続きです。



その1はこちら


その2はこちら


その3はこちら


その4はこちら


その5はこちら


私は悩んでいました。

そして、どうして話し合っておかなかったのかと自分を責めました。

誰にいつ起こってもおかしくないことなのに。

母ならなんというだろう。

昔の母なら、多分助けたいと言うだろう。

自分が看護するって。

でも、自分の身体も思うようにならない今なら?

父の介護は誰がする?

人工呼吸器をつけて5年も生きた知人がいる。

そのご家族が、お葬式で私達に仰ったのは


「不謹慎ですが、やっと開放されました。母も私も・・・・」でした。


そんな話がぐるぐる頭を回った。


「叔母さんはどうしたい?」


私は叔母に聞いてみた。一緒に暮らしていたのは叔母だし、私は毎日通うことなんて出来ない。

母を引き取ることになるかもしれない今、父まで?

それは土台無理だとわかっている。

そういえば、先日母のお見舞いに来た時に笑い話で言ったものだ。


「お父さんもお母さんもなんて私無理やから、ほんと身体には気をつけてよ?」


私が笑いながら言うと


「あほか!ワシは大丈夫や。逝く時はポックリいったるで!(笑」


あの父が懐かしいぐらいだ・・・。


叔母は言った。


「そりゃどがんかせんと、このまま逝かせたっちゃかわいそかろもん!」


「でも、下世話な話だけど、私は通うことは出来ないしお金もない。植物状態のお父さんを面倒見るのは無理だよ・・・・。」


「そぎゃんでも、どがんかせんとかわいそかろもん!このまま逝かせるつもりかい!」


「・・・・わかった。先生、手術をお願いします・・・」


「わかりました。すぐに手配します。」先生はそういって立ち上がった。


私たちはまた控え室に戻って、まだ待ってくださっていた3人の男性にお礼を言って引き取って頂いた。

そして、イスに座ると疲れがドッと出た。


「あ~ほなこつ、腹が減ってしょうがない。アンタ、ちょっと何か買ってきてくだはいよ。弁当でよかけん」


言われるまま、私はお弁当を買いに出かけた。

そして戻って叔母に渡す。

もちろん、駐車場代もお弁当代もくれるはずがない。

お腹イッパイになるまで食べると、横になって寝だした。


「あ~もう、手術が終るまで気が気じゃなかばい!!さっきは、手術頼んでよかったよな!?

あのまま逝かせるのはかわいそかしな!!」


「でも、叔母ちゃん。何度も言うけど、私はそうそう来れないよ?自宅で介護とかになったらどうするの?

そこまで覚悟してるんだよね?私は引き取れないよ」


「わたしゃ仕事のあるもんで!そがんことはできんわい!」


「ちょっと待って。私だって仕事ある。子供だっているから毎日お見舞いに介護に、なんて出来ないよ?

お金だってない。お母さんの引越しもしなきゃならない。どうするつもり?」


「そがんた知らんたい!あんたの親父だろもん!!」


私は深く後悔した・・・。

この叔母に決めさせるんじゃなかった・・・・・!!!


そして、延命措置について父となぜ話し合わなかったのかと悔やんで仕方なかった。


助けた後から、やっぱり無理なんで殺して下さいなんて言えないんです。

悩むチャンスは一度きり。父が延命を望んでいるならそれは覚悟するしかない。

でも、今となってはそれを知る術なんてないんだと・・・・。


それから、りょうちゃんに連絡をした。

りょうちゃんは奥さんと一緒にすぐ来てくれた。

このご夫婦といるとなぜ、こんなにも安心するんだろう・・・・。

それは、私が知らない普通の、本当に普通のご夫婦だからかもしれない。

世間一般の子供たちは、こんなに安心した生活ができるのか・・・。

それは私にはなかったものだった。

その雰囲気と空気がとても居心地良くて、ちょっとだけ悲しくなる。泣きたくなる・・・。


話を聞いていた奥さんが仰った。


「ちょっと待って。え?具合が悪くなり始めたのは多分2時半ぐらいで、病院に運ばれたのが7時半?!」


その言葉を聴いて、私はやっぱりこの奥さんは立派な方だな・・・と思った。

そういえば、以前りょうちゃんと奥さんと3人で飲みに出かけて

父が転んで頭を打ってりょうちゃんちで寝ていたことがあったらしい。

その時も、明け方に父がいびきをかいていたのをトイレに立った奥さんが聞いて

救急車を呼んで下さったそうだ。

その話を聞いたときに、この奥さんは脳梗塞や脳卒中のことを知っている人だな、とおもったものだ。


「そうだそうです・・・・。周りの方は、父が酔っ払っているものだと思われたみたいで・・・」


「だめよ・・・そんなの初期症状じゃない・・・。なんで誰も助けれあげられなかったの・・・」


そう言って涙ぐまれました。

その後は、手術に3時間ほどかかるようだったので帰って頂きました。

その時に知ったこと・・・。

父は、母のことを悪者にして話してたんですね・・・・。

りょうちゃんと奥さんは、母のことを悪くしか聞いていなかったそうで、その母の面倒をみるのはえらいことだと父を褒めたのだとか。

私は唖然としました。

りょうちゃんの奥さんが


「んー、、はっきりと聞いてもいいのかな?お父さんが失踪したっていうのは聞いていたけど、どうしてだったの?私たちは、お母さんが酷かったから~みたいに聞いていたけど・・・・」


「へっ?」びっくりして変な声が出たぐらいです。


「いえね、自分が岡山から逃げる時は迷惑かけた。その後も二度見つかって、二度逃げた。

悪いことをした、っていうのは聞いてたのよ?でも、荷物を置いて逃げたからその始末をさせて迷惑かけた、ってことかなと思ってたんだけど・・・・」


「全然違いますよ・・・・」


そうか、自分が借金1500万も置いて逃げて、その後私達がどうなったかなんて・・・・。

親友にだってそんなことはいうはずもないよね・・・。

そして、新たに知った事実。

父はまだ大阪の女性と切れてなかったみたい。

中国人の女性で、3人の子持ち。結婚してくれとうるさい、みたいには聞いたことがあったけど

まだ続いてたんだ・・・・。

そして、あと二人ほどいたようだ。


「彼はね~。もう、飲むと気が大きくなってお金バラ撒くからね。そして、人情家でもあるから

中国とか韓国とかフィリピンとかの女の子が、祖国に子供がいるとか病気の母がいるとかいうと

送金してやれしてやれって、お金握らせるからね~。

そんなの私からしたら、あぁ、ウソ言ってるな~ってすぐわかるけどね。

だって、誰も皆同じこというんだもん。祖国に子供、病気の親。皆同じ。

A君はそういうのほっとけなくて、どんどんお金持たせてたからね~・・・・」


「そうだったんですか・・・・ははは・・・・あの時と同じじゃん・・・・。私達がどんなに苦労したか・・・!!

それも知らず、私達にじゃなく、中国や韓国の女の子にはお金渡してたんですか・・・・」


そう言うと、私は泣き崩れました。

奥さんが


「ごめんね、辛かったよね、良かったら教えてくれない?私達、あなたやお母さんを誤解してた。

お父さんをないがしろにしてると思ってたの。

お父さんをほったらかしてたと・・・・。そういう風にAさんに聞いてたから・・・。お金の無心ばかりすると・・・」


「はっ・・・・・?」


もう、乾いた笑いしか出なかった。

父と再会したときに、叔母と住むために、退職金で家を買ったんだと聞いたときも

ふーん。としか思わなかったし、期待なんてするはずもなかったから

私から「お父さん、お金頂戴よ」なんて言った事はただの一度も無い。

会った時にガソリン代とりゅうくんにおこずかいや、取っとけ。

といわれた時は確かに頂いたこともある。

でも、無心してた・・・・?

馬鹿にするな・・・・!!

1500万残して逃げたくせに、叔父さんにみつかって、もう一度やり直すから許してくれって言った時も

二度もまたあの女と逃げたじゃないか!!

九州に戻ってきたのも、あの女と大喧嘩して消費者金融にここにいます!って突っ込まれてまた

大阪から逃げたんじゃないか・・・!


その後、私達がどんなに苦労して、どんなに取り立てられて、父が女を連れて母の名前で

連帯保証人に判子をついていたから、それを母じゃないと証明するのにも弁護士やとって・・・・

筆跡鑑定までして、何年も何年も・・・。

水商売に身を落として、4時間しか寝ずに働き続けたあの数年・・・・。


私は、やっと落ち着いてからゆっくりと話し出した。

りょうちゃんと奥さんと叔母さんは黙って聞いていた。

私が話し終えたとき、叔母が言った。


「そりゃ私の身内が迷惑かけましたこって。私が謝ったっちゃなんもならんけどすまんかったね!」


私は脱力した。


りょうちゃんの奥さんが


「あなた・・・ほんとに苦労したんだね・・・私、自分の娘にこんな苦労させたとしたら・・・。」


そう言って、私を見つめた。

私は恥も外聞もなく、奥さんの前で泣いた。

この人はあったかい・・・・。


私が落ち着いてから、奥さんが言った。


「でも、このことをお父さんに言わなかったの?」


「私は、正直母がよく父を許せたなと思いました。二人であんなに苦労して、時には怒鳴りあい、ケンカして

それでも父がみつかってから、また黙って父を受け入れた母を正直凄いなと思いながら

バカじゃないの?って思うこともありました。

でも、今ではそれが母にとっての愛なんだと、そう思えるようになりました。

先日、病院でご覧になったでしょうが母は・・・父といると本当に幸せそうでした。

退院したらどこに行きたい?って聞いたときも、満面の笑顔で・・・お父さんとこに行きたい!って・・・・。

あんな母ですから、私が父に何か言えばもうお前らなんて知らんってまた、母のところには来なくなるでしょう。だから、母が今、幸せならそれでいいと・・・・。もう、終ったことなんだと・・・・。

そう自分に言い聞かせて、父には恨み言は一言も言ってません・・・。」


「そうなんだ・・・・。そんなに一人でしょいこんで・・・。でも、それしかなかったんだよね?辛かったね・・・・」


奥さんは、温かかった・・・・。


それからりょうちゃん夫婦が帰られてから、父が手術室から出てきたのは3時でした。

その後もまた1時間ほど待って、やっと父に会えました。

頭は包帯だらけで固定されていて、頭蓋骨に穴はあけたままで水を抜いてるんだとか。

口には人工呼吸器、反射で暴れないように縛り付けられた身体・・・・。

元気な時の父の面影なんてありませんでした。

私は、耳も聞こえてない父に近寄って声をかけました。


「お父さん、私よ。来たよ。聞こえる?目を覚ましてよ。

お母さんも心配してる。目を覚まさないと、許さないからね、わかった・・・?」


小さな声でそう言ってから、叔母に代わろうと振り返ったら、叔母は入り口に立ったままでした。


「叔母さん、交代しようか」


そう言うと叔母は


「いや、よか・・・!!おそろしかもん!!」


そういって入り口から動こうとしませんでした。

その光景を見て”あの時と全く同じじゃん・・・・・・”そう思いました。

祖父の看護をしていた時に、ガンが移るからと近寄らなかった、あの時と同じ・・・・。


それから看護師さんに一言お願いしますと伝えて、叔母を送っていくことにしました。

駐車場から出る時に、お金が必要だったのでお金を出していると


「こがんとにも金のいるとかい」


「そうだよ、大きな病院はそういうとこが多いよ」


「あんた、そういえば高速も金のかかるっちゃろもん」


「うん、往復で3000円ぐらいするね」


お弁当代も出さないケチな叔母にしては珍しく、お金のことを聞いてきたのでもしかしたら

”お金結構使わせたね、ごめんね”ぐらい言うかと思ったら、出た言葉は


「そりゃご苦労なこって!」


でした。。。

それから車の中で、家で保険証がどこにあるかわからないからあんた探してくれ。

あんたのお父さんがどこに金を残してたかわからんから探してくれ。

というので、父の部屋の家捜しをしました。

けれど、出てきたのは通帳1つだけ。

それも、数万しか入っていませんでした。

記帳は10月9日が最後。その後で年金が入っているはずですが、流れを見ると

毎週土日に3万ずつぐらい引きおろされている。

これは間違いなく競馬でしょう。それを考えると貯金なんてしているはずもなく

叔母に、そう伝えました。すると叔母は


「ほんなら手術とかしてお金もかかったのは私がひっかぶらないかんやんか!」


愕然としました。

なら、なんであの時そう言わなかった?

なんで助けようって言った?

後先何も考えてなかったの?

私が呆然としていると


「入院代とかいくらかかるとかい!!高かっだろ!」というので


「それはね、市役所とかに行って、入院して手術をしたので高額医療費の申請をお願いしますって言ったら手続きしてくれて、すぐ証書出してくれるからそれを病院に持っていくといいんだよ。

この書類にも書いてあるから。市役所に行ってね。」


と言うと


「そがんた、わたしゃわからんもんで!!役所なんざいったこともなか!わたしゃわからんけん

銀行のなんか調べるのも、役所も全部してくだはりまっせ!!」


なんかもうね・・・・。


「あのね、私もお母さんが倒れてからかなり仕事も休んでるの。正直、自分の家庭も支えられなくなって来てるの。たびたび休んで、手続きとか無理だよ!」


「そがんでも、わたしもわからんもんで!!あんたがしてくれるとよかったい!!今度の水曜に来て

全部手続きやってちょうだい!わたしゃ知らん!」


それから車で眠っていたりゅうを乗せて、家まで帰りました。

家についたのは、もう5時ぐらいで疲れ切ってすぐに眠りに落ちました。

それから1時間して、母から電話。それから30分話して、起き上がって職場に電話して

それから学校に今日は休むと連絡を入れました。

対応してくださった先生は、担任に伝えますと仰って下さいましたが

私は昨夜、すでに先生に電話をしていたのです。

ですが、先生は出ることはありませんでしたし折返しかけてもくれなかったので

まぁ、そんなもんだろうなと思ってましたが、その30分後ぐらいに担任から電話が。


「あ~、担任のHですけど。昨夜は電話できなくてすみませんでした」


「いえいえ・・・・」


「それで?」


「・・・実は、昨夜父が脳幹出血で倒れまして・・・今現在意識不明の重体なんです。

えっと、それで・・・」


そこまで喋ると先生が言った。


「それで~~~、りゅうさんは今日は休みなんですか?どうなんですか?」


「・・・・お休みです」


「わかりました、それが聞きたかったんです」


正直、ムカッとした。

別に温かい言葉が欲しいわけじゃないけど、担任ならね?

自分の生徒が、祖母は脳梗塞、祖父が脳溢血で重体、しかもたった1ヶ月の間に。

そんな状態なら、生徒の心配でも一言でも言ったらどうなんだろう~?


「それは大変ですね。りゅうくんも大変でしょうから、悩みや相談や辛いことがあれば言ってくれるように伝えて下さい」


とまでは望まないけど!!!

なんなの。

休みかどうかだけ?それが聞きたかった?

それって、いらんこと喋るな聞きたくないってしか取れないわ。


「あー、すみませんね。長々といらんこと話しまして。失礼します」


そう言って電話を切った。

そういえば、りゅうが今日言ってたなぁ・・・・・。

担任は一度も「おばあちゃんその後どう?」とか「頑張ってるね、大丈夫?」とか一言も言ってくれない。

部活の顧問の男の先生だけが

「それで、おばあちゃんの具合はどう?」

「おじいちゃん大変だったんだね。どうしたの?」って今日聞いてくれて、事情を話すと

「そうなんだ・・・それは君も辛いな。しかし、ほんとに頑張るねお前も。えらいな」って言ってくれた

嬉しかった。って、そうご飯の時に言ってたなぁ・・・・。


ただの上手口かもしれないけど、そんなたった一言で、生徒は慕って心を開いてくれるのに・・・・。

そりゃあんな調子で生徒のことなんか関係ありませんな態度なら、それは生徒に伝わるでしょうよ。

それを敏感に生徒たちは感じ取るのにな。


そんなこんな日々を最近過ごしていました。

明日も父のところへ行って来なくちゃ・・・・・。

高速で事故らないように、気合入れたいと思います(´・ω・`)


そして、赤裸々にこれを綴ったのは前回のページで触れましたが


私にはまだ早いとか、まだ若いからとかでなく、自分がそんな状況になったらどうして欲しいのか

あなたがそうなったら私はこうしたいと思ってるんだけど、と

ぜひ家族でお話し合いをされて下さい。

はっきり言えば、意識の無いほうは何も決断ができません。

それは家族にゆだねられるのです。

家族に全部の負担がのしかかります。

例えば、ご夫婦なら奥さんがそうなればご主人や子供たちが力を合わせて看護と家事とやっていかなければならない。

ご主人がそうなれば、奥さんが家計と育児と家事を担わなければならない。

両親であれば、自分達や兄弟がどこまで出来るのか

もしも私のように母子家庭ならば、自分に何かあった時は誰に相談すればいいのか。

そしてどうして欲しいのか。

そういうことを、ぜひ・・・話し合ってみてください。

まだ早いなんて絶対にありません。

あの時、脳外科の先生が仰った言葉が頭から離れません。


「私はね、こういう仕事をしてるから毎日人の生き死にに直面するんです。だからこそ、夜寝る前に

”あぁ、今日も1日過ごせてよかったな”と思います。いつも何かあってから

皆さん、”まさかあの人が!!”と、仰る。その”まさか”、なんてどこにもないのだとお気付きではない。

私は、家族で自分に何かあった時のことを話し合っておくべきと思いますね。

少なくとも、私はそうしているからこそ安心して過ごせるのです」


とても深い言葉だと思いました。

この言葉を受けて、りゅうと話し合いました。


「私に何かあったら、ばーちゃんもあの状態だから無理だし、そしてじーちゃんも無理になったよね。

りゅうは施設に行くしかないと思う。それでなくても、お母さんは寝たきりでりゅうが介護しないといけないなんてお母さんはそれは絶対に嫌だ。

自分が目を覚ました時に、指一つ動かせないのだと、これから先もリハビリなんてもってのほかで

目を開けるぐらいしか出来ないんだと気がついたら、お母さんは発狂するかもしれん。

きっと、”いっそ殺して!”って心で叫びながら、そこにいるしか出来ないんだと思う。

そんな、何年も何十年もそんな状態だなんて、絶対に嫌だから、お母さんに何かあっても

絶対に延命措置はしないで欲しい」と話しました。


じっと話を聞いていたりゅうが


「でも、ばーちゃんみたいにリハビリしたらまた一緒に暮らせるかもしれないっていうなら

俺はお母さんを助けてって言うよ。それでいいなら、わかった」


「ありがとうね」


そう言って、もう一度りゅうを抱きしめました。

出来ることなら、このぬくもりをいつまでも覚えていたい。

明日、私がどうなるのかなんて誰も知らない。私でさえも。


母の病室の向かいのおばちゃんが言いました。


「私の主人もね、おたくのお父さんと全く一緒よ。主人は視床下部だったけどね。

前兆も何もなかったわ。一緒にドライブに行って、ドライブインでトイレに行ってくるってそのまま。

おかしいと思って見つけた時はもうね・・・・。

助かっても植物状態でしょうが助けますか?って聞かれたから

そのまま泣く泣く見送ったの。辛かったけどね。

でも、あのまま助かっても主人はもっと辛かったと思う・・・・。

だけど、さっきあなたが言ったように、そうなった時どうして欲しいか夫婦で話し合っておけばよかったね。

そうしたら、私やあなたみたいに助けても見送っても悩まなくて済んだかもしれないのよね・・・・。」


見送ってあげるのも一つの手段で優しさだと思います。

だけど、それを選択した家族も長く長く、それが良かったのかこうして悩まなければなりません。

本当は助けた方が良かったんじゃないか?

いや、自分の選択は間違ってない・・・・!だけど・・・!

未だに自分を責めたり悩んでいる方もたくさんいらっしゃると思います。


くどいようですが、皆さんももう一度考えてみて下さいね。

早すぎるなんてことはないんですから。

こんな決断をしなければならないならもっと早く相談しておけば・・・なんて思った時は手遅れなんです・・。


続きです。



その1はこちら



その2はこちら



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その4はこちら



さて・・・。


21日のことでした。

その日は日曜日で、りゅうが帰ってきてから母の病院へ行こうと準備をし車に向かっていた時でした。


電話が鳴りました。父の携帯からです。


「はい」


「Aさんの娘さんですか?」


嫌な予感がしました。

母の時もそうですが、本人の携帯から違う人がかけて来ると言うのはもう嫌な予感しかしませんでした。


「そうですが」


「実は、Aさんが倒れられて・・・今、八代の労災病院へ搬送されました」


「え・・・・」


「今すぐ来られますか?脳出血で、危ない状況です」


「わかりました・・・・。母に連絡してから、向かいます」


「急いでください!」


電話を切ってから頭がぼーっとしました。

なんで・・・・お母さんがやっと頑張って、うまくいきはじめて、お父さんと一緒にって・・・・


「お母さん、どうしたの?」


りゅうの言葉で現実に引き戻されました。


「ちょっとまってね。ばーちゃんに電話する。」


それから母に電話しました。母は・・・


「あら、そうなん?じゃ、私も行くわ。迎えに来て」


「無理だよ、お母さん・・・・」


「なんで無理なん?」


「まだ、やっと車椅子に座れるようになったばかりでしょ?私が行って来るから。

また帰ったら連絡するから」


「そうなん?気をつけて行って来てね。それで、お父さんも来るの?」


高次機能障害で自分のおかれている状況が理解できない・・・・。


母が倒れてから初めて母の前で泣きました。


「それじゃ、行ってくるから」


それからりゅうと二人で高速に乗りました。

その途中で病院から電話があり、担当の脳外科医の先生でした。

父は、脳の真ん中にある脳幹出血を起こしていて、非常に危険な状況であること

その周りにも水がたまって、水頭症にかかっているのでその水を抜くか抜かないかの判断をして欲しいこと。

けれど、今年5月にも脳卒中を起こしていて血液サラサラのお薬を飲んでいるのが逆に災いして

血が止まらなくなる可能性があるので脳幹の血液を抜くことが出来ないこと

そして、水を抜かなければ明日の朝までにはお亡くなりになります と・・・・。

けれど、水を抜いたからといって血の塊はあるのだから延命するだけだということ。

もしも奇跡が起きて目を覚ましたとしても、元の生活には100%戻れないこと

目を覚ますかどうかもわからない、人工呼吸器を外せるかどうかもわからない。

ついたらすぐにその説明をしますから、決断しておいてください と・・・。


どうすればいいんだろう・・・・。



この間の背中を思い出す。

まさかこんなことになるなんて・・・・。

母が、やっと望む生活が送れるかもしれなかったのに・・・。

やっと、やっと掴めるはずの幸せがどうしてこんなに逃げて行くんだろう?

母がかわいそうでなりませんでした。

確かに憎んだこともあるし、手放しで許せるかと言われると即答はできないけど

幸せになって欲しくないんじゃない。


そうじゃないんだよ・・・・。


ただ、真っ暗な中で目の前に広がる道を走りながら、まるで今の私みたいって思った時に

電話が鳴りました。

それは北海道に嫁に行った友達でした。


「あれ、どしたん?何かあった!?」


こんな時だったからでしょう。凄く不安になりました。

まさか彼女まで何かあったんじゃ!?


「いいえ、違いますよ~。最近、ブログも書いてないしどうしてるかなーっと思ってニコニコ


彼女の言葉に、ほっと救われました。

事情を話して、今八代に向かっているところだと伝えると凄く心配してくれました。

ほんとにありがとう。

あのままじゃ、真っ暗闇に飲まれそうだったよ。


それから一時間後、病院に着きました。

玄関でおじさんに声をかけられてびっくりしましたが、父の競馬仲間の人でした。


「お父さんに娘さんの写真を見せられたことがあってね。もしかしたらと思って」


凄く意外でした。

私は写真が嫌いなので、成人してからはほとんど撮ってないし子供の頃のだろうか。

もしくは、りゅうの写真を携帯の待ち受けにしてるので、それかもしれない。


3階の待合室で父の妹さんと、競馬仲間だという3人の男性に会いました。

父はその日


12時ごろご飯を食べて、1時半ごろ場外馬券売り場に自転車で出かけた。

その後、2時半ごろに酔っ払っているように見えて、周りの人は父の酒癖の悪さを知っているので

馬券場のレストランでビールでも飲んだのかと思い、そのままにしていた

4時過ぎにフラフラになり、ろれつがまわらなくなっていたので、かなり酔ったのだと3人がかりで

家まで運んだ。その時に吐いている。

妹さんはお風呂に出かけていて、家に帰ったのは4時半過ぎ。

家に皆がいたので、廊下にそのまま父を寝かせて貰って毛布をかけて寝かせていた。

その時は、話しかけると


「うん、うん」と返事をしたそうだ。

その後、6時半過ぎに泡を吹き出したので近所の人に兄の具合がおかしいと言いに行った。

そして、近所の人が救急車を呼んでくださったそうで・・・・。


それを聞いて思ったのは


何もかも遅すぎたんだ・・・・。


2時半ごろ酔っ払っているように見えたのは、脳に障害が出始めて千鳥足になって

ろれつがまわらなくなる。

初期の症状だ。

これに誰も気がつかなかった。

あれだけ人もいて、誰も・・・・。

でも、それは連日夜に飲み歩く父のことだ。

他の人からしたら「また飲んでるんだろう」と思ったのも仕方ないことだったろう・・・・。


でも、その時救急車で運ばれていたら・・・・まだ助かったかもしれない・・・・。

やるせない気持ちになった。

せめて、せめて・・・・家に運ばれてから妹さんが気がついていてくれたら・・・・。


「競馬場の人、誰も気がつかんかったんかいね。アニキは昼間は飲みやせんのに!」


そう言い放ったが、じゃ、なんで、あなたは家に運ばれた父をおかしいと思わなかったの!?

昼に飲まないとわかっているなら、なんで・・・・・この状態が変だと思わなかったの・・・・。



叔母は、少し変わった人で本当に世間に疎い。

食事のしたくは一切出来ないので、それは父がやっていたほどだ。

では、父が戻ってくるまではどうしていたかというと、近所の商店の惣菜やお弁当で済ませていたらしい。

もう、何十年も。

それで父が同居をすることにしたと言っていたけど。

私は正直、この叔母が好きではない。

なぜかというと、私が中2の時に祖父の介護を母と二人でしていたと書いたことがあるけど

どうして娘であるこの、叔母が何もしないのか不思議だった。

叔母は言った。


「だって、病人とかおそろしかもん。」


そう言って、病院に近づきもしなかった。母が怒って、娘でしょうが!お見舞いぐらい来なさい!

と怒った時は、マスクをして現れた。


「どうしたの?風邪でもひいたの?」そう聞いた母に


「だって、ガンがうつるでしょうが」と言い放った。


それは私も目の前で聞いていた。

激怒する母と言い合う叔母を見てなんて無知な叔母なんだろうと思った。

ガンがうつる?バカじゃない?


こんな調子の叔母なので、今でも役所や銀行、買い物、一切知らない。

叔母の世界は、職場と、行きつけの商店と、家だけなのだ。


今更言っても仕方のないことだけど、もっと早く気がついていたら・・・・。

病院に運ばれたのは、発症してから5時間以上だったなんて・・・・。


そう話を聞きながら、先生が来られたので別室でお話を聞いた。


もうすでに手遅れの状態であり、脳幹の出血は手出しがもう出来ないこと。

脳内に水がたまっていて、これを抜くかどうかの手術をするかしないかを決めて欲しいことを言われました。


「あの、もっと早く手術をすることも出来たはずですよね。それとも運ばれた時全くの手遅れだったんですか?」


「それは、妹さんに聞きましたが娘さんが着くまで自分には決められないとの一点張りでしたから・・・」


「どうして・・・・」


「だって、あんちゃんが可愛がってたのはアンタだろうもんよ」


それとこれは別でしょうが・・・。

なら、なんで電話でも言ってくれなかった・・・。

なぜ全部私に負わせるんだろうこの人は・・・・。


「それで、これから手術をなさいますか?それともこのままお見送りになりますか?」


先生が仰った。


「先生、手術しても目を覚ますかどうかはわからないんですよね?」


「そうです。正直言って、とても厳しい状況です。もしも目を覚ましても歩けるようになるとは言えませんし

植物状態も十分考えられます。元の生活は100%無理です。

私の知る限り、同じような例で一番回復したな!と思われた方は、車椅子までです。

目を開けたとしても、話もできるかはわかりませんし、なんとも言えません・・・。

これは、どの部分が出血したか、どれぐらい出血したか、範囲はどれぐらいか、年齢は、食生活は

もう、千差万別なんです。だから、こうなりますとはっきりは申し上げにくいです。

人工呼吸が外せるかどうかもわかりません。外せなかったとして、どれぐらいまで生きられるかも・・・」


私は悩みました。

あの父のことだ。

自分が好きに生きられないと知ったらどうなるだろう。

今まであれだけ好き勝手に生きてきた父。

それがもう、ベッドから起きられない。

食事も取れない、歩けない、お酒も飲めない、好きな競馬も。

そんな生活で耐えられるんだろうか?

それを思うと、母は本当によく頑張っているんだろう。

諦めず、元の生活に戻ろうと必死に頑張っている。ほんとにえらいよ・・・・。

でも、それを父が出来るだろうか?

それは即答できる。

無理だ。


「俺の信条は、短く太く!一度きりの人生、楽しまんでどうする!好きなことやって好きなもん食って

ポックリ行くのが俺の望みや!」って言っていた。


そんな考えが、グルグルまわっていた。


「どうされますか?ご本人に延命措置は取らないで欲しいとか望みはありましたか?」


私は叔母を見た。


「さぁ・・・わかりまっせん」


「元気なうちに、そういうことを話し合っておくのも家族の義務だと私は思っています。

こういうケースをそれはもう毎日見ますが、いつもご家族は迷われます。

誰だって助かって欲しいと思うのが当たり前でしょう。

でも、残されたご家族に多大な負担があるのもわかります。

入院代、看病、もしも家庭復帰になっても、寝たきりの介護・・・・それを私は元気なうちに

ご家族で話し合って欲しいなと思うんですよ」


「ですね・・・誰だって明日はどうなるかわからない・・・」


「そうです」


「でも、お昼まではなんともなかったんですよ!?」叔母が言った。


「そうです。そういう病気です。前兆があるなら誰でも気がつきますよね?なんか具合が悪い

なんか悪寒がする、熱がある、吐き気がする、手が震える、気分が悪い。

そういうものがあれば、誰でも自重します。

ですが、この脳内出血というものは、いつ起こってもおかしくなくてしかも、その前兆はほとんどないのが当たり前なんです。だから、いきなりこうなって皆さん”さっきまでは・・・・”って仰るんです。」


「先生、私は母が脳梗塞で倒れて今リハビリ中なんです。」


「はい、それも聞きました、とても大変ですね・・・・」


「そおの病院の先生が仰いました。7.8.9月の疲れがドッと10月に出ることが多いから

9,10月ぐらいに倒れる人が多いのよ、気をつけなさい。って仰ったんですがやっぱりそうなんですか?」


「そうですね。夏の疲れが出る、というのもありますし気温の寒暖の差が激しくて

血圧が高い人とかは要注意の月です。加えていうならば、70歳の壁と医者連中でよく言うのですが

70歳からいきなり身体に出る人がとても多いのです。正直、70歳の9.10月は医者仲間では鬼門です」


「そうなんですか・・・・。それで・・・父はもう・・・」


「ですね・・・お気の毒ですが。後は、それでも奇跡が起こるかもしれないし、このまま逝かせてあげるのも

手術で少しでも手を施すのも、ご家族の自由です」


正直、私の気持ちは決まっていました。

父が今、憎いわけじゃない。

でも、あの父が目を覚まして自分の状況に気がついた時どう思うだろうか?

”助かってよかったー!”そう思う?

いや、そんなはずは100%ない。

”いっそ殺してくれ!”と思うだろう・・・・。

私に置き換えて考えてみた。

私は延命措置を望むか?

ううん、私は望まない。

私が倒れたら、りゅうは18まで施設に行くしかない。

その後、一人きりで生きていかなければならないりゅうに、私の介護を?

絶対にそれは嫌だ。

もし私が倒れて母が元気だった時は、りゅうが18になるまでは母に頼めたら・・・と思っていた。

だが、この状況ではそれも無理。

なら、私の選ぶべき道は一つだ。

そして、強く強く思いました。


延命措置をするか、しないか。

それは、生きてる間に絶対に家族で話し合っておいたほうがいいです。


私には関係ない。

私はまだ若いから。

家族がどうにかしてくれるだろうし。


そう思っているなら、それは間違いです。

私は今、心からそう思います。

家族は誰でも救いたいと願うでしょう。

でも、その後のことも考えてみてください。

十分にお金があり、家族全員でサポートできる体制がある。

それなら延命はする価値があると思います。

ですが、お金も厳しく、他に身寄りもない、頼める人もいない。

家族がそうだった場合、どうなるでしょうか?

皆揃って潰れるだけなんです・・・・・。


これを読んでいる皆さん。

ぜひ、家族で話し合う場を一度設けてみませんか?


そんなのまだ早い。

そう仰るかもしれません。

でも、それが起こるのは明日かもしれないんです。

その時、あなたのお子さん、旦那さん、奥さん、兄弟、両親、最適な判断が出来ると思いますか?

あなたが目を覚まして、動くことも出来ない、死ぬまで目を動かすことしか出来ない。

そんな状況だったら、希望が持てますか?

私には持てません。

それでも家族といたい。

介護をしてくれる人もいる、病院で看護をずっと頼める。

そして、それを家族も望んでいる。

そう話し合うことが出来たら、きっと目を覚ました時も希望が持てるでしょう。


あなたのご主人が明日かもしれない。

あなたの奥さんが今夜かもしれない。


脅しではないです。

ご夫婦、家族でそれを話し合ってみませんか?

私はこう思うの。俺はこう思う、って話し合っておきませんか?

きちんと納得のいく答えが出せたら、もしも何かあった時も対処が遅れません。

そして、話し合うことによってもう一度相手の大切さを感じて欲しいです。

子供さんだったら、お父さんやお母さんとこういう時にお母さんはどうして欲しい?って

話し合ってみるのもいいかもしれません。

私はドナーカードは携帯していますが、延命措置については記述していませんでした。

これも帰ってからりゅうと話し合おう・・・・そう思いました。


長くなりましたね、ここで一旦切りたいと思います。




続きです。


その1はこちら


その2はこちら


その3はこちら


最後のメインのお話の前に、先日行われたりゅうのテストについて触れます。

療育手帳の再申請で、平日の!午前中に!来て下さいとのことでした。

ほんと、お役所仕事でしょうから仕方ないだろうけどその度に仕事休んで、学校休ませて・・・。

ちょっとなんだかなぁって気もしますが。


9時半からの問診とテストということでした。


りゅうと私は別々の部屋で、確かテストはビネー式だったかな。


私は男性の職員さんから今までのこと、普段の暮らし、出来ること出来ないこと

等のお話を2時間ほどしました。

その間に丁度りゅうのテストも終わり、後は点数計算するので待合室でお待ちくださいって。

それが30分ぐらいだったかな。

時間はもう12時近くでした。

その後、別室に呼ばれて言われたことは


「今回申し訳ありませんが、療育手帳の再申請はできません」


ということでした。

今回たまたまなのか、ストラテラの効果なのか、IQテストが92だったそうで

75前後ぐらいが申請受付なので、今回は申し訳ありませんが。とのこと。

なんだか混乱しました。


え、治る病気じゃないよね?

あれ、私今まで必死にやってきたのはなんだったんだろ?

え?じゃ、全くの健常者ってこと?

でも、あの病院でも出た判定は?

お薬も飲んでるのに、じゃ薬は飲まなくていいの?

逆に害になる?

え?


「今回はたまたま調子がよかったのかもしれませんし、もう一度判断したいんですが

次回は精神科医も同席しての判断になります。11月5日です」


「あ、はい」


「まぁ、良かったですよね!」


「あの、お聞きしたいんですけど」


「なんでしょう?」


「これって・・・・治る病気じゃないですよね?風邪とか骨折や治療すれば治るっていうものじゃないと思っていたんですが、それとも成長に従って治るんですか?」


「いや、そうではなく・・・確かに症状をお聞きしていると発達障害と自閉に当てはまりますが

真に申し訳ないですが、ほんとに彼はグレーなんですよ・・・・」


「ですね・・・どこでもそう言われますが・・・。それに、誤解して頂きたくないんですが

私は手帳を取ることに必死になってるわけじゃありません。

B1と違って手当ても出ませんから、病院代もお薬代も自腹ですし、特に恩恵に預かれるわけじゃないですし。お城がタダだとか、1000kmを超える鉄道の料金が割安だとか、映画が20歳になれば200円ほど安くなるとか、正直言って何も変わらないです。税金の障がい者扶養控除もありません。

特に私は、結婚して離婚したわけではないので、未婚の母は寡婦控除もありません。

住宅の減額申請もB2は書かなくていいといわれます。

このB2の存在意義って何でしょう?無くたっていいぐらいだと正直思うくらいです・・・・。」


「そうですね、そう仰る人もたくさんいらっしゃいます」


「今までお子さんは障がい者ですよと言われ、今日からは違いますよと・・・

お薬は、じゃ飲まなくていいのかな?とか、なんだろう・・・ごめんなさい、何か混乱してます。」


そう言うと


「ですよね、でもそれはかかりつけの病院で相談して下さい」


「わかりました・・・では来月またよろしくお願いします」


グレーゾーンってほんとによくわからない・・・・。

ただの個性として受け止めていけばいいのかな・・・。


とりあえず、今週末の病院でお話をしてみたいと思います。




続きです。


その1はこちら


その2はこちら です。



10月15日に、また父がやってきました。

その日は、私が病院のスタッフさんとケースワーカーさんとの話し合いの日でした。

面倒ごとが嫌いな父は、話し合いが始まると看護師さんが呼びにきてくださると

すーっといなくなりました。


カンファレンス室で、総勢8人で話し合いです。

内容は、現在の状況・今までの経過・今後の予定・など。


来てくださったのは


主治医の女性の先生

看護師長の女性

担当看護師の女性


口腔指導の先生(沖縄の)

意識指導の先生

リハビリの先生

ケースワーカーさん


そして私。


主治医の先生からは、どうしてこうなったかや転院してからの経過

担当看護師さんからは、現在の状況

看護師長さんからは、できること出来ないこと、やってはけないこと

口腔指導の先生からは、喋ること食べること、入れ歯の指導

意識指導の先生からは、左側に意識を向けるように取り組んでいること

リハビリの先生からは、どんなリハビリをしているか、本人の取り組み方、今後装具を作ることへの了承

ケースワーカーさんからは、退院してからの身の振り方


こういう内容を色々と教えて頂きました。

何か質問はありますか?と仰ったので、高次機能障害はそのうちに治るのか

どれぐらいまで回復できたら退院が見込めるのか、などを質問させて頂きました。



主治医の先生に、高次機能障害や脳内のこと、たくさん教えて下さってありがとう。

看護師さん、看護師長さんに、いつもおむつ交換や食事介助ありがとうございます。

口腔指導の先生に、ご飯の硬さについてやおかずについて進言して下さってありがとう。

リハビリの先生に、本人が頑張れるようにリハビリの言葉掛けや励ましありがとうございます。

ケースワーカーさんに、不安で仕方なかったけど相談にのって下さってありがとう。


そう伝えて、退院はうまくいけば年末、年始ぐらいになるかもと教えて頂きました。

その後にケースワーカーさんが、退院された後のご相談は僕が受けます。

今現在は、どうしようとお考えですか?

と質問されました。


この質問については私も考えていたことでしたので、今日父が来ると聞いたので

父と母と3人で、会議の前に話し合いました。


実は、数日前から母の記憶が抜け落ちていたことに気がついたのです。

それは、菊池に住んでいたことがごっそりとなくなっていました。

菊池で仕事をしていたことは覚えている。

一緒に働いていた人も覚えている。

でも、自分がどんな所に住んでいて、玄関はどんなで、間取りはどんなで、どんな風に台所を使っていたか覚えていない

唯一覚えていたのは、トイレだけは入念に掃除していたので、トイレだけは覚えている。

ということでした。

脳って怖いですね・・・・。

30年近くも住んでいたのに、もう思い出せないなんて・・・。

でも、それが私やりゅうや父のことでなくて良かったと思います。


こんな状態なので、菊池に住むと言い張っていた母を引越しさせることはできそうです。



母にゆっくりと、退院したらどうしたい?と聞くと


「うーん・・・ここに転院して来た時に入ってた部屋に戻りたい。あそこで住めたらいいと思う」


「それは無理だよ・・・(^▽^;)」


その前日にあの一人部屋から4人部屋に移ったばかりでしたので、この答えだったと思います。


「そうねぇ・・・」


「お母さん、今ねお父さんと話して5つの道があるねって話してたのね。

一つは、私と一緒に住むこと

二つは、私の近くの1階のアパートとかを借りること

三つは、養護ホームとかに移ること

四つは、お父さんの近くにアパートを借りること

五つは、お父さんの日奈久にある養護ホームあるでしょ?ばーちゃんがいるとこ。

あそこが入れそうならばーちゃんと一緒っていうのもありかなと思ってるんだけど。」


このばーちゃんというのは、母が若い頃に芸者をしていた時の置屋で母親代わりだった経営者の人です。

このおばあちゃんは、自分の娘同然に母を可愛がってくれて

自分の息子と母を結婚させたがっていたそうですが、母が断ってしまって父と結婚したのだとか。

それで、日奈久に行くとばーちゃんに会うのですが

未だに「私はAさんとの結婚に反対だわ」と笑って話すそうです。

このおばあちゃんが、養護ホームに入居されていて母もばーちゃんと一緒ならどうだろう?

と思ったからです。

付け加えて言いました。


「あのね、私に悪いとか世話になりたくないとか色々あると思うけど、それ全部取っ払って

自分の残りの余生をここで暮らしたい。っていうところを選んでね。

何よりもお母さんの意思を尊重したいから、お母さんが選んだらそうなるように

私達も努力するから」


そう言うと、母は答えました。


「お父さんとこがいい!ニコニコ


凄い笑顔でした。

とっても嬉しそうな、とっても幸せそうな顔・・・・。


「ほんとにそれがいいの?私に遠慮してない?」


「あんたにも悪いなとも思うけど、お父さんと一緒がいいニコニコ


私は父を見つめました。


「せやな、ほんならそうなるように準備するか」


「お父さん、本当に大丈夫なん?お母さん、ある程度は自分でできるようにはなるだろうけど

ほったらかしとかそんなんいかんし、いつもの毎晩の飲み歩きとかもうできんよ?そこまで覚悟するん?」


そう言うと、父は言いました。


「せやかて、お母はんこんなにワシとおりたいいうねんもん。そんならそうせなあかんやろ。

それに、ワシらも残り少ないねん。ほんなら残りは一緒におったってええがな」


「お母さん、ほんとにそれがいいの?」


「うん、私おとうさんとこいく」


「そっか・・・・じゃ・・・先生にそういう方向で、って話してくるよ・・・」


こういう会話をしていたので、会議の最後にケースワーカーさんが

今後はどうされたいと思ってらっしゃいますか?と聞いたときに


「実は、私は先ほど母に聞きました。5つの選択肢があるよ、と。

それは父と一緒にいたいというものでした・・・。

はっきりいって、正直自分といた方が私は安心しますけど、母の望むようにしてあげたいので・・・」


「では、お父さんも大丈夫なんですか?結構お年ではないんでしょうか?」


「父は、妹さんと暮らしていますが食事の支度や洗濯なども父がしておりますのでその点は大丈夫かと」


「わかりました。では、そういうことで話を進めていきましょうね。」


「ありがとうございました」


そうして会議は終りました。

それから病室に戻ると、病室が大賑わい。

何かと思ったら、女性に優しい父が同室のおばーちゃんを車椅子から降ろしてあげている所でした。


「すみませんねぇ」


「ええですよニコニコ


ほんと、女性には優しいんですよね・・・・。


「ほんとに優しくて面白いお父さんねぇ!なんて羨ましい!Aさんは幸せ者ね!」


そう正面のおばちゃんが言いました。


「(他人から見たらね・・・)ありがとうございます・・・(^_^;)」


会議が終ったからお父さんを近くの駅まで送っていくことになりました。


「ほな、今日は帰るからな。またお母さんの誕生日前に来るからな」


「うん、気をつけて帰ってね」


そう、今月5日が父の誕生日で、26日が母の誕生日なのです・・・。

りゅうがから揚げやさんに寄ろう、じいちゃんにあのから揚げ食べさせてあげたいというので

りゅうのお気に入りのから揚げやさんに寄ってから駅に向かいました。

車の中でりゅうと父が、から揚げ美味しいね!って会話をしてたっけ・・・。

そして、駅に着きました。


「お父さん、日奈久まで車で送っていくのに」


「ええねん。片道高速で1時間やろ。帰るまでにりゅうくんも疲れてまうわ。ここでええねん。

ほなら、25日に来るさかい、お母はんのことよろしゅう頼むわ」


「はい。お父さんも身体に気をつけてよ?深酒せんように」


「はいはい。わかっとるがな。ほなな!気をつけて帰りい」


「はい、ありがとう」


「じーちゃん、またね!」


「ほいよ!」


そう言って別れました。

あの父の背中をまだ覚えています。



少し休んで、また後ほど続きを書きます。



その1からの続きです。

まだ読まれていない方はこちら から。



それからしばらくして、また父がやってきました。

父やりゅうが来ると、本当に母は嬉しそう・・・。

とても笑顔になります。


そんな時、ちょっと落ち込むことがありました。

私の考えすぎかもしれないけど。

私は毎日病院へ通っていますが、りゅうも一緒に来てくれます。

嫌な顔一つせず。

ほんとに優しい子です。

その日も、汚れ物を持って帰る準備をして新しくおむつやパッドを入れ替えていた時に

口腔の先生が来られました。

この先生は母のお気に入りの女の子で、とても可愛らしくてしかも沖縄出身です。

それで母と盛り上がっていました。

二人にしかわからない沖縄の方言で盛り上がったりしていて。

母にとってはとても嬉しかったことでしょう。

懐かしそうに先生と話をしていました。

私は洗面台でタオルを変えたりしていました。

その時に、二人の会話が聞こえました。


「でもねー、Aさん。リハビリ頑張ってるね。それに、お孫さんが来てくれるの嬉しいね!

看護師さん達も、あんな可愛いお孫さんが毎日来てくれるなんてほんとAさんは幸せねー!

って言ってたよ。それに、娘さんも来て下さるからよかったね!」


私はそれを聞きながら、ちょっとほっこりして顔がほころびました。

”この先生優しいな、若いのに立派な子だなー”そう思っていた時


「あなた、結婚してるの?」母が先生に聞いていました。


「私はまだですよー。いい人がいるといいんですけど(^∇^)v」


って先生が笑った時、母が言いました。


「あのね、子供がまだなら女の子は絶対に一人は産んでおきなさいよ。

自分が病気した時、役に立つから。娘は便利よ?」


先生は笑っていましたが、、、、私の心は曇りました。

昔、母に言われたことを思い出したからです。


母が、あんたなんか産みたくなかった!と言ったときに、じゃなんで産んだのよ!って泣いた時


「だって、ねーちゃんが将来面倒見てもらえるから子供一人は産んどけって言ったからじゃん!」


あの時の言葉がよみがえりました。

父とりゅうの時とは違う。

それはわかっていたけど・・・。



もういい。


よそう。


もう、やめよう。


考えても仕方がないことだ。

そう思われてるならそれでいい。

私は私の役目を全うしよう。

それでいいんだ。


母を笑わせるのは父の役目。

母を元気付けるのはりゅうの役目。

母の身の回りのことをするのは私の役目。

もうそれでいいじゃん。

そう考えたらちょっとだけ気が楽になりました。


父が帰ってから数日後、また父から電話がありました。

それは、ずっとお名前だけは伺っていた、りょうちゃんと呼ばれる父の昔からのお友達が

今度奥様と一緒に母のお見舞いに来て下さるから、俺も一緒に来るから。

ということでした。

初顔合わせか~~~緊張するなぁ。

そのおじさんは、私が岡山にいた時に一度うちに遊びに来てくださって

私に白い犬のぬいぐるみを下さった方だ。

私は、そのぬいぐるみがとても嬉しくて、毎日毎日抱いて眠り、話しかけて遊んだものだった。

そして、そのぬいぐるみは今でも私の手元にある。

あれから私はもう10回近く引越しをしていて、アルバムや色んなものを捨ててきた。


「お父さんがいた時の思い出なんかいらん・・・・」


そう思って、岡山の荷物は全て捨てたし、焼却した。

でも、捨てられなかったものがあった。

それが、(もう真黄色だけど)あの白い犬のぬいぐるみだった。

なんど引越しする時に、もう捨てよう・・・と思ったことか。

それでもそれだけは捨てられなかった。

りょうちゃんはタンカー船に乗っていて、いつも外国の海を走っている。

年に数度だけ陸に上がることが出来て、その貴重なお休みの時に父に会いに来てくれた。

私が始めて会った時は、りょうちゃんは船から降りたばかりで

真っ白の軍服のような制服に身を包み、階級章がついた水兵?の制服がとても似合っていたのを覚えている。

当時私はまだ小学低学年で、思ったようにお礼を言えたかどうか覚えていない。

だから、今度りょうちゃんに会えたらきちんとお礼を言いたい、そう思っていた。

そして、父から聞いていた話だとりょうちゃんには3人のお子さんがいて

長男さんはもう35歳で、どうやら中級ぐらいの自閉症のようだった。


「もう35歳なのにな、雨が降ると喜ぶんやて!奥さんがな、雨が降ると職場に迎えに来はるから

それが嬉しいらしくて、朝から”今日は雨だ、お母さんが来る”ってニコニコするらしいわ」


それを聞いたとき、あぁ、きっと自閉症なんだなと思った。

電車が好き、自転車が好き、雨の日が好き、仕事は真面目、そう聞いていたから


聞いた限りではとても素直な息子さんみたい。きっと奥さんやりょうちゃんがとても努力されたんだろうな。

そう思った。


「でもな、ワシになかなか会わせてくれんねん。隠してばっかりや。」


そう言った父に私は言った。


「あのね、お父さん。じゃぁお父さんはりょうちゃんと奥さんに、自分の孫も発達障害ですって言った?」


「いや・・・それはいうてへんけど・・・・」


「ね。親友にでも言わないでしょ?それはなぜ?心のどこかで、りゅうを恥じてる部分がない?」


「そんなことあらへん・・・・」


「わかるよ。その気持ちも。りょうちゃんも同じなんじゃないかな?でも、正しく知ってくれる相手がいることは、私にもりょうちゃんにも、奥さんにもとても勇気と希望を与えてくれるの。

私も友達に会わせたくないって思ってた時があった。

だけど、勇気を出して私の子供はこうなんです、こういう時はこうしてやって下さい。

こういう部分があります、よかったら理解してやって下さい。って

そう言ったら、理解してくれるように友達も努力してくれた。

私はその友達を大事にしようと思う。

でも、理解をしようともしてくれない人もいるし、それはそれで仕方ないとも思うけど

そういう人にりゅうを紹介しようとは思わないよ。

きっと、りょうちゃんも同じ気持ちなんじゃないかな。

だから、お父さんが自閉症について知って、その話題もりょうちゃんと話せるときが来たら

もしかしたら、会わせてくれるかもしれないね」


私がそう言うと、父はしばらく考え込んでいました。


「せやな・・・ワシも言うことができんかったのは、恥じてた部分があったんかもしれん。

りょうちゃんの奥さんはな、自閉症の会みたいなのとか色んな講習会とかに出てて

物凄く勉強してはるみたいや」


「そうなんだ。立派なお母さんだね。でも、きっとそれだけ苦労されて来たのかもしれないね」


「せやな・・・」


いつも反論ばかりしてくる父が、とても素直に話を聞いてくれた日でした。


それから数日後、りょうちゃんと奥さんが母のお見舞いに来てくださいました。

りょうちゃんの面影はそのままで、奥さんはとってもお綺麗な、なんていうか。。。

とても上品な人!でした。

母の病室でお会いできた時は、ちょっと感極まったり。

そこで、私は紙袋からあるものを取り出しました。


「Sさん、これ覚えてらっしゃいますか?」


私が出したものを、りょうちゃんは不思議そうに眺めていましたが


「あぁ!!」と驚かれました。


「何度も引越ししてもどうしても手放すことが出来なくて、岡山の思い出はもうほとんど残ってないけど、これだけはずっと持ってたんです」


そう言うと、りょうちゃんは真黄色のぬいぐるみを触って


「そうなんだ・・・・ありがとう」と涙ぐみました。


それからしばらくして、母のおむつ交換が始まったので待合室に移動してお茶を飲みながら話しました。

私は奥様と隣に座って、りゅうのことを言うかどうか迷っていました。

この人は、同じような気持ちで頑張って来られた人だ。

きっとたくさん学ぶことがある!

そう決意した時に、奥様が


「でも、りゅうくんってえらいね。最初に会った時もちゃんと挨拶できて。

はじめまして!って笑顔で。可愛かったわニコニコ


そう仰って下さったので、緊張が解けました。


「ありがとうございます。あの、失礼ですが私、奥様とずっとお話したいと思っていたんです」


「え?どうして?」


「あの、りゅうは発達障害を抱えてます。グレーゾーンです。それから、少し自閉傾向もありです」


そう言うと、奥様は黙って私をみつめていた。

ゆっくりと口を開くと


「そうなんだ・・・!頑張ってきたね!!」


そういわれて、一気に涙腺が緩みました。

そんな私の背中をなでながら、話をする奥様に気がついたのか、りょうちゃんもやってきました。

そして、3人で話をしました。


小さい頃はどんなだったか、最初に気がついたときは難聴だと思ったということ

まさか私の子が・・?って悩んだことも

一緒に死のうと思ったこともあることも

周りに理解されなくて泣いたことも何度となくあったと

学校で理解してくれる先生に出会えればいいけど、そうでない場合はとても辛かったこと

年老いた両親には言っても中々わかってもらえないこと

なんでこんなこともできないの?

それぐらいわからないの?そう言われて本人がとても辛い気持ちでいること

友達に利用されやすいこと

そしていじめられたり、馬鹿にされたりすること

本人が理解しやすい手順

どんな風にしたら頭に入りやすいか


もう、話せば話すほどわかります!わかります!って言いたくなることばかり。


最後に奥様が


「うちの子はね、もう35歳だし中程度の自閉だからりゅうくんとはまたパターンも違うけど

私は私なりにあの子を理解しようと、色んな本を読み、いろんな人と会い、色んなことを学びました。

だからきっと、あなたの力にもなれると思うの。

ほんとによく一人で頑張ってきたね。いつでも言ってね、いつでも相談に乗るわ。頑張ろうね」


凄く、凄く嬉しかった一日でした。

やっぱり話して良かった。


そういえば少し前に、りゅうのこんなことがありました。

晩御飯を食べながら、ぽつりとりゅうが


「お母さん、俺ね、今日Kとケンカした」


「へ?」


ケンカって・・・。え、なんで?相手にケガさせたの?!

心臓がバクバクしました。


「え、どこか殴ったり蹴ったり?え?」


「ううん、俺ねなんていうかね・・・・うーん・・・うまくいえないけど、俺のことはいいんだ。

どんなに言われても馬鹿にされても別にいいやって思う。

でも、友達が馬鹿にされるのは嫌だよ。お母さんやばーちゃんたちが言われるのも許せない。

俺が、今日学校でKに、お前、俺の友達に悪いこと言うのやめろよ。

って言ったら、KとYが口真似して「やめろぉよぉ~合格」ってからかって来たから

そうやって人を馬鹿にすんな!俺達がおかしいんじゃない、お前のほうがおかしいんだよ!!

って怒鳴ったら、女の子が来て

「りゅうくん、やめな。こいつらに言っても無駄だよ。サイテー」って言って

俺を引っ張って行ったんだ。

その後、放課後にKに会ったから「お前、謝っとけよ!!」って言ったら

「わかったよ」とだけ言って通り過ぎた。

あいつら、二人じゃないとなんもできないね。でも、悪い言葉使ったからごめんなさいしょぼん


そう言って、お箸を置いて頭を下げました。


「そっか・・・怖かったでしょ?」


「うん・・・ちょっとだけね。でもケンカしてごめんなさい」


「でも、言えたんだ。それはケンカじゃないよ。大丈夫。

怖かったね、頑張ったね。お母さん、りゅうを誇りに思う」


そう言うと、りゅうは照れたように笑って


「俺、Y君やしょうくんに勇気貰ったから、今度は俺が返す番(≡^∇^≡)v」


そう言って部屋に戻りました。


今までこんなことなかったのにな。

きっと、RUIさんの息子さんやしょうくんにたくさん助けられて少しずつ変われたんだと思います。


それ以来、K君もY君も特にからかってくることもなく、最近あったキャンプも同じ班だったそうですが

何事もなく過ごせたようです。

りゅうのちょっとした成長を感じられた日でした。




まだ続きますが、夜に時間あったら書きます。


こんにちは。

本当にお久しぶりですね。

あれから約1ヶ月経ちました。

ほんとに・・・色んなことがありました。


最近は自分自身疲れがたまってきてるのがわかって、眠りたいけど眠れなかったり

考えないようにしたいけど、考え込んでしまったりしていました。


これから書くことは、きっととっても長くなるし

私もどこまで書ききることが出来るかわかりません。

のんびりと、時間がある時にでも少しずつ書いておきたいと思います。

途中から見た方は、遡ってここから見てくださいね。


この1ヶ月、仕事と病院とりゅうのこと、家事とめまぐるしかった。

でも、日赤はほぼ1週間で転院となりました。

同じ病室だった方々からしたら、とても早い転院で”羨ましい”って仰っていました。

だって、それだけ回復しているってことですもんね。

食事は7部粥ぐらいで、多少ご飯粒が見えるぐらいの食事。

おかずはすべてペースト状です。

これは、のども麻痺していて固形物を飲み込むとむせてしまうから。

お茶さえもドロドロの状態でした。

もう少し私の自宅に近くて、リハビリが盛んな病院に転院させて頂きました。

最初は2階の個室でした。

また新館なので、とても綺麗でTVもあるし、何よりも個室が嬉しかったみたい。

4人部屋とかだとやっぱり気を使いますもんね。

そこで、次の日からどんどんリハビリを進めて行きましょうって励まされていました。

夕方になり、食事が運ばれてくるとご飯はまるっきりのドロドロ。

”様子を見ながら段階をアップさせて行きましょう”と。


「こんなんただの糊やわ・・・。食べない」


そう母が言うのも頷けるほど、障子糊の状態(^-^;

でも、口の訓練の先生が仰いました。


「でもね、私たくさんの人を見てきたけどご飯食べなくてリハビリが進んだ人ってただの一人もいないんよ。力つけないと、リハビリが出来ないから」


なるほど、正論ですね。

ここはなんとか頑張って貰わないと・・・。

まだ不貞腐れている母に言いました。


「お母さん、先生も仰ったろ?食べないとリハビリできないよ。嫌だろうけど、頑張って食べようよ」


「でも、あんたこれ食べたいと思うか?ただの糊やん」


「それもわかるよ。でもね、前の病院の同じ部屋の人思い出してみて。食事取れてた人いた?

いなかったでしょ?皆、ご飯食べたいね、食べたいねって言いながら

ドロドロのパックを流し込まれてただけだったよね。あの人たちはまだ、口からご飯も食べれないよ。

お母さんは、ご飯も食べれるだけでも感謝しないと。

お隣のおばちゃんがうわごとみたいに言ってたよね。ご飯食べたい、食べたい・・・って」


しばらく母は考え込んで


「そうね・・・・あの人たちはまだ、口からも食べれないもんね・・・」


「そうだよ。私も先生に、前の病院ではもうちょっと粒が見えるぐらいでしたって言っておくからね。

少しずつ頑張ろうよ」


そこで、黙っていたりゅうが言いました。


「ばーちゃん、俺も早くまたばーちゃんとお寿司食べに行きたいよ。だから、そのためには嫌なご飯でも

頑張って食べないと。俺も、給食で嫌いなの出るけどウワーーー!!って食べるよ。頑張る」


母はりゅうの顔を見て


「そうね、ばーちゃんも頑張らんと」


そう言って、スプーンを取りました。その姿を見て、りゅうがぽつりと


「たまに残すけど・・・」


それを聞いて、先生と母と皆で笑いました。

それが刺激になったのか、母はそれ以来食事の不満は言わなくなったそうです。

そして、今現在はほとんど普通の食事になりました。

ほんとに頑張ったと思います。

それからは毎日2回、ハードなリハビリが始まり、ここに転院してきた時には全く動かせなかった

左足が今は多少動くようになっています。

人間の身体って凄いですね。

そんなハードなリハビリも頑張った母は本当に偉いと思います。

左手はまるで、手羽先のように縮こまっていますが、これも頑張って動くようにして行きましょう!

と先生も仰いました。


母が髪を~といい続けていたのは

「高次機能障害」と言うそうで、脳が自分の状態を認識できないそうです。

なので、自分では左は動く、歩ける、立てる、と思っていて

立とうとして転んだり、二次的な事故が起こりやすく、気をつけないといけないって。

それから、左側に意識を向けることが出来ないのでまるで、眼科の検診の時のように

左側が全く見えていないそうです。

なので、食事中も全く左側に手をつけていない。

「左にもあるよ」

と声をかけると、ん?っていうかんじで意識を向けてやっと気がつく。

左側から声をかけると、どこだろう?っていう感じで宙を目が漂い、やっと気がつく。

そんな感じです。

なので、左側に意識を向けられるようにベッドの配置を変えて下さったり、声をかける時は

わざと左側から声をかけるよにしたり、と病院の看護師さん方も手を尽くして下さっています。


これが、10月の初めから中ごろの状態でした。


一旦、一休みしますね。

昨夜はあんまり眠れなくて、ブログ書いてからぼんやりと横になってやっと眠れるかな・・・

っていう感じの朝4時に電話がかかってきました。

母から。


「明日お父さん来るって。電話あったわ」


「えー・・・・こんなに朝早く・・・?それに、今月はもう来ないよ。」


「おかしいなぁ。そう言ってたんだけど・・・」


「お母さんもまだ寝てないとダメだよ。ちゃんと寝てね、おやすみ」


「うん、おやすみ」


電話を切って、またウトウトしだしたときに電話。


「あのな、あんたもう今日は来たっけ?」


「いや、まだ5時だからね。りゅうの病院行ってから、その後行くからね」


「うん、わかった」


「おやすみ」


「おやすみ」


それから更に1時間後


「あのな、今日髪きりに行きたいんよ。外出の許可取ってくれる?」


「まだ先生がダメっていうからね、先生がいいよって言ってからにしようか」


「そうか・・・まだかぁ・・」


「もうちょっと寝るからね、おやすみ」


「うん、おやすみ」


結局、まんじりともせず朝を迎えました。

りゅうを起こして、熱を測ったけど平熱。

よかった。

じゃ、小児科はパスでいいかな。

心療内科に9時半に行きました。

すっごい人。座る場所もないくらい。

聞いてみたら2時間近くは待ち時間のようだったので、母のお見舞いに先に行くことに。

母の病室に入ると、母はTVを見ていました。

マスクをつけたりゅうを見て


「りゅうくんごめんな。ばーちゃんの風邪がうつったかもな」


「大丈夫だよ。もう熱も下がったし。ばーちゃんは大丈夫?」


「うん」


それからしばらく話をしましたが、やっぱり繰り返し言うのは

父のこと、自分のお金のこと、髪のこと。

多分、自分がいつも気にしていたことなんじゃないかな・・・・。


「お父さん、明日くるって」


「ううん、来れないよ。また来る時は私がいうからね」


「お金な、私の財布がどこにいったかわからんから、探してるんよ。家まで行ってみてきてくれん?」


「お金はね、家に置いておくと危ないからってお父さんが全部持って行ったからね。お財布もお父さんが持ってるから。」


「髪を染めに行きたい、それがダメなら切りに行きたい」


「それは先生がいいよって言ってからにしようね」


この3パターンの会話をもう何十回繰り返してるでしょうか・・・。

とても美人さんな人だから、きっと身だしなみもきちんとしてないと嫌なんだろうし

お金もきっちりとした人なので、気になるのでしょう。

そして父のことも・・・・。


そうして2時間が過ぎ、明日また来るからと告げてりゅうの病院へ。

30分ほどで順番が来て、診察が始まりました。

短期間で体重が2kgも減ったことを先生はとても気にされていて

薬をストラテラに変えて様子を見てみたいと。

お薬の料金は結構変わるみたいで、今は1.5倍ぐらいの値段ですが徐々に増やして様子を見るので

最終的には2~3倍の値段がかかるかも・・・ということでした。

これから母の介護や入院代や雑費で支出が増えるでしょうが

りゅうにとって生活がしやすくなるなら、なんでも試してあげたい。

効き目が出てくるまでに数ヶ月かかりますが、試してみることになりました。


その帰り道で、しょうくんママからメールがきてたことに気がついて。

その後で差し入れに来てくださいました(∩ω・。)

嬉しかったぁしょぼん

本当に嬉しかったです、ありがとう!

早速1個食べてから、りゅうに添い寝して気がついたら夜の8時!

慌てて支度しましたが、りゅうはぐっすり寝てしまっていて、なんか起こすのもかわいそう。。

それとも、お昼に飲んだ薬が眠気を起こしてるのかしら・・・。

結局、9時ぐらいにやっと目を覚ましたりゅうにご飯をして、薬を飲ませてまた寝せて。

その後、父から電話がありました。


「今日は病院行ったか?」


「行ったよ」


「お母さんどうだった」


「うーん・・・まだ記憶が混乱してるのか、痴呆なのか・・・同じことの繰り返しばっかり」


「なんて?」


「いつものだよ。お父さんのこと、お金のこと、髪のこと」


「あっはっはっは!またか!」


笑った父が許せませんでした。


「お母さんはね、ずっと明日はお父さん来る、明日は来るってそればっかり言ってるんよ!?」


「あははははは!!そうかそうか!!」


もう信じられなかった・・・。そこで笑える・・・?


「よく笑えるね・・・・」


「お前な、深刻に考えとってもアカンぞ!どうせ今だけや、よーなるがな。

ワシ、明日行くとは言うとらんぞ、アハハハハ!」


「・・・・・・」


「ん、まぁ・・・二日に行くわ」


「いや、別にええし」


「・・・ほなまたな」


こんな父を待って待って待って・・・・母が悲しくなりました。

女が悲しくなりました・・・・。

昔はもっと大人しいタイプの父でしたが、失踪して大阪に逃げていたそうです。

それから23年ぶりに再会した父は、全く別の人になっていました。

よくある、大阪のちょっと面白いオッサンになっていました。

母は、昔の大人しい父にはイライラしていたそうで、今の父のほうが好きみたい。

でも、私は・・・昔の父のほうが好きでした。

あの父はもういない。

お酒を飲むと暴力的になり、母の左の鼓膜も敗れました。

お酒を飲んでいないと大人しい・・・典型的なそういうタイプです。

そんな父に我慢していたのか、なんなのか、だから母の怒りの捌け口は私だったのかな・・・・。

父からは暴力を受けたことは数度しかありませんが、子供の頃母の虐待を父に打ち明けて、助けを求めたことがあります。

ですが「あー、そうなんか。まぁ、、、お母さんと仲良くやりや」そう言って逃げた父。

あれは、助けてくれると思って告白した自分には絶望でした。

父がいるときは、母は私を殴りません。

だから、父が夜勤の時が本当に怖かった。


母が本当に好きで結婚したかった人は、結婚式の1週間前に自動車事故で亡くなったそうです。

それから、半年ぐらい錯乱していた母。

もちろん自殺未遂も何度も繰り返し、母の手首は切った後で一杯です。

それだけ愛した人だったんでしょう。

父の後で、母と再婚したいと言ってきていたおじちゃんは、私が唯一許した人です。

その人も、胃がんで亡くなりました。

その後母が付き合ったお店の従業員だった人は、同じ従業員の人と浮気して結婚しました。

そして、その後アル中になり農薬自殺・・・。

なんだか母も悲しい人生だったんですね。

だからこそ、父には大事にして欲しいけど・・・・・。


どうやら私もりゅうから風邪を貰っちゃったみたい。

目の奥が痛くて、汗がじわーって。

薬飲んでさっさと寝よう。

明日は菊池まで行かないと。がんばれ私。


昨日の夜から、りゅうが頭が痛いと言っていました。

やばいなぁ・・・・病室で母が繰り返しくしゃみをしていたので、もしかしたら・・・と思っていましたが

今朝起きて、りゅうを起こすと


「お母さん・・・頭痛い・・・」


見るからに顔が真っ赤で、いかにも熱があるぞーー!って言いたげなパンパンにふくれたほっぺた。

熱があるときのりゅうの特徴です。


「うーん、熱はかってみようか」


体温計で測ってみると・・・・うっは。39度。


「何度ある?」


「えーっと、38度ちょっとかな~~今日はお休みしようか」


「うん・・・。ごめんね」


「仕方ないよ、風邪だよ。季節の変わり目だしね、しょーがない」


朝食を食べさせて薬を飲ませ、職場の人に電話。

お休みもらえたのはいいけど、ふー・・・・そろそろ首になっちゃわないかしらん(´・ω・`)

民生委員さんに電話して、日曜に会ってもらえるようにお願いする。

母のアパートの大家さんに電話して、書類をお願いして

りゅうに一言伝えて買い物に出た。

さっさと夜の買出しと洗剤や薬やアイスノンとひえピタを買う。

急いで戻って、りゅうが食べたいと言ったリンゴをむいて寝せた。

食欲あるし、水分取れてるし大丈夫かな。

りゅうが寝たのを確認してから母にかかった費用をノートにつける。

こうしておかないと、あの母のことだから意識がはっきりしたら

何にいくら必要だったか、きっちりと知りたがると思う。

昨日面会に来てくださった社長からのお見舞いと、私の友達からのお見舞いを一緒にバインダーへ。

母には何回も言ったけど、多分また忘れてるから。

早めに晩御飯の支度をして、お風呂に入り、ぐっすり寝てるりゅうに書置きをして病院へ。


母はいつものようにテレビを見ていた。

いつもの母は、本当にテレビっ子でテレビがないとダメな人だ。

最近は仕事が休みの日は、ビデオを借りて見続けているらしい。

そんな母なので、テレビはいつでも流している。


「今日はご飯食べれた?」


「食べれた」


「何かいるものある?」


「そこに看護婦さんが書いてるから欲しい」


「わかった、買って来るね」


1階の売店で必要なものを揃えて、一旦ソファに座った。

ふーーってため息が出る。

いかんなぁ。

ふと携帯を見ると、友達からメールが来てた。

北海道に嫁に行った友達の子だった。

母にお見舞いを・・・って。こんなに遠くに離れてるのに、そんなに気を使ってくれて・・・。

晩御飯にどうぞってご飯作って来てくれた人もいた。

ティッシュはかなり必要になるからって買ってきてくれた人もいた。

メールくれたり、電話くれたり、メッセージくれたり、りゅうを預かってもいいよって言って下さった人も・・・。

ほんと有難くて涙が出ちゃう。

皆さん本当にたくさん支えて下さってありがとう。

また頑張れます。


それから病室に戻って、母と話をしていた。

顔の麻痺も少しおさまって来て、話が随分と聞き取りやすくなった。

先生も来られて、身体や脳の山は越えたのでこれからはリハビリをしっかりやって行きましょうと。

転院の受け入れ先を選ぶための用紙を貰って、決めてくることになった。

うちから近くて、リハビリの先生が多い病院を希望していたのでそう先生に伝えると

すぐにでもしっかりとリハビリを始めたいので、10月1日に転院しましょうって。

うわ、はえーーーー。

そうお母さんに伝えると


「そうか、もう退院?じゃ、髪染めに連れて行って」


「いや、退院じゃないよ。病院移るの。」


「・・・・今日、お風呂はいった」


「そうなの?よかったねぇ!さっぱりした?」


「びっくりしたわ・・・。まさかあそこにあるなんて」


「え、何が?」


「温泉がな、あったんよ。ほら、菊池の温泉。まさかここにあるとはなぁ。知らんかったわ」


「・・・・温泉じゃないよ、病院のお風呂だよ。」


「・・・・・?そうかぁ」


どうやら・・・まだ・・・。


「りゅうはどうしたん?」


「風邪ひいてね、熱が出たから寝せてきたよ」


「大丈夫?」


「うん、熱も下がってきたしね。」


「私がうつしたんかもなぁ。くしゃみばっかりしてたけん。悪かったな」


「大丈夫だよ。季節の変わり目だから。仕方ないよ」


「帰りに、りゅうの好きなもの買って行ってあげてね」


「うん」


こうして話しているといつもの母だけど・・・・。


「じゃ、洗濯物持って帰るね。また明日来るよ。朝、りゅうを病院連れてって、その後来るから」


「わかった。あんた、朝きたっけ?」


「いいや、朝は来てないよ。面会時間じゃないからね」


「そうかぁ・・・・」


「じゃ、また明日来るね。おやすみ」


「おやすみ」


急いで病院を出て、家に帰るとりゅうも起きていた。

熱が下がったか聞くと、36.9度。

食欲もあるみたい。よかった。

晩御飯を食べて、薬を飲んでりゅうがベッドに入った時に担任の先生から電話が来た。

プリントを持ってくるって。

ほどなくして先生がいらっしゃって、プリントを預かった。


「熱が出ました?」


「ええ、今朝は39度ぐらいでした。今は36.9度ぐらいで微熱ですね」


「急に上がりましたねー」


「ですねー。母の病院にいつも着いて来てくれるので、もしかしたら貰っちゃったのかもしれませんね」


「季節の変わり目ですからねー。クラスでも風邪ひきさんが多いです。私もですが」


「先生もですか!お大事になさって下さいね。わざわざありがとうございました」


どうやら先生も風邪みたい。

ほんとに流行ってるんだなー。

皆さんもどうぞ気をつけて下さいね!!


昨日は、一旦母のところへ行き、その後学校が終ってからりゅうを迎えに行ってまた病院へUターン。

学校に迎えに行く前に、洗濯ものやおむつの補充をしようと病室に寄った。


ここ数日、恐れていたことがやっぱり現れた。


「お母さん、来たよ。今日はご飯食べれた?」


「うん、食べれた。」


「よかったね!むせなかった?」


「うん」


「そっかー、洗濯物貰っていくね」


「病院で洗濯と乾燥できるからやるといい」


「大丈夫だよ、帰ってからやるから」


「悪いね」


「いいんだよ」


昨日よりちょっとよくなってるみたい。

言葉も昨日よりもわかりやすいし、熱も下がってる。

左はまだ全然動かないけど、それでも少しずつよくなってる。。のかな?

そんなことを考えながら、洗濯物を取り出していると、ふと思い出したように言いました。


「明日な、髪染めにいくから」


「??(まだ動けないはず・・・お風呂入れてもらうのかな?」


「ほら、菊池の。センターのとこの隣の美容室。あそこに予約入れないと。

看護婦さんに、外出の許可取っといて」


「・・・・・・・・・・いや、まだ動かれんよ・・・?」


「うーん、車椅子でも入れるから、じゃぁ外泊許可取って」


「・・・・・・まだ動かれないからね。先生がいいよって言ったら、行こうね」


「そうかぁ・・・まだダメかぁ・・・・」


一番恐れていたことでした。

脳に損傷は少なからずあるはずですし、救急車の中では意識を45分失っていたのですから。。

心臓がドキドキしました。

まだわからん・・・今はちょっと混乱してるだけかも・・・?


「あのな、明日、髪染めにいくけん。先生に外出許可とって」


一気に涙が溢れそうになりました。


「まだねー、ちょっと動かれんけん。先生がいいよーって言ったらいこうね。乗せて行くから」


「そうかー・・・まだダメかぁ・・・車椅子でもいいんだけど・・・」


「もうちょっと元気になったら行こうね」


「うん・・・」


この会話を5回ほど繰り返しました。

丁度おむつ交換の時間になったので、りゅうを迎えに行ってくるねと伝えて病院を飛び出しました。

介護だけなら、なんとか頑張れる。頑張ろうと思ってる。

だけど・・・・・。

いつかは来るかもしれないと思っていたけど、まだその覚悟はできていませんでした。

早めに出てしまったので、学校が終るまで学校の近くのコンビニの駐車場でぼんやりとしていた時

丁度友達から電話が。


「今何してんの?お母さん大丈夫?」


「・・・あかんわ・・・痴呆入ったかもしれん・・・・」


「えぇ?」


それから30分ほど話して、ちょっとだけ弱音を吐きました。


「じゃ、りゅうを迎えに行くから切るね。ありがとね、頑張るよ」


「無理せんでね」


「うん、わかってる。ありがとー」


それから学校の駐車場でりゅうを待ち・・・。

すぐにやってきたりゅうですが、ちょっと表情が暗かったので聞いてみました。


「どしたん?何かあった?」


「んー・・・・。友達がね」


「うん」


「ばーちゃんが倒れたぐらいで部活休むなって昨日言ったっていったでしょ?」


「うん」


「別の子なんだけどね。また、部活に出て来いっていうから

俺は、ばーちゃんとお母さんと身内は二人だから、部活終ってから病院行ったら時間なくて

ばーちゃんにあんまり会えないから、もう少しばーちゃんが安心するまで休むって言ったけど・・・」


「うん・・・・」


「ばーちゃん死ぬの?死ぬんだったら部活休むのもわかるけど

死ぬんじゃないんでしょ?だったら部活休むな。身内が二人だからって言い訳だって」


「はぁ・・・」


いや、、、お前が部活に出てこないと寂しいから早く出て来いよーとかじゃなくて・・・なんていうか・・・ねぇ・・。

ため息が出ました。もちろん、顧問の先生には事情を話してありますし了承も得てます。


「じゃ・・・帰るの遅くなっちゃうけど、明日から部活を6時までやって、それから病院行くようにしようか」


「でも、それじゃばーちゃんとこ少ししかおれんし、お母さん一人じゃ大変でしょ?」


「大丈夫。あんまり友達に言われ続けるのも嫌よね。だから行っておいで。」


「うん、ありがとう」


なんだかなー・・・。

りゅうを連れて病院に戻って、りゅうに少しお母さんを看ていてもらえるよう頼んでから

先生と少し話をしました。

あの何度も同じことを言うのは、今だけ記憶が混乱しているんでしょうか?

それとも、脳梗塞が原因で痴呆が始まることもあるんでしょうか?


先生は、確かにそれが原因でなってしまう人もいるにはいます。

寝たきりだと麻痺も混乱もどんどん進行してしまうので、本当はもう少し安静予定なんですが

わざと動かす方向にシフトして行きましょう。

車椅子でも移動したり、リハビリを早めに始めることで記憶の混乱が収まるかもしれないし

そうじゃないかもしれない。まだ少し様子を見ないとわからない・・・ということでした。

そっか・・・希望はある。

そうじゃないとしても・・・・覚悟を積み立てていこう。

退院してから、いきなりわかるよりもきっといい。


そう思って、病室に戻ったら丁度お顔拭きが配られる時間でした。

入り口の水道で手を洗って、殺菌ジェルを塗っていたら声が聞こえました。


「りゅうくん、明日ばーちゃん髪染めにいくけん。」


「ばーちゃん、まだダメだよ。もう少し我慢しようね。そしたら一緒に行こうよ」


「そうかぁ・・・まだダメかぁ・・・・」


りゅうが母の顔を拭いてくれていました。

なんて優しい子だろう・・・。


また明日来ると告げて、帰りのエレベーターの中でりゅうに言いました。


「お母さんな」


「うん?何?」


「りゅうがお母さんの子供で本当によかったって思ってるよ。あなたを誇りに思う」


流れそうな涙を上を向いて止めました。


「ありがとう。お母さん、大丈夫だよ。俺もいるから。一緒に頑張ろう」


「ありがとね・・・」


ニッコリ笑って、私の背中をトントンと叩くりゅうの手のひらの温かさを感じながら

すっかりともう真っ暗になった駐車場に出る。


「見て、お母さん!ほら、月だよ!うさぎさんがいる」


「ほんとだねニコニコ


涙でぼんやりとしか見えない月が、とても綺麗だった。



昨日は、役所に行ったり40分ほどかかる母の家に荷物の片付けと母が大事にしている

植物に水やりに行ってきました。

その後、午後から重い足を引きずって病院へ。


昨夜、父が帰ったので母になんていおう・・・悲しませるんだろうなと。

病室に入ってみると、母は眠っていたので看護師さんに容態を聞くと

やはり、あれ以来食事はできていないそうで。

麻痺がのどにも残っているので、食事をするとむせてしまい、肺炎を起こす可能性があるから。

それはもう仕方ありません。

母は意識が朦朧としていて、熱もあるみたい。


目を覚ました母と少し喋っていると


「お父さんは?」


「・・・昨日の夜な、帰ったわ」


「なんで」


「また太いこと言い出したからもう、我慢できんかった。ゴメンね」


「酒飲んでたんやろ」


「あぁ、飲んでたねぇ」


「いつもな、酒飲んだらあがんあるもんな」


「そうだね、苦労してきたね」


「今日来たばい」


意識が朦朧としていて、たまにうわごとを言うのでこれもうわ言かもと思っていると


「お父さん、今日昼前に来た。それから帰ったわ」


「お父さん来たん?」


「あぁ、来た。そんであんたにお父さんが来たって言うなって言われた」


「そりゃ言えんやろ。あんだけでかい口叩いて出て行ったんやけ」


「そうやな、ははは」


「なぁー」


どうやら、昨夜はどこかに泊まったみたい。

多分、うちの近くにビジネスがあるからそこにでも泊まって私が面会に来る前に帰ったんじゃないかな。


「やましいことや間違ってないならコソコソする必要ないやんな?」


「そうやな。でもあんた達親子は、昔から仲良かったからケンカせぇへんやろ」


「違うわ・・・。お父さん子だったのは、お父さんがうちら置いて出て行くまでやわ。

今は、お母さんと身内が増えたって喜ぶりゅうのために我慢してるだけや」


「そうか・・・あんた、今朝電話してきたやろ」


「しとらんよ」


「Yさんからも電話あった」


「そうなん?」


母の携帯を見てみましたが、Yさんからの着信履歴はありません。

もちろん、私も朝に電話なんてしてません。

やっぱり記憶が混乱していたり、朦朧としてるんだな・・・・。

その後、りゅうを学校へ迎えに行ってまた病院へ戻ると

りゅうの顔を見ると、笑顔が出る母です。

りゅうには悪いなと思っています。試験前だし、部活も休ませてしまっているし

(部活が遅くまでなので、面会時間なくなってしまうので・・・

私が洗濯物をまとめたり、看護師さん・先生と話している間、りゅうが母を看てくれていました。

優しく、手をさすったり、声をかけたりしてくれます。

おむつがもう足りなかったので、売店へ買い物に行きました。

その間もりゅうがついていてくれるので、有難いです。

買い物ををして戻ってくると、りゅうがタオルで母の顔を拭いてくれていました。

その時、私が祖父にしていたことを思い出し、泣きそうになりました・・・。

私もああやって、顔を拭いたり湿った脱脂綿で口を拭いてあげたっけ・・・。

それから、母に明日また来ると伝えて帰りました。


帰り道でりゅうが


「お母さん、今日友達がね」


「うん、どした?」


「ばーちゃんが倒れたぐらいで部活休むな、出て来いって言われた」


「そっかー・・・・。明日から部活行く?」


「ううん、もしも今ばーちゃん会えなくなったら後悔するから、もう少し休む」


「わかった・・・。ありがとうね」


「それから、E君覚えてる?」


「あぁ、最初にりゅうをいじめてた子ね」


「うん、あいつが最初他の人がばーちゃん大丈夫?とか言ってくれてた時に

”そんなんどーでもいい”みたいに言ったんだ。」


「・・・・うん」


「でも、次の休み時間に一人で俺のとこ来て”さっきはごめん”って言ってくれたから

俺も”うん、いいよいいよ。大丈夫”って言った」


「・・・えらかったなぁ、りゅう・・・しょぼんそんで、E君も謝ってくれたんだ」


「謝るくらいなら最初から言うなよーとも思うけど、謝れたのはえらいね」


「そうだね。えらいね、りゅうも」


「それから、しょうくんがとても心配してくれた。だから、ママにもありがとうって言ってねって言った」


「そっかぁ。しょうくんもママも優しいな。うれしいね、有難いね」


「うんニコニコ


人の優しさや、りゅうの色んな面を見れた一日でした。