東京45年【5】 | 東京45年

東京45年

好きな事、好きな人

【5】

 

 

 

1979年夏の頃
 


2週間は目一杯授業を受けて寮に帰ってからも毎日勉強した。
 

そんな毎日を過ごしていた時ラグビー部の先輩が部屋に入ってきた。
 

『竹中さんって知ってるか?』
 

『???』
 

『早稲田に8年もいて、2年までは山岳部だったらしい』
 

『今は゛黒部の衆゛という同人で山に行っているらしい』
 

『どうして僕に?』
 

『教育学部の大先輩で山岳部出身の田口さんという方がいるんだが、その人が竹中さんにお前を引き合わせたいと言ってたんだ』
 

今日、田口さんが別の用事で大学に来た折りに教授から紹介された時の話らしい。
 

どうやら田口さんは朝日新聞の記者らしい。ラグビーの先輩は、田口さんの電話番号を渡し、よろしくと言って部屋から出て行った。
 

 

 

この時は疑問に思ったが、価値ある登山をする度にいろいろなお誘いがあって、知り合いが増えザイルパートナーも増えていった。

 

 

 

登山組織の会合の招待や登山関係の出版社、その本の発売記念パーティー、講演会等々の誘いが本格的に出てきたのは、その半年後からだった。

 

試験期間は普通の大学生をしていた。

 

朝はラグビー部の早朝ランニングに特別参加させて貰っていた。

 

梅雨の時期だったので雨の日が多かった事を覚えている。

 

毎日朝5時から2時間も走っていた。
 

 

 

 

前期試験が終わった日に田口さんと原宿の日本山岳協会で会った。
 

『ご無沙汰しています』
 

『おお、よく来てくれた』
 

田口さんはニューデリーの俺の家に初めて山の道具を預けに来た人だった。
 

道具を売った事、そのお金を借金、学費、旅費に使った事を伝えた。

 

茂子とのデート費用に使った事も伝えた。

 

それから400万円残っている事も伝えた。
 

『使って貰って良いよ』
 

と言われた。
 

 

『その代わりと言ってはなんだが、竹中と会って貰いたい』
 

『何故ですか?』
 

『勘だよ』
 

『なんのですか?』
 

『実は来年日本山岳協会主催、朝日新聞社後援で来年秋にヒマラヤ遠征がある事は知っていると思うが、島谷君に参加して貰いたい。竹中はきっと君の良いザイルパートナーになると思う。その時に二人で遠征を成功させて欲しい』
 

『田口さんも参加するんですか?』
 

『ああ、そのつもりだが、会社は朝日新聞社の社員として参加して欲しいと言っている』
 

 

この時に初めて俺は自由な山登りに窮屈な縛りがある事を知った。
 

山登りは金がかかる。

 

大きな遠征となると尚更だ。

その資金集めにスポンサーに頼ると制約が出て来る。
 

頂上でカップヌードルの旗を持って写真を撮れとか、登山中の写真を広告に使わせろ、だから沢山撮って来い等々。。。
 

この遠征の誘いは嬉しかったが、それが気にかかった。

 

果たして生死に関わる状況でスポンサーに気を使えるのかと思った。
 

田口さんは仕事で秋にポカラに来ると言うので、帰りにニューデリーに来てもらい、参加の可否はその時にと答えた。
 

『ところで゛黒部の衆゛は知っているかい?』
 

『はい、記録だけですが…』
 

『どう思う?』
 

『とんでもなく玄人好みのする集団で、しっかりした登山哲学を感じます』
 

『ほう。登山哲学が分かるのか?君はいつから山をやっているんだ?』
 

『高校生の頃にワンゲルの友達に頼んで3月の屋久島を登ったのが最初で、あとは大学に入ってからです』
 

『何だって!?それでダウラギリ南壁を登ったのか?しかもトップを引いて?』
 

『いけませんか?』
 

『俺は34才だが、高校生からかれこれ20年やっているのにダウラギリのあの壁を登る自信はない』
 

『あの山はポーラメソッドではダメだと隊長が言ったんです。アルパインスタイルでやるって。登ってみてそう思います』
 

『雪崩や落石はどう回避したんだ?』
 

『その危険があるところは雪や氷が落ち着く、夜に登りました』
 

田口さんは目を丸くしていた。
 

『君は夜目がきくのか?』
 

『普通だと思います。ただヘッドランプには頼らずに登りました。そのうち目が慣れて。お月様が綺麗でした』
 

『とんでもない新人類が出てきたな』
 

『そうですか?自然に同化するだけです』
 

『どんな山登りが好きだ?』
 

『アルパインスタイル』
 

『目標は?』
 

『ですからアルパインスタイルです。゛より高く、より遠くへ、より未知へ、より困難へ゛です。付け加えると゛より良い仲間と゛です』
 

『どこの山?』
 

『アンナプルナ南壁、キリマンジャロ南壁冬季、ワスカラン東壁、パタゴニアセロトーレ東壁冬季、モンブラン東壁冬季、マッキンリー南西壁です。出来たらローチェシャール南西壁も。でも今の道具ではローツェシャールはアルパインスタイルは難しいと思います』
 

『ほとんど、未到じゃないか?』
 

『゛より未知へ゛ですから』
 

『なんで1年でそんな風な考えと目標が出来るんだ?その後はどうなるんだ?』
 

『それで止めますよ』
 

『えっ?』
 

『結婚したいんです』
 

『ええっ?』
 

『あっもう一つありました。ラウンド剣です』
 

『何だ?そりゃ?』
 

『冬季に後立山鹿島槍ヶ岳の蝶形岩壁から針木岳を経由して黒4ダムをスキーで渡って、黒部別山オオタテガビン中央壁から剣岳八つ峰登攀、小窓、大窓から十字峡経由奥鐘山奥壁、白馬岳経由下山ってやつです』
 

『バカか?そんな事出来る訳がない。夏でもその壁一つ一つで有名なクライマーが何十人も命を落としている。その壁一つを冬季に登る事すら難しいのに全部を一筆書きで繋げられるわけがない!それに冬のアプローチですら雪崩の危険があるのを知っているのか?その内の一つにすら近づけない冬もあるんだぞ。それをひと冬に全部をつなげるなんて冬季エベレストを登るよりも危険が多いぞ…』
 

『賭けますか?』
 

田口さんの顔は興奮して紅潮していた。
 

『何をだよ?』
 

『そうだなぁ。僕の結婚式で裸踊りでは?』
 

がっちりして、背が高い田口さんの裸踊りを想像して俺は苦笑した。
 

『そんな神様みたいな事が出来たら何でもやってやる』
 

『約束ですよ』とにやりと笑った。

『ああ、それから単独でやりたいです』
 

『お前はホントの馬鹿だ。俺も山屋だが、そんな事は無理だ。俺は絶対に止めるぞ。そんな事を黒部の衆に言ったらバカにされるぞ!』と言われながら日本山岳協会を後にした。
 

 

 

 

岸記念体育館から外に出ると7時を回っていた。

 

茂子との待ち合わせに遅れたと思い、原宿駅まで走った。
 

駅に着くと茂子の姿は無かった。
 

それから1時間くらい待っただろうか、茂子が来た。
 

 

 

 

今なら携帯電話があるので何処にいても連絡がつくが、あの時代はそんな物は無いのでそんな時に困った。

 

待ち合わせも駅の改札の右の『いい日旅立ち』のポスターの前という風に、より具体的だった。
 

また、時間が読めない場合は喫茶店で待ち合わせだった。
 

だからお互いが知らない場所での待ち合わせは特に不便だった。

 

駅があれば山手線のホームの1番新宿寄りとかという待ち合わせが多かった。
 

携帯電話の普及で便利になったが、あの頃の様な待ち人を想いながら、ジリジリと待つ風情が無くなった様に思う。

 

特に冬は寒さの中で待つのは辛かった。

 

そして待ち人が来た時の嬉しさも無くなった様に思う。
 

 

 

 

茂子は、遅れた訳を俺が聞く前にまくし立てた。
 

どうやら智子が妊娠したらしく仲間と相手の男を捜し回っていたとの事だった。
 

俺は来てくれただけで嬉しかったが。。。
 

『智子はおろすって言ってる』
 

『そうか。立教の彼は見つかったの?』
 

茂子は困惑した表情で
 

『うん、でも相手は違うみたいなのよ』
 

『えっ?』
 

俺は事情が飲み込めて、
 

『智子がどっちにも続ける気がないなら仕方ないよ』
 

と答えた。翌週、智子は手術を受けた。
 

 

 

 

原宿駅から表参道に向かい、表参道沿いにあるお洒落なお店で夕御飯だった。

 

ステージY2(ワイツー)という店名で、手前がカフェで奥がレストランだった。

 

アイスコーヒーを2つとムール貝のリゾットと残り2品頼んだが、2品は覚えていない。

 

それを頼んだ店員は緒方漣だった。

 

暫く前からこの店でバイトをしていた。
 

スペンサータイプのタキシードに、蝶ネクタイを着た緒方漣はスラッとして、いい男でカッコ良かった。

 

この店で緒方漣は3年間働いている間にアパレルや美容師、モデル等の可愛い女達とかなりの浮名を流した。

 

店で別れたくないと大声で喚いた女もいたらしい。

 

そのお陰で出勤停止になった事もあると聞いた。
 

丸いテーブルの間をトレイを持ちながらヒラヒラ歩き回る様は場慣れしたウェイターを思い起こさせたが、実際はバイトを始めて1ヶ月半だった。

 

何でも飲み込みが早くてスマートにこなせる奴だったが、秋田弁の訛りは相変わらずだった。
 

茂子は昨日で前期試験が終わって明日から帰省の予定だった。

 

俺は明後日から山岳部の夏合宿だった。

 

それが終わったらインドに戻る予定だった。
 

 

 

 

穂高山群での岩壁登攀は快適で日本の山を満喫した。

 

その時は部員が70名程いた。

 

そのうち留年生と大学院生が16名いた。

 

なんと13名が留年生だった。
 

更に13名中11名がヒマラヤもしくはヨーロッパアルプス経験者だった。
 

快適な夏合宿は、怪我人も無く無事に上高地に全員下山して終了した。
 

恒例の夏合宿打ち上げが上高地の横尾キャンプ場で開催された。山の中では1、2年生が炊事をする事が習わしだが、打ち上げは4年生以上の先輩達が全ての炊事をする事が伝統だった。

 

その晩はみんなお酒も入って遅くまで盛り上がっていた。
 

 

 

 

俺は主将の石川さんと風呂に行った。

 

3年生が主将をやる事になっていて、大学では秋からは就職の準備が始まる事になっていた。

 

石川さんは3年生で正月の冬合宿を最後に主将を退く事とになる。

 

物静かな人だが、山への情熱は人一倍持っていた。
 

『また行くのか?』
 

『はい、この合宿が終わったら行きます』
 

『部は物足りないだろう?』
 

『はい、でも帰る場所というか、暖かいというか、そんな感じです』
 

『お前の山は熱いからな』
 

『早くやりたいんです。あとは楽しみで続けたいと思ってます』
 

『彼女か?』
 

『はい』
 

『あの子も熱いよな』
 

『火山みたいな奴です。どこから噴火するかわかりません』
 

茂子は俺がヒマラヤに行っている間、早稲田に行っていろんな人と知り合いになっていた。

 

石川主将もその一人だった。
 

 

 

 

風呂は4人入ればいっぱいになるくらいの広さで、古い檜木風呂だった。

 

遅い時間だったので誰も入っていなかった。

 

石川さんと背中を流しあった。

 

ヒゲを剃り、頭を洗った。

 

1週間振りだった。
 

『主将やる気ないか?』と唐突に聞かれた。
 

『今はちょっと。。。』
 

『そうか。そうだよな』
 

 

 

 

次の朝、上高地からバスで新島々、そして電車で松本へと乗り継いだ。

 

松本で茂子の実家に電話するとお母さんが出た。

 

茂子は一昨日東京へ向かったとの事だった。

 

お母さんの誘いが強かったので上田に寄る事にした。

 

大きなザックを背負い上田へ向かった。
 

上田駅にお母さんが待っていた。

 

車で茂子の家に向かった。

 

着いたら12時を過ぎていた。

 

信州蕎麦と野沢菜を出してくれた。

 

 

食べ終わった頃に茂子から電話が来た。

 

智子の事で東京に戻ったと言った。

 

それから今日は上田に戻らない事も。
 

お母さんに電話を変わった。

 

暫く話したあとに、あんな子でごめんなさいと言った。
 

『良いんです。わかってますから』
 

『嫌いにならないでね』
 

『そんなところも最近好きになってきました』
 

『京王プラザに泊まったそうね』
 

あいつも智子に劣らずスピーカーだと思った。
 

『はい、良いホテルマンの方にお世話になりました』
 

『そうらしいわね』
 

『あの…、明後日からまたインドに行ってきます』
 

『聞いてますよ』
 

『済みません』
 

『すぐ謝るって言ってましたよ』
 

『そんな事まで…』
 

『はい、全部聞いてますよ。だから観念した方がいいですよ』
 

『どんな風にお父さんを観念させたんですか?』
 

『それはまだ内緒です』
 

 

 

東京に帰る事を伝えると
 

『あの子をよろしくお願いします』と言った。
 

『はい、必ず大切にします』
 

そう言って東京へ帰った。

 

 

 

 

上井草寮に帰ると茂子から伝言が待っていた。

 

茂子の寮に電話すると外出中との事だった。

 

電話を貰える様伝言を残した。
 

部屋で荷物をまとめながら来年の日本隊の遠征に参加するかどうか考えていた。

 

アルパインスタイルで全員登頂がベストだが、大きな遠征隊も経験した方が良いとも考えた。

 

だから参加しても良いかなと軽く思った。
 

荷物をまとめてボーッとしていたら茂子から電話が来た。
 

もう7時半になっていたが新宿ニコー前で待ち合わせる事にした。

 

ニコーは今のアルタである。