続きです。
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私は悩んでいました。
そして、どうして話し合っておかなかったのかと自分を責めました。
誰にいつ起こってもおかしくないことなのに。
母ならなんというだろう。
昔の母なら、多分助けたいと言うだろう。
自分が看護するって。
でも、自分の身体も思うようにならない今なら?
父の介護は誰がする?
人工呼吸器をつけて5年も生きた知人がいる。
そのご家族が、お葬式で私達に仰ったのは
「不謹慎ですが、やっと開放されました。母も私も・・・・」でした。
そんな話がぐるぐる頭を回った。
「叔母さんはどうしたい?」
私は叔母に聞いてみた。一緒に暮らしていたのは叔母だし、私は毎日通うことなんて出来ない。
母を引き取ることになるかもしれない今、父まで?
それは土台無理だとわかっている。
そういえば、先日母のお見舞いに来た時に笑い話で言ったものだ。
「お父さんもお母さんもなんて私無理やから、ほんと身体には気をつけてよ?」
私が笑いながら言うと
「あほか!ワシは大丈夫や。逝く時はポックリいったるで!(笑」
あの父が懐かしいぐらいだ・・・。
叔母は言った。
「そりゃどがんかせんと、このまま逝かせたっちゃかわいそかろもん!」
「でも、下世話な話だけど、私は通うことは出来ないしお金もない。植物状態のお父さんを面倒見るのは無理だよ・・・・。」
「そぎゃんでも、どがんかせんとかわいそかろもん!このまま逝かせるつもりかい!」
「・・・・わかった。先生、手術をお願いします・・・」
「わかりました。すぐに手配します。」先生はそういって立ち上がった。
私たちはまた控え室に戻って、まだ待ってくださっていた3人の男性にお礼を言って引き取って頂いた。
そして、イスに座ると疲れがドッと出た。
「あ~ほなこつ、腹が減ってしょうがない。アンタ、ちょっと何か買ってきてくだはいよ。弁当でよかけん」
言われるまま、私はお弁当を買いに出かけた。
そして戻って叔母に渡す。
もちろん、駐車場代もお弁当代もくれるはずがない。
お腹イッパイになるまで食べると、横になって寝だした。
「あ~もう、手術が終るまで気が気じゃなかばい!!さっきは、手術頼んでよかったよな!?
あのまま逝かせるのはかわいそかしな!!」
「でも、叔母ちゃん。何度も言うけど、私はそうそう来れないよ?自宅で介護とかになったらどうするの?
そこまで覚悟してるんだよね?私は引き取れないよ」
「わたしゃ仕事のあるもんで!そがんことはできんわい!」
「ちょっと待って。私だって仕事ある。子供だっているから毎日お見舞いに介護に、なんて出来ないよ?
お金だってない。お母さんの引越しもしなきゃならない。どうするつもり?」
「そがんた知らんたい!あんたの親父だろもん!!」
私は深く後悔した・・・。
この叔母に決めさせるんじゃなかった・・・・・!!!
そして、延命措置について父となぜ話し合わなかったのかと悔やんで仕方なかった。
助けた後から、やっぱり無理なんで殺して下さいなんて言えないんです。
悩むチャンスは一度きり。父が延命を望んでいるならそれは覚悟するしかない。
でも、今となってはそれを知る術なんてないんだと・・・・。
それから、りょうちゃんに連絡をした。
りょうちゃんは奥さんと一緒にすぐ来てくれた。
このご夫婦といるとなぜ、こんなにも安心するんだろう・・・・。
それは、私が知らない普通の、本当に普通のご夫婦だからかもしれない。
世間一般の子供たちは、こんなに安心した生活ができるのか・・・。
それは私にはなかったものだった。
その雰囲気と空気がとても居心地良くて、ちょっとだけ悲しくなる。泣きたくなる・・・。
話を聞いていた奥さんが仰った。
「ちょっと待って。え?具合が悪くなり始めたのは多分2時半ぐらいで、病院に運ばれたのが7時半?!」
その言葉を聴いて、私はやっぱりこの奥さんは立派な方だな・・・と思った。
そういえば、以前りょうちゃんと奥さんと3人で飲みに出かけて
父が転んで頭を打ってりょうちゃんちで寝ていたことがあったらしい。
その時も、明け方に父がいびきをかいていたのをトイレに立った奥さんが聞いて
救急車を呼んで下さったそうだ。
その話を聞いたときに、この奥さんは脳梗塞や脳卒中のことを知っている人だな、とおもったものだ。
「そうだそうです・・・・。周りの方は、父が酔っ払っているものだと思われたみたいで・・・」
「だめよ・・・そんなの初期症状じゃない・・・。なんで誰も助けれあげられなかったの・・・」
そう言って涙ぐまれました。
その後は、手術に3時間ほどかかるようだったので帰って頂きました。
その時に知ったこと・・・。
父は、母のことを悪者にして話してたんですね・・・・。
りょうちゃんと奥さんは、母のことを悪くしか聞いていなかったそうで、その母の面倒をみるのはえらいことだと父を褒めたのだとか。
私は唖然としました。
りょうちゃんの奥さんが
「んー、、はっきりと聞いてもいいのかな?お父さんが失踪したっていうのは聞いていたけど、どうしてだったの?私たちは、お母さんが酷かったから~みたいに聞いていたけど・・・・」
「へっ?」びっくりして変な声が出たぐらいです。
「いえね、自分が岡山から逃げる時は迷惑かけた。その後も二度見つかって、二度逃げた。
悪いことをした、っていうのは聞いてたのよ?でも、荷物を置いて逃げたからその始末をさせて迷惑かけた、ってことかなと思ってたんだけど・・・・」
「全然違いますよ・・・・」
そうか、自分が借金1500万も置いて逃げて、その後私達がどうなったかなんて・・・・。
親友にだってそんなことはいうはずもないよね・・・。
そして、新たに知った事実。
父はまだ大阪の女性と切れてなかったみたい。
中国人の女性で、3人の子持ち。結婚してくれとうるさい、みたいには聞いたことがあったけど
まだ続いてたんだ・・・・。
そして、あと二人ほどいたようだ。
「彼はね~。もう、飲むと気が大きくなってお金バラ撒くからね。そして、人情家でもあるから
中国とか韓国とかフィリピンとかの女の子が、祖国に子供がいるとか病気の母がいるとかいうと
送金してやれしてやれって、お金握らせるからね~。
そんなの私からしたら、あぁ、ウソ言ってるな~ってすぐわかるけどね。
だって、誰も皆同じこというんだもん。祖国に子供、病気の親。皆同じ。
A君はそういうのほっとけなくて、どんどんお金持たせてたからね~・・・・」
「そうだったんですか・・・・ははは・・・・あの時と同じじゃん・・・・。私達がどんなに苦労したか・・・!!
それも知らず、私達にじゃなく、中国や韓国の女の子にはお金渡してたんですか・・・・」
そう言うと、私は泣き崩れました。
奥さんが
「ごめんね、辛かったよね、良かったら教えてくれない?私達、あなたやお母さんを誤解してた。
お父さんをないがしろにしてると思ってたの。
お父さんをほったらかしてたと・・・・。そういう風にAさんに聞いてたから・・・。お金の無心ばかりすると・・・」
「はっ・・・・・?」
もう、乾いた笑いしか出なかった。
父と再会したときに、叔母と住むために、退職金で家を買ったんだと聞いたときも
ふーん。としか思わなかったし、期待なんてするはずもなかったから
私から「お父さん、お金頂戴よ」なんて言った事はただの一度も無い。
会った時にガソリン代とりゅうくんにおこずかいや、取っとけ。
といわれた時は確かに頂いたこともある。
でも、無心してた・・・・?
馬鹿にするな・・・・!!
1500万残して逃げたくせに、叔父さんにみつかって、もう一度やり直すから許してくれって言った時も
二度もまたあの女と逃げたじゃないか!!
九州に戻ってきたのも、あの女と大喧嘩して消費者金融にここにいます!って突っ込まれてまた
大阪から逃げたんじゃないか・・・!
その後、私達がどんなに苦労して、どんなに取り立てられて、父が女を連れて母の名前で
連帯保証人に判子をついていたから、それを母じゃないと証明するのにも弁護士やとって・・・・
筆跡鑑定までして、何年も何年も・・・。
水商売に身を落として、4時間しか寝ずに働き続けたあの数年・・・・。
私は、やっと落ち着いてからゆっくりと話し出した。
りょうちゃんと奥さんと叔母さんは黙って聞いていた。
私が話し終えたとき、叔母が言った。
「そりゃ私の身内が迷惑かけましたこって。私が謝ったっちゃなんもならんけどすまんかったね!」
私は脱力した。
りょうちゃんの奥さんが
「あなた・・・ほんとに苦労したんだね・・・私、自分の娘にこんな苦労させたとしたら・・・。」
そう言って、私を見つめた。
私は恥も外聞もなく、奥さんの前で泣いた。
この人はあったかい・・・・。
私が落ち着いてから、奥さんが言った。
「でも、このことをお父さんに言わなかったの?」
「私は、正直母がよく父を許せたなと思いました。二人であんなに苦労して、時には怒鳴りあい、ケンカして
それでも父がみつかってから、また黙って父を受け入れた母を正直凄いなと思いながら
バカじゃないの?って思うこともありました。
でも、今ではそれが母にとっての愛なんだと、そう思えるようになりました。
先日、病院でご覧になったでしょうが母は・・・父といると本当に幸せそうでした。
退院したらどこに行きたい?って聞いたときも、満面の笑顔で・・・お父さんとこに行きたい!って・・・・。
あんな母ですから、私が父に何か言えばもうお前らなんて知らんってまた、母のところには来なくなるでしょう。だから、母が今、幸せならそれでいいと・・・・。もう、終ったことなんだと・・・・。
そう自分に言い聞かせて、父には恨み言は一言も言ってません・・・。」
「そうなんだ・・・・。そんなに一人でしょいこんで・・・。でも、それしかなかったんだよね?辛かったね・・・・」
奥さんは、温かかった・・・・。
それからりょうちゃん夫婦が帰られてから、父が手術室から出てきたのは3時でした。
その後もまた1時間ほど待って、やっと父に会えました。
頭は包帯だらけで固定されていて、頭蓋骨に穴はあけたままで水を抜いてるんだとか。
口には人工呼吸器、反射で暴れないように縛り付けられた身体・・・・。
元気な時の父の面影なんてありませんでした。
私は、耳も聞こえてない父に近寄って声をかけました。
「お父さん、私よ。来たよ。聞こえる?目を覚ましてよ。
お母さんも心配してる。目を覚まさないと、許さないからね、わかった・・・?」
小さな声でそう言ってから、叔母に代わろうと振り返ったら、叔母は入り口に立ったままでした。
「叔母さん、交代しようか」
そう言うと叔母は
「いや、よか・・・!!おそろしかもん!!」
そういって入り口から動こうとしませんでした。
その光景を見て”あの時と全く同じじゃん・・・・・・”そう思いました。
祖父の看護をしていた時に、ガンが移るからと近寄らなかった、あの時と同じ・・・・。
それから看護師さんに一言お願いしますと伝えて、叔母を送っていくことにしました。
駐車場から出る時に、お金が必要だったのでお金を出していると
「こがんとにも金のいるとかい」
「そうだよ、大きな病院はそういうとこが多いよ」
「あんた、そういえば高速も金のかかるっちゃろもん」
「うん、往復で3000円ぐらいするね」
お弁当代も出さないケチな叔母にしては珍しく、お金のことを聞いてきたのでもしかしたら
”お金結構使わせたね、ごめんね”ぐらい言うかと思ったら、出た言葉は
「そりゃご苦労なこって!」
でした。。。
それから車の中で、家で保険証がどこにあるかわからないからあんた探してくれ。
あんたのお父さんがどこに金を残してたかわからんから探してくれ。
というので、父の部屋の家捜しをしました。
けれど、出てきたのは通帳1つだけ。
それも、数万しか入っていませんでした。
記帳は10月9日が最後。その後で年金が入っているはずですが、流れを見ると
毎週土日に3万ずつぐらい引きおろされている。
これは間違いなく競馬でしょう。それを考えると貯金なんてしているはずもなく
叔母に、そう伝えました。すると叔母は
「ほんなら手術とかしてお金もかかったのは私がひっかぶらないかんやんか!」
愕然としました。
なら、なんであの時そう言わなかった?
なんで助けようって言った?
後先何も考えてなかったの?
私が呆然としていると
「入院代とかいくらかかるとかい!!高かっだろ!」というので
「それはね、市役所とかに行って、入院して手術をしたので高額医療費の申請をお願いしますって言ったら手続きしてくれて、すぐ証書出してくれるからそれを病院に持っていくといいんだよ。
この書類にも書いてあるから。市役所に行ってね。」
と言うと
「そがんた、わたしゃわからんもんで!!役所なんざいったこともなか!わたしゃわからんけん
銀行のなんか調べるのも、役所も全部してくだはりまっせ!!」
なんかもうね・・・・。
「あのね、私もお母さんが倒れてからかなり仕事も休んでるの。正直、自分の家庭も支えられなくなって来てるの。たびたび休んで、手続きとか無理だよ!」
「そがんでも、わたしもわからんもんで!!あんたがしてくれるとよかったい!!今度の水曜に来て
全部手続きやってちょうだい!わたしゃ知らん!」
それから車で眠っていたりゅうを乗せて、家まで帰りました。
家についたのは、もう5時ぐらいで疲れ切ってすぐに眠りに落ちました。
それから1時間して、母から電話。それから30分話して、起き上がって職場に電話して
それから学校に今日は休むと連絡を入れました。
対応してくださった先生は、担任に伝えますと仰って下さいましたが
私は昨夜、すでに先生に電話をしていたのです。
ですが、先生は出ることはありませんでしたし折返しかけてもくれなかったので
まぁ、そんなもんだろうなと思ってましたが、その30分後ぐらいに担任から電話が。
「あ~、担任のHですけど。昨夜は電話できなくてすみませんでした」
「いえいえ・・・・」
「それで?」
「・・・実は、昨夜父が脳幹出血で倒れまして・・・今現在意識不明の重体なんです。
えっと、それで・・・」
そこまで喋ると先生が言った。
「それで~~~、りゅうさんは今日は休みなんですか?どうなんですか?」
「・・・・お休みです」
「わかりました、それが聞きたかったんです」
正直、ムカッとした。
別に温かい言葉が欲しいわけじゃないけど、担任ならね?
自分の生徒が、祖母は脳梗塞、祖父が脳溢血で重体、しかもたった1ヶ月の間に。
そんな状態なら、生徒の心配でも一言でも言ったらどうなんだろう~?
「それは大変ですね。りゅうくんも大変でしょうから、悩みや相談や辛いことがあれば言ってくれるように伝えて下さい」
とまでは望まないけど!!!
なんなの。
休みかどうかだけ?それが聞きたかった?
それって、いらんこと喋るな聞きたくないってしか取れないわ。
「あー、すみませんね。長々といらんこと話しまして。失礼します」
そう言って電話を切った。
そういえば、りゅうが今日言ってたなぁ・・・・・。
担任は一度も「おばあちゃんその後どう?」とか「頑張ってるね、大丈夫?」とか一言も言ってくれない。
部活の顧問の男の先生だけが
「それで、おばあちゃんの具合はどう?」
「おじいちゃん大変だったんだね。どうしたの?」って今日聞いてくれて、事情を話すと
「そうなんだ・・・それは君も辛いな。しかし、ほんとに頑張るねお前も。えらいな」って言ってくれた
嬉しかった。って、そうご飯の時に言ってたなぁ・・・・。
ただの上手口かもしれないけど、そんなたった一言で、生徒は慕って心を開いてくれるのに・・・・。
そりゃあんな調子で生徒のことなんか関係ありませんな態度なら、それは生徒に伝わるでしょうよ。
それを敏感に生徒たちは感じ取るのにな。
そんなこんな日々を最近過ごしていました。
明日も父のところへ行って来なくちゃ・・・・・。
高速で事故らないように、気合入れたいと思います(´・ω・`)
そして、赤裸々にこれを綴ったのは前回のページで触れましたが
私にはまだ早いとか、まだ若いからとかでなく、自分がそんな状況になったらどうして欲しいのか
あなたがそうなったら私はこうしたいと思ってるんだけど、と
ぜひ家族でお話し合いをされて下さい。
はっきり言えば、意識の無いほうは何も決断ができません。
それは家族にゆだねられるのです。
家族に全部の負担がのしかかります。
例えば、ご夫婦なら奥さんがそうなればご主人や子供たちが力を合わせて看護と家事とやっていかなければならない。
ご主人がそうなれば、奥さんが家計と育児と家事を担わなければならない。
両親であれば、自分達や兄弟がどこまで出来るのか
もしも私のように母子家庭ならば、自分に何かあった時は誰に相談すればいいのか。
そしてどうして欲しいのか。
そういうことを、ぜひ・・・話し合ってみてください。
まだ早いなんて絶対にありません。
あの時、脳外科の先生が仰った言葉が頭から離れません。
「私はね、こういう仕事をしてるから毎日人の生き死にに直面するんです。だからこそ、夜寝る前に
”あぁ、今日も1日過ごせてよかったな”と思います。いつも何かあってから
皆さん、”まさかあの人が!!”と、仰る。その”まさか”、なんてどこにもないのだとお気付きではない。
私は、家族で自分に何かあった時のことを話し合っておくべきと思いますね。
少なくとも、私はそうしているからこそ安心して過ごせるのです」
とても深い言葉だと思いました。
この言葉を受けて、りゅうと話し合いました。
「私に何かあったら、ばーちゃんもあの状態だから無理だし、そしてじーちゃんも無理になったよね。
りゅうは施設に行くしかないと思う。それでなくても、お母さんは寝たきりでりゅうが介護しないといけないなんてお母さんはそれは絶対に嫌だ。
自分が目を覚ました時に、指一つ動かせないのだと、これから先もリハビリなんてもってのほかで
目を開けるぐらいしか出来ないんだと気がついたら、お母さんは発狂するかもしれん。
きっと、”いっそ殺して!”って心で叫びながら、そこにいるしか出来ないんだと思う。
そんな、何年も何十年もそんな状態だなんて、絶対に嫌だから、お母さんに何かあっても
絶対に延命措置はしないで欲しい」と話しました。
じっと話を聞いていたりゅうが
「でも、ばーちゃんみたいにリハビリしたらまた一緒に暮らせるかもしれないっていうなら
俺はお母さんを助けてって言うよ。それでいいなら、わかった」
「ありがとうね」
そう言って、もう一度りゅうを抱きしめました。
出来ることなら、このぬくもりをいつまでも覚えていたい。
明日、私がどうなるのかなんて誰も知らない。私でさえも。
母の病室の向かいのおばちゃんが言いました。
「私の主人もね、おたくのお父さんと全く一緒よ。主人は視床下部だったけどね。
前兆も何もなかったわ。一緒にドライブに行って、ドライブインでトイレに行ってくるってそのまま。
おかしいと思って見つけた時はもうね・・・・。
助かっても植物状態でしょうが助けますか?って聞かれたから
そのまま泣く泣く見送ったの。辛かったけどね。
でも、あのまま助かっても主人はもっと辛かったと思う・・・・。
だけど、さっきあなたが言ったように、そうなった時どうして欲しいか夫婦で話し合っておけばよかったね。
そうしたら、私やあなたみたいに助けても見送っても悩まなくて済んだかもしれないのよね・・・・。」
見送ってあげるのも一つの手段で優しさだと思います。
だけど、それを選択した家族も長く長く、それが良かったのかこうして悩まなければなりません。
本当は助けた方が良かったんじゃないか?
いや、自分の選択は間違ってない・・・・!だけど・・・!
未だに自分を責めたり悩んでいる方もたくさんいらっしゃると思います。
くどいようですが、皆さんももう一度考えてみて下さいね。
早すぎるなんてことはないんですから。
こんな決断をしなければならないならもっと早く相談しておけば・・・なんて思った時は手遅れなんです・・。