東京45年【6】インド | 東京45年

東京45年

好きな事、好きな人

【6】

 

 

 

1979年夏から秋、東京からインドの頃
 

 


新宿に着いて靖国通り沿いの喫茶店DUCKに行った。

 

ジャズが静かに流れて、レンガの壁に古いランプが掛かっていた。

 

薄暗い中で席に着いてコーヒーを2つ頼んだ。
 

茂子は智子の中絶と相手の事を話した。

 

俺は黙って聞いていた。

 

立教の彼氏、牛木が女癖が悪く、それを相談した彼氏の友達とそんな仲になったらしい。

 

その友達が牛木と殴り合いの喧嘩をしたらしい。

 

牛木は自分の女を取られたと怒り、その友達は智子を独りにしていたからそんな事を言う資格はない等々、身勝手な喧嘩だった。
 

 

 

だからと言って智子とどちらも付き合っていく気は無いらしく、茂子の火山が噴火したらしい。

 

茂子は両方の男と話をして、片方は池袋の喫茶店でビンタを、もう片方は池袋の東武デパートの入口でビンタを張ったとの事だった。


何とも身勝手なバカ男達の結論を捩曲げた喧嘩に油を注いだ茂子。
 

親友智子の為とは言いながらも俺の茂子を巻き込んだ智子と2人の男達を恨めしく思った。
 

『納め所は2人の男がちゃんと智子に詫びを入れる事だな』と俺は言った。
 

『そうだけど智子は立教の彼と別れたくないって』
 

『智子も自分勝手だな。元に戻るのは無理だし、そんな奴は止めとけって伝えてくれよ』と言うと
 

『私達はそうならないよね?』
 

『何言ってんだよ。あり得ないよ』
 

『つかさの山は私にとって浮気みたいに感じる事があるの。一緒にいたり日本にいる時は良いんだけど、つかさが向こうに行ってると届かないところって感じがするの』
 

またあの切なさが込み上げてきた。

 

立ち上がって喫茶店のテーブル越しにキスをした。茂子は泣いていた。

『夏休みまだあるんだから来いよ』

 

『インドに?』
 

『ああ』
 

『行っても良いの?』
 

『来て欲しいけど、汚いよ』
 

『行くっ!』
 

茂子のお母さんに聞いてみなければと思っていた。
 

 

 

 

翌日、ラグビー部の早朝ランニングの後、茂子の実家に電話をした。

 

お母さんがすぐに出た。
 

『明日からインドですね』
 

『実は茂子さんを夏休みの間、連れて行こうかと思って…』
 

『聞いたわよ。羨ましいわ』
 

『良いんですか?』
 

『インドに行って山を諦めさせるって昨日夜に電話があったのよ。でも止めちゃダメよ』
 

山に関しては茂子も俺のお袋も敵だが、ボーボワール女史だけは味方だった。
 

『ありがとうございます。夏休み中には帰しますから』
 

『よろしくね』
 

『では行って来ます。次は春に帰ってきます』

 

 

 

インドに帰ったのは8月初旬で雨期の最中で気温も高く不快指数100%と言った感じだったが、街は相変わらず活気に溢れていた。

 

着いたその日に安い成田デリー間のオープンチケットを茂子の寮にエアーメールで送った。
 

着いた翌日から木材を集めて木工仕事に取り掛かった。

 

トイレの囲いと登山用具の棚を作る為だった。

 

茂子が来るのは早くても15日過ぎだと思っていたから雨が降る日は山の本を読み、晴れた日に大工仕事をする事にした。

 

“晴耕雨読”ならぬ“晴工雨読”だった。
 

 

 

 

晴れた暑い日に露店商のおかみさんに手伝って貰いながら表で大工仕事をしていると茂子の声が聞こえた。
 

遠くで俺を見つけた茂子は何かを叫んでいた。

 

ジーパンにTシャツ、スニーカー、小さなザックを背負っていた。

 

雨上がりの泥道に足を取られながら走って来て、上半身裸で汗だくだった俺に茂子は飛び付いた。
 

びっくりした。
 

嬉しかった。
 

 

 

『たどり着くか心配だった』と言った。
 

『連絡してくれたらデリー空港まで迎えに行ったのに』と返した。
 

『だって、つかさは1人で来たんでしょ?その気分を味わいたかったの』と言った。
 

相変わらず可愛い女だった。
 

インドが初めての海外旅行なのに良く探し当てられたものだった。

 

さらに強くなったと思った。

 

そのうちボーボワール女史を追い抜く勢いを感じた。
 


しかし、まだトイレの囲いは出来ていなかった。
 

 

 


その日は、露店商の親父の家で晩飯を御馳走になった。

 

茂子は言葉が通じないので訳がわからないはずなのにおかみさんを手伝って料理を作った。

 

さすが家政学部というべきか、適当に作った料理はうまかった。
 

茂子は素手で食べなからまくし立てた。

 

俺と出会ってからこれまでの事を日本語の通じない人達に英語を交えながらも、ほとんど日本語で話していた。
 

 

 

 

その日、家に帰ってから木を積み重ねただけのベッドで月明かりの中で愛し合った。

 

ベッドはギシギシ、ガタガタと鳴った。

 

あの下北沢の安アバートに射していた月明かりよりも明るく青く二人を照らしていた。

 

 

アバートの床よりも大きな音がしていた。
 

 

 

 

『軋むベッドの上で優しさを持ち寄り。。。♪』あんな風に悲しさを含んだSEXでは無かった。

 

楽しく明るく今もこれからも愛情の未来を感じる様なSEXだった。
 

インドの暮らしは陽が昇ると起き、陽が沈むと寝る生活だった。
 

翌日は茂子に手伝って貰いながらベッドと棚を作った。

 

京王プラザくらいのベッドが良いと茂子が言うので大きなベッドを作った。

 

板の上に細い木の枝を敷き、その上に干し草を沢山乗せて、その上に古いヤクの毛織物を3枚重ねて、さらにサテンのシーツを2枚重ねて作った。

 

フカフカのベッドが出来上がったが、やはり抱き合っているとギシギシと鳴った。

 

 

だがガタガタとは鳴らなくなっていた。
 

 

 

 

翌日も家の事に掛かりっきりだった。

 

山の道具を棚に並べたり、シャワーを作ったりと大忙しだった。

 

夕暮れ時に夕食を済ませて出来立てのベッドで愛し合った。
 

さらにその翌日から二人で遠出をしてインドの素晴らしい遺跡を見たりして過ごした。
 

ニューデリーから南に200Kmほどにあるタージマハルにも行った。

 

15世紀に当時の王朝がベルシャ、アラブ、ヨーロッパから2万人の職人を呼び、20年以上かけて作られた世界的なイスラム建築であり、総大理石作りのまばゆいばかりの真っ白なお墓である。
 

 

 

一通り見て歩いた後、露店商が売る簡単な食べ物と飲み物を買って、往時の栄華を誇る遺跡の横にある人気のない森に通じる細い道の道端に腰を降ろして食べた。

 

食べ物の味は俺達には合わなかったが、とにかくしあわせでいっぱいだった。
 

『静かだね』
 

『ああ』
 

『インドに来てよかったわ』
 

『そうだろう!』
 

『ねぇキスして!』
 

何度もキスをした。
 

でもそれだけでは済まなかった。
 

初めての青空の下でのセックスだった。

 

汗だくになりながらお互いがお互いを貪る様に求めあった。
 

いろんな場所でセックスをしたが、外で誘うのはいつも茂子だった様に思う。

 

それを茂子に何度か聞いた事がある。
 

その答えは、『何処でも何時でも、して欲しいから』とか、『つかさが出来るかどうか試したいの』と答えた。
 

茂子がインドに来て2週間はそんな風に暮らした。
 

 

 

 

茂子が来る前からポツポツと山の道具を買う為にお客が来ていた。

 

ヒマラヤは夏の間、モンスーンと呼ばれる季節風が吹き雨期と重なって高所では時速200Kmの強風が吹き、吹雪となる。

 

その半年後の2月の厳冬期はジェットストリームと呼ばれる季節風が吹く。

 

この時期はとても登る時期ではない。

 

だからヒマラヤが登り易い時期は春と秋となる。

 

その時期に備えて、夏と冬は下界では登る準備が活発になる時期である。

 

 

 


茂子と二人でいろんな国のお客さんを相手に山の道具を売りさばいた。

 

全て中古品だったが、飛ぶ様に売れた。

 

いろんな国のお札が沢山になった。
 

その当時の道具はヨーロッパ製、特にフランス、ドイツ、イギリス製が一流品だった。


それを半分以下の値段で売ったので飛ぶ様に売れるのは当たり前だった。

 

さらに買う方にしてみれば、本国からの輸送費がかからず、煩わしい税関手続きが無くなるので文句なしだった。

 

要するに、お客は時間とお金の節約になる。

 

大きな遠征隊は10トンに及ぶ荷物を持ち込む。

 

それに対するインド税関はルーズでおおよそ1週間~2週間かかるのが常だった。
 

 

 

 

この売上を元手にして商売が始まった。

 

日本とヨーロッパから中古品を輸入したり、ヒマラヤ帰りの隊から買い上げたりして売りさばいた。

 

少しは新品をヨーロッパから手配した。

 

またザイルやテント、ヤッケ等は消耗品扱いで売り切りにして、金属製のアイゼン、ピッケル、バイル等は買い戻しの条件付きで高く売った。

 

 

 

 

また秋からは日本、ヨーロッパ、アメリカ、カナダ等の山岳雑誌にコマーシャルを出した。

 

その成果は翌冬に大きな反響を呼んだらしい。

 

『らしい』というのは、その後親父のおかみさんがずっと店番をしていて、俺はほとんどインドに長くいる時間が無かったからだ。
 

登山のオンシーズンには商品はほとんど動かなかったが、年間5ヶ月間の実働で十分な売上があった。

 

 

 

 

オフシーズンは仕入や商品の手入れ、コマーシャルをしていればよかった。

 

半年働いて、半年やりたい事をやる。

 

そんな感じだった。
 

茂子はよく働いた。

 

長い髪を輪ゴムで縛り上げ、タンクトップかTシャツに半ズボンにゾウリといった恰好でお客に愛想を振り撒いた。

 

言葉は通じないのに日本語で叫んでいた。

 

不思議な事に通じていた。

 

指には俺が手作りでプレゼントした50セント銀貨のシルバーリングをしていた。
 

朝4時に起きて夜8時にはベッドに入る生活リズムだった。

 

夜は広いベッドで抱き合って寝た。

 

暑かったが、また離れ離れになる事がわかっていたので少しでも長く触れ合っていたかった。

 

暑いのでほとんど全裸で寝ていた。

 

朝は起きるとガンジスのほとりとか、近くの畦道を散歩したりした。

 

雨の日も散歩した。

 

そして日本へ葉書を書いた。

 

茂子は主にお母さんに書いた。

 

インドでの暮らしや毎日の出来事を事細かに書いていた。

 

お客は早ければ朝8時から夕方5時まで引っ切り無しに来た。

 

とにかくよく働いた。
 

9月になると潮がひく様にお客が来なくなった。
 

でも、1ヶ月間で売上は3千万円強になった。

 

そのうち外国の紙幣で100万円位を茂子に、15万円をおかみさんに断って親父に渡した。

 

おかみさんに渡さなかったのは親父の気分を害さない為だった。
 

残りの2千万円で商品の仕入に回して残り1000万円は登山費用と学費に充てた。
 

 

 

 

そして茂子との1ヶ月間はあっという間に過ぎた。

 

茂子はこのままここに居られたらなぁと言いながら引かれたばかりの電話でお母さんに電話した。

 

明後日帰る事やお土産の事を話して、俺に代わった。

 

お母さんは離れても大丈夫かと聞いた。

 

どうやら茂子より俺の方が心配らしい。

 

『寂しくて我慢出来なくなったら日本に帰ります』と言った。

 

これは本気だった。

 

お母さんにそれが伝わったのか待ってますよと言った。

 

9月の半ばになっていたが、まだまだ気温は高かった。

 

デリー空港まで茂子を見送った。

 

茂子はまた来るわと言いながら泣いていた。

 

空港の雑踏の中で長い時間抱き合いながら二人共泣いた。

 

 

 

 

二人の19才の夏が過ぎた。

 

 

未だにトイレの囲いは無かった。
 

 

 

トイレの囲いは無かったが、あの数週間の日々は目映いばかりの青春だった。

 

毎日茂子と笑い合い、愛し合い、生活をし合い、お互いを確かめ合った日々だった。
 

お互いの若い情熱を限りに慈しみ合った日々だった。
 

 

 

 

茂子が帰ってから日本から中古品の登山道具が届いた。

 

大学の山岳部に協力をしてもらい日本、ヨーロッパ、アメリカの登山雑誌に広告を出した。

 

田口さんにも協力して貰おうと思ったが、今はネパールにいた。

 

仕方がないのであまり期待せずに日本山岳協会に連絡するとヨーロッパにいる登山家を紹介して貰い、片っ端から連絡を取った。

 

その2週間後から少しずつ登山道具が届き始めた。

 

次に露店商の親父に頼んで、カトマンズとポカラ、ニューデリー、デリーに広告を出した。

 

電柱や壁に貼紙をして貰った。

 

下山してきた登山隊から道具を買い集める為だった。

 

 

 

それから暇な日が続きそうだったので2週間くらいかけてインドヒマラヤの6000m級の小さな山にトレーニングに行った。
 

帰ると登山道具が届いて、おかみさんが忙しくしていた。

 

そして何日後かに田口さんが日本人を連れて家に来た。

 

それが竹中さんとの出会いだった。

ボロボロのジャージにTシャツ、薄汚れたスニーカーといった出で立ちで、細面でマラソン選手の様に細い体をしていた。

 

静かな、だが情熱を奥深くに秘めた目をしていた。

 

マラソン選手のアベベの様だった。

 

田口さんに来年の日本隊の参加をお願いした。

 

また、登山費用稼ぎに協力して貰う事を約束した。

 

竹中さんとは11月からヨーロッパアルプスを登る事を約束して二人を見送った。

 

 

 

 

10月中旬になると、登山道具が届き来年の春分の商品が揃った。

 

それぞれに商札を付け終わった11月に俺はヨーロッパアルプスへ向かった。