東京45年【62-1】早稲田 | 東京45年

東京45年

好きな事、好きな人

東京45年【62-1】早稲田

 

 


1985年 初冬の頃、25才、早稲田
 


俺は、一頻り、玲のお母さんと話をして、玲の実家を後にした。
 

 

帰り際に『何かあったら泊まりに来て下さい』とお母さんが言った。
 

 

『何もなくても一人で来ても良いですか?』と訊ねた。
 

 

すると、お母さんは、『いつでも良いですよ』と明るく微笑みながら言った。

 

 

玲の微笑みは、もしかしたらお母さん譲りかも知れないと思った。

 

 

俺は、玲も、玲のご両親ももっと知りたかった。

 

 

だから、その時は、必ず一人で泊まりに行こうと思っていた。

 

 

だが、あれ程頻繁に泊まりに行く事になろうとは思ってもみなかった。
 

 

玲の実家を後にして、自由が丘に向かおうと思ったが、マンションの鍵を持っていなかった。

 

 

仕方がないので、時間つぶしをしようと思い、取り敢えず神楽坂駅に向かった。

 

 

歩きながら、ふと早稲田の部室に行ってみようと足を西早稲田に向けた。

 

 

早稲田通りを歩きながら懐かしい感じがした。

 

 

明治大学山岳部と打ち合わせをする時に通った道だった。

 

 

懐かしい道だった。

 

 

そう感じながら2,3キロの道のりを歩いた。

 

 

歩道の街路樹はその葉を落とし、冬支度が終わっていた。

 


黙々と歩いた。歩けば30分足らずの道のりだった。

 

 

歩くのは苦にならなかったが、懐古の念に囚われて、小さい憂鬱を感じていた。

 

 

早稲田本校は、早稲田通りの右手にあり、通りから右に折れると直ぐに正門だった。

 

 

そこも懐かしく思えた。

 

 

 

 

 

熱き思いと闘争本能を与えてくれた場所だった。

 


大隈講堂を左手に見ながら、正門を入り、部室に向かう。

 

 

教室への道は不案内だが、部室までの道は歩きなれた道である。

 

 

部室に入ると奥で5,6人が麻雀をしていた。入って行くと見慣れた顔が立ち上がって挨拶をした。
 

 

『島谷先輩、ご無沙汰しております』と、その言葉を合図に残りの後輩達も立ち上がって、それぞれに挨拶をした。

 


『堅苦しい事はいいよ。麻雀をしてなよ。しかし、2ヶ月来ないだけで懐かしいよ。ところで、みんな変わりはないか?』と俺は言った。
 

 

『はい、変わりは無いです。みんな何事も無く、それぞれの山行をしています』
 

 

『そうか。それは良い。ところで、正月合宿は何処にしたんだ?』
 

 

『はい、北アルプスです。毛勝三山から池ノ平山、小窓、大窓、三の窓、剣岳を経て早月尾根を下降するパーティー、それから黒四から真砂岳、剣岳を経て早月尾根を下降するパーティーの2パーティーに分けて縦走します』
 

 

『そりゃあ、どれもロングランで、面白そうだな』
 

 

『島谷先輩も参加されますか?』
 

 

『俺はもう現役じゃないんだよ。大学院は中退したしな』

 

 

『現役じゃ無くったってOB達も来るじゃないですか?』

 

 

『それもそうだな』と言いながら俺は、退学届けを出していなかった事に気が付いた。

 

 

『ちょっと待て。もしかしたら現役かも。。。ちょっと、教学課に行って確認してくる』
 

 

『どうしたんですか?』
 

 

『いや、退学届けを出していなかった様な気がして。出した様な気もするんだが、どうもハッキリしない』
 

 

『相変わらずですね。しっかりしている様で。。。』
 

 

『どこか抜けているんだろう?ハッキリ言いなよ』
 

 

『いや、その。申し訳ありません』
 

 

『気にするな。抜けているのは事実だからな』
 

 

俺は直ぐにクネクネとした裏通りを抜けて、大久保校舎の理工学部教学課へ向かった。夏休みに来た覚えはあるが、退学届けを出した覚えが無かった。教学課で見慣れた年配の女性の事務員さんに大学院の研究室を告げて、退学届けを出したい旨を伝えた。
 

 

すると、『ああ、あなたね。花田教授から聞いてます。あなたが来たら研究室まで来る様にと言われています。手続きは整えておきますから花田教授の部屋に行って下さい』と言われた。

 

 

俺は、花田教授の部屋に向かいながら、花田教授の顔を思い出そうとしていた。

 

 

教授とは1度会っている。研究室のオリエンテーションの時に会った。

 

 

別に記憶に残る様な会話も、出来事も無かった。

 

 

それなのに呼び出されるのは、1度も研究室に顔を出す事も無く、中退する事に苦言を言われるのだろうと思った。
 

 

花田教授の執務室のドアをノックすると“どうぞ”と声があった。

 

 

俺は、“失礼します”と言いながらドアを開けて部屋の奥に向かった。

 

 

 

 

部屋の中は夥しい資料と分厚い本が所狭しと積まれていた。

 

 

俺は教授と言う職業はこんなに本を読まなければならないのかと気の毒に思った。

 

 

俺も本はたくさん読んだが、好きな本を読んだだけで、義務感で読んだ事は無い。

 

 

好きで本を読む俺と義務で読む大学院教授。

 

 

仕事だから読むのだろうが、俺は端から仕事にしたくないと思った。
 

 

『失礼します。島谷です。教学課に言われて来ました』と大きな机で資料を読んでいる教授に挨拶をした。
すると、教授は老眼鏡の端から上目遣いに俺に視線を移して言った。

 

 

『おお、やっと顔を出したな。まあ、その辺に掛けて。と言っても座る場所が無いが』と花田教授は言った。その言葉通りに椅子やソファーは資料や本が積まれていて、座る場所は無かった。
 

 

『はい。失礼します』と俺は教授の机から離れた丸椅子に座った。

 

 

すると教授は、『そこじゃあ遠すぎる。そこのソファーに座って下さい』と言った。

 

 

俺は、立ち上がって、崩れそうな資料や本を慎重に寄せて、自分の座る場所を確保した。

 

 

教授は俺がなんとか座われたのを確認すると、俺の向かいのソファーに座った。

 

 

その座り方が滑稽だったので俺は思わず笑った。

 

 

自分のお尻で本をズリズリと押しながら座れる場所を作った。

 

 

すると左右にある本の山が崩れた。
 

 

『やっぱり崩れたか。私は片付けが苦手でね』と教授は言った。
 

 

『その様ですね』と俺は言った。

 

 

続けて、『1度も研究室に来ずに申し訳ありません』と言った。