東京45年【62-2】鉱物学
1985年 初冬の頃、25才、早稲田
『本当だね。君は私の研究室を志望して、見事に文句なしに1番で試験に合格したのに1度も顔を出さなかった。それは一体然体どうしてだね?』
『言い訳は何もありません。申し訳ありません』と俺は頭を深々と下げた。
『それじゃあ納得出来ないな。言い訳してみなさい』
『いいえ、言い訳出来る事は何も無いです』
『そうか。では私が代わりに代弁してみよう。“何故か山に登りたかった。ついつい山に登っていたら学校に来る事を忘れてしまった”そんなところだろう?』
『それは違います』
『どう違うのかね?私は何故来ないのかと思って知り合いに聞いてみたら山に行っているという事だった。それを聞いた私は呆れ返った。そして、いつまでたっても来ないので、いろいろ聞き回ったら外国の山に行っているという事だったが』
『それは間違いありません』
『そら、あっているじゃないか。一体何処が違うと言うのだ』
『いや。その。。。つまり“学校に来るのを忘れた”ってところが違います』
『どう違うんだ?』
『本当に言い難いのですが、初めから大学院で研究がしたくて来た訳ではなくて、山に行く為に、もう少し社会に出る前の執行猶予期間が欲しかっただけです。ですから、“学校に来るのを忘れた”訳ではなくて、“初めから来る気が無かった”のです。申し訳ありません』
『君は。。。』
『本当に申し訳ありません』
『君はただそれだけで大学院に入る為の勉強をしたのか?』
『はい。申し訳ありません』、俺は何度も謝った。
『何年前から大学院に、いや、執行猶予期間が欲しかったのだね?』
『秋頃です』
『はぁ?いつの秋だね?』
『去年のです』
『たった数ヶ月で大学院の受験勉強したのか?それに君は留年を繰り返して、大学の成績はお世辞にも良いとは言えない』
『そうです。成績は下の下でした。大学院に入る為の勉強は、初めての事でしたから、秋からは本当に一生懸命に勉強しました。大学で殆ど勉強しなかったのでお陰で大変でした』
『一生懸命って。。。君は。。。まいったな』
『申し訳ありません。先生の研究室をバカにする様な事をして、本当に申し訳ありません』
『いやはや、君にはまいったよ!少しは懲らしめてやろうと思っていたが、それは止めた』と花田教授は呆れ顔で続けた。
『どうやら君には、この研究室以上に情熱を傾けられる物を見つけた様だな?普通はそんなに若くして見つける人はいないよ。しかし、大学と大学院に登山の為に入学した人間は他にいないだろうな』
『そうですか?私だけではなかったはずですが。。。私は理工学部ではなくて山岳部卒業だと思っていますから』
『あはは、面白い!ガクブは“山ガクブ”か?
まあ、いいさ。何れにしても、私は君の事を聞いて興味を持った。
さらに、今、大学1年の頃から登山を繰り返していると聞いて、さらに興味を持った。
一つの事を情熱を持ってやる事は素晴らしい事だよ。情熱が無ければ何事も成就しない』
『はい、山には本当に情熱を傾けました。全身全霊を持ってやりましたから、大学に長くいた事も、大学院を中退する事も何の後悔もないです。ただ一つの事に純粋に打ち込めた事が私の誇りです。そして、登山という文化に触れられた事が嬉しいです』
『そうですか。それは良い事だ。私も大学の学生時代から流体力学に没頭している。だが、最初は流体力学を研究する事によって人の暮らしを便利にする事を目標にやって来たが、最近はその純粋さが少し薄れてきている様なんだ。企業との付き合いも深くなってきて、結果的にお金儲けに走っていたりする自分が少し情けなくなっている』
『でも、それで人の暮らしが豊かなっているんですよね?それなら素晴らしいと思いますが。それに、それは誰もやっていない事なんですよね?それは凄い事ですよ。それにその儲けたお金でさらに研究をすれば良い事だと思います』
『君は、私を慰めているのかね?』
『いいえ、そんなつもりはありません。単純に感想を述べたまでです。それに少し先生が羨ましいです。もう少し時間があったら、見つけられたかも知れないと思います。私は来年の4月からは社会に出ますから、もう勉強をする時間は無いと思います』
『それは、違うよ。やろうと思えばいつだって勉強は出来るものだよ。要はやる気があるかどうかだよ』
『そうでしょうか?そうだと良いんですが、サラリーマンになっても勉強出来る時間はあるんでしょうか?』
『思い続ける事と毎日少しずつでもやり続ける事が大切なんです。そうすれば、自然と身につくものです。それに君は登山を継続出来たじゃないか。そして、いろんな山に登ったんだろう?それが出来たんだから、他の事も出来るはずです』
『分かりました。心がけてみます』
『ところで、君は上井草寮に住んでいたそうだね?』
『はい。でも正確には、大学1年の終わりからから3年の終わり頃までは、インドに住んでいたので日本にいた時間は短いですが』
『そうなんですか。しかし、随分遊びましたね?』
『はい、真剣に遊びました。先生には申し訳ありませんが、学業はそっちのけで遊びました』
『本分は分かっていたんですね?』
『はい、分かってはいました』
『分かっていて、そうしたって言う事は、ついつい山が面白くなったんですね?』
『いいえ、そうでもないです。高校の頃から山に憧れて、山に行ったら、もっと行きたくなりました。それで東京に出て来ました。ですから、先生が仰る様な過失ではなくて、確信犯だと思います。申し訳ありません』
『ほう、確信犯ですか。山にはそんなに魅力があるんですか?』
『あります』
『“そこに山があるから”ですか?』
『その言葉は、イギリスのマロリーがエベレストに登頂した後に帰国した時に新聞記者に“何故山に行くか”と聞かれて、うるさいメディアを煙に巻く為に言った言葉で、彼自身、本心で言った言葉では無かった様です』
『そうですか。マロリーは兎も角、君はどうなんですか?』
『私は、分かりません。強いて言うなら自己表現の方法がそれしか無くて、それが一番やりたかったです』
若造の言い訳だった。