のため休載

 

 2泊3日のソウル行の最終日となった。午後の便で帰国するまで多少の時間はある。博物館に入ったりする時間はないけれど、街歩きはできる。それに、ぜひ訪れたい所があった。

 

早朝にホテルを出たが腹の調子が
 早朝にホテルをいったん外出した。
 ところがホテルを出て、2ブロックほど歩いて、腹の調子がおかしくなった。急いでホテルに戻ってトイレに入った。
 下痢した理由は、2つ、思い当たる。1つは、6月8日付日記:「韓国、ドボンサン登攀記(6);下山路を間違えて出た望月寺は森の中、水も豊かで喉を潤す」で記したドボンサンからの下山中に望月寺の山門近くで補給した水、である。流れている水で、しかも冷たかったから、湧き出したものであることは確かだが、雑菌では入っていたのか。
 もう1つは、前夜、南大門市場の一角の魚屋の2階で食べた刺身が原因の可能性である。
 ヒラメ、ソイなど、白身の魚が刺身が、大きな皿に隙間無く敷き詰められていた豪華版である。活きは良く、コリコリした歯ごたえがたまらなかった。

 

魚は新鮮だったが
 店は、お世辞にも清潔そうに見えなかった。それでも安いからなのか、土曜日夜ということもあり、満席だった。予約を受け付けない所なので、行って席が空くまで10分ほど立って待っていた。それほどの繁盛している店で、新鮮な魚で悪いものが出るか。
 幸い下痢は軽く、あと、トイレに駆け込む場面は訪れなかった。
 ただしばらく、ベッドで横になっていた。

 

西大門(ソデムン)独立公園へ
 1時間半は、そのまま横たわっていて、11時半チェックアウトまで、1時間半というタイミングで起き出した。
 ホテルは、鐘閣(チョンガク)駅近くにあったから、「西大門(ソデムン)独立公園」までは、地下鉄1号線で2駅先である。
 早朝出た時は、歩くつもりだったが、歩いていては間に合わないかもしれない。地下鉄に乗った。
 西大門独立公園の場所柄、日本人の僕が尋ねたら意地悪されるか、とも懸念したが、ソデモン駅で中年男性に出口を尋ねたら、親切に教えてくれた。韓国の「反日感情」に、どうも僕は過剰に自己反応をしているようだ。
 4番出口で地上に出ると、すぐに「3・1独立宣言記念塔」が見えた(写真)。

 

 

 

歴史館はパス
 この公園(写真)の一角には、「西大門刑務所歴史館」がある。日本統治下の抗日独立運動の闘士たちが収容された監獄や死刑場、塀や見張り台などが残されているという。独立運動家で、逮捕後に官憲の拷問を受け、獄中死したことで名高い柳寛順の地下女子房も残されているそうだ。

 

 

 時間もなかったし、反日宣伝の場ともなっているので、今回はパスする。

 

親日の記念碑「独立門」
 僕が観たかったのは、「独立門」である。公園南端に立つ、パリのエトワール凱旋門を模して1897年に造られた(写真)。

 


 創建年からして、3・1独立宣言記念塔とは性格を異にする。
 つまり日清戦争で、日本が清国に勝利したことにより、下関条約で清の冊封体制から李氏朝鮮が解放され、独立を認められたことを記念して建てられたのだ。
 日本が韓国を併合したのは、1910年だ。3.1独立運動蜂起が起こったのは、1919年3月1日である。
 すなわち19世紀末、日清戦争直後は、朝鮮は清国から解放してくれた日本に感謝する立ち位置だったことを示す。

 

元の位置から移され、南側隅っこに
 ところが反日一辺倒の現在の韓国では、独立門は「日本からの独立」を記念する門であると誤解・勘違いしている人が多い(!)のだという。時代認識も大間違いだし、正しい歴史が教えられておらず、歪んだ歴史観のもとで反日教育一辺倒で育った世代ばかりになったから、そういうことになる。
 かつて日本に感謝しつつ創建された独立記念の一時代が忘れられている。そのせいか、独立門は本来の位置から大きく南側、すなわち片隅に移されている。
 これを観られたのは、収穫だった。写真は、漢字表記されている南側から見た独立門と北側から見たハングル表記の独立門。

 

 

 

(ソウル訪問記はこれで終わります)

 

昨年の今日の日記:イスラエル・ヨルダン旅行のため休載