東京45年【4】 | 東京45年

東京45年

好きな事、好きな人

【4】

 

 

 

1979年夏上田、東京の頃
 


上田に着いたのは8時を過ぎていた。

 

駅には茂子のお父さんとお母さんが迎えに来てくれた。
 

『はじめまして。島谷です』
 

『良く来てくれました。茂子の父です』
 

『遠いのに会いに来てくれてありがとう。母です』
 

ニコニコしながら迎えてくれた。
 

 

 

茂子の家は駅から車で5分程のところだった。

 

真田幸村が城主だった上田城跡の近くに家があった。
 

家に着くと茂子のお祖母さんと高校生の弟が出迎えてくれた。
 

家に入ると御飯がすぐに始まった。

 

俺達を待っていてくれたのだろう。
 

父親は自宅の敷地内に工場を構えていて15人の従業員を抱える社長さんだった。

 

日本酒をちびりちびりやりながら茂子の幼い頃の話をしてくれた。
 

俺は父親を3才の頃に亡くし、中学校教師だった母親に年子の姉と育てられた事や登山が原因で勘当された事、インドのトイレの話、仕舞いには茂子をナンパした事まで話した。

 

さすがにナンパの話はまずかった様で両親の顔色が変わった。
 

俺は同棲した事を詫びた。そして茂子の両親に責任を持って茂子を大切する事を伝えた。
 

 

すると、
 

『まだ、若すぎるからな。。。』と父親が言うと横から茂子が言った。
 

『若いから何よ!ちゃんとつかさは気持ちを言っているじゃない。お父さんはつかさみたいにお母さんの両親に挨拶出来たの?駆け落ちじゃない!』
 

茂子の父親は良家の娘をかっさらっていた。

 

その後茂子が生まれてから和解が出来たらしいが。
 

父親はバツが悪そうにしていた。

 

母親が、
『茂子、私はかっさらわれた訳じゃないのよ。尻に敷きたかったのよ』
 

この一言で場が和んだ。
 

茂子にしてこの母親ありと、またボーボワール女史を思い出した。
 

それから俺は呑めない酒を父親のお酌で少しだけ呑んだ。

 

まだ二人は19だったが、そう言えば茂子と一度もお酒を呑んだ事が無かった。
 

 

 

その後、お風呂を戴き、寝る段になったら父親と母親で一悶着あった。

 

原因は茂子と俺が一緒に寝るかどうかだった。

 

初めて彼女の家に来て泊まる俺も俺だが、両親が居るのに彼氏と寝ると言う茂子も茂子だった。

 

母親は久しぶりに会ったんだから良いじゃないと言い、父親はこの家の中では許さないと言った。

 

『私はどっちにしろ皆が寝たら、つかさのところに行くから』

 

みんな唖然としながらそれぞれの部屋に行った。

 

 

 

俺は母親に連れられて六畳間に入った。
 

既に布団が敷いてあり、糊の効いた白いシーツが目を引いた。
 

『今日はありがとうございました。それから申し訳ありません』と母親に言うと、
 

『こちらこそありがとうございます。茂子はこんな人を選ぶんだろうなと思っていたのよ』とボーボワール女史が言った。
 

それから母親と20分程に渡って茂子の話をした。
 

俺がどうしたいか、何故そうしたいか、将来は茂子と結婚したい事まで伝えた。母親は納得した顔を見せながら、
 

『あの子の気性には注意してね』
 

 

 

その時、パジャマ姿の茂子が部屋にやって来た。
 

『あらっ、お母さん』
 

『お母さんはもう出て行くわね』
 

『島谷君、内緒よ!』


大胆な母親と娘だと痛感した。

 

それ以降、俺は茂子の母親が好きになり、頭が上がらなくなった。

 

またいい家庭を作り、いい子を育てた両親に感謝だった。
 

それから茂子と明け方まで起きていた。

 

何度も愛し合った。

 

クリスマス以来だねと茂子が言ったが、自慰行為をする時はいつも茂子を思い出していたのでそんな気はしなかった。

 

それを茂子にいうと私もそうと言った。

 

どこまでも天真爛漫なヤツだと思った。

 

それからお互いの家族や親戚の話、信州の話をした。
 

 

 

 

朝起きたのは9時を回っていた。

 

茂子はいなかった。

 

時差ボケも手伝ってお昼前までボーとしていた。

 

数回のセックスと時差ボケ、長旅、緊張が重なっていた。
 

 

 

昼過ぎに茂子と二人で東京への帰路に着いた。

 

平日だった事もあり弟はいなかったが、家族3人に見送って貰った。
 

お母さんとまた来る事を約束した。
 

東京に帰ると下北沢に行った。オープンしたてのトロワシャンブルという喫茶店に入り、緒方漣とその彼女、智子とその彼氏を待った。

 

緒方漣指定の喫茶店だった。

 

雰囲気のいい喫茶店でジャズが流れていた。

 

40年以上経った今も健在の喫茶店である。
 

最近も行ったが、内装も変わりなく繁盛していた。

 

東京に来た頃から未だにある店はここだけだ。

 

 

 

 

金曜日の遅い午後だったが、客は疎らだった。

 

その夜は遅くまで6人で騒いで、結局6人で緒方漣アパートに転がり込んだ。

 

アパートは京王線のつつじヶ丘駅から10分のところだった。

 

アパートの名前は“アゼリア荘”だった。

 

 

 

当時の男子学生では珍しく、お風呂に水洗トイレが付いていた。

 

台所は俺が住んでいた下北沢のアパートより広かった。
 

緒方漣が最近覚えたトランプのゲームをしたり、バックギャモンをしたり。。。
 

突然、智子と立教1年生の彼氏との喧嘩もあった。
 

彼氏の名前は忘れたが、確か親父さんが公務員で岐阜出身だった。

 

智子は静岡で、緒方漣の彼女は御茶ノ水女子大か津田塾の4年生で新潟か富山の出身だった。

 

江戸っ子は一人もいなかった。
 

緒方漣が彼女と知り合ったのは歌舞伎町のコマ劇場向かいにあったカンタベリーハウスビバ館というディスコだった。

 

少し大人の女性を感じる人だった。

 

後で知った事だが、どうやら二股掛けられていたらしい。
 

 

 

 

翌日は昼前に日本山岳協会に茂子と二人で行った。

 

原宿の岸記念体育館内にあった。
 

訪ねた訳を話すと事務のおばさんが中へ通してくれた。

程なくして30代のがっちりした背の高い男の人が出てきた。

 

茂子の電話を何度か受けた人だった。
 

俺に次は何処に行くのかを尋ねてきた。

 

茂子の手前言えなくてまだ考えていないと答えたが、既に青写真は出来ていた。
 

 

 

 

その後、原宿を散歩した。

 

二回目に茂子と会ったのは原宿だった。

 

まだ1年2ヶ月前なのに懐かしい想いがした。

 

時間の長さではなく想いの重さと深さがあった。
 

それから新宿に戻り、靖国通り沿いのサンペイストアーで買物をした。

 

茂子はパンティーとブラジャー、ストッキング、煎餅を、俺はTシャツとパンツを買った。

 

近くの桂花ラーメンをすすり、そして西口まで歩き、二人で京王プラザホテルに泊まった。

 

 

 

 

二人とも初めてのホテルだった。
 

幸せだった。

 

こんなに贅沢なデートをするのは初めてだった。

 

それ以上にこんなにゆっくり長い時間一緒にいられる事が夢の様だった。

 

同棲していた頃はバイトに明け暮れて、夜勤のバイトで帰らない事もあったが、何より気持ちに余裕が無かった。
 

 

 

 

ホテルのチェックインはスムーズとは言えなかった。

 

茂子は嘘の住所を書き年齢をごまかしたが、俺が正直に書いた事がいけなかった。

 

当時は青少年にまつわる条令はそれ程うるさくなかったが、京王プラザホテルは格式を重んじていたのでダメはダメと言われた。

 

正直に事情を説明してもダメだった。

 

すると茂子が、
 

『こんな時間から未成年を放り出す様なホテルなのですか?それに若い二人が想い出として残る様にと選んだホテルなのにそれをこのホテルは台なしにするのですか?』と開き直った。
 

相手も若いホテルマンだったが、横にいた初老のホテルマンが黙って手続をしてくれた。
 

そして、
 

『私も戦後すぐの頃の良い想い出があるのですよ』と言ってルームキーをくれた。

 

 

 

二人で御礼を言い、部屋へのエレベーターに乗った。
 

茂子にカッカするなよと言いながら笑った。

 

部屋に入ると明らかに予約した部屋とは違う豪華で広い部屋だった。

 

間違えたのかしらと言いながら茂子はすぐにフロントに電話をした。
 

『ホントですか?ありがとうございます。』と言って電話を切った。
 

初老のホテルマンは客室係りのマネージャーでさっきの非礼のお詫びにと良い部屋を安い料金でとの事だった。

 

そしてホテルからのプレゼントに若い二人へとレイトチェックアウトまで付けてくれた。
 

 

 

 

二人共そのホスピタリティーに感激したが、俺はフロントでの茂子のボーボワール二世に畏怖を感じた。
 

『女って強くなっていく生き物だよな』
 

『何が言いたいのよ?』
 

『最初はか弱い方がちょうど良いのかなぁと思って…』
 

『何よ、それ!まるで私が将来化け物になるみたいじゃない?』
 

『いや、そうじゃなくて…』
 

『何よ』と言いながら茂子は枕を投げた。

 

そして笑っていた。

 

可愛いかった。

 

茂子は言わなくても理解していた。
 

否定したが、茂子が言った事はズバリだった。
 

茂子の父親と同じ様に、こいつが俺のかみさんになるなら尻にひかれても良いと思った。
 

でも今はまだ山があるから無条件降伏は出来ないと言った。
 

『そのうちさせてやる』と返された。
 

 

 

 

たわいもない会話に愛おしさがつのった。

 

それを感じた茂子は俺に抱き着いた。

 

茂子はそんな女だった。

 

感受性が豊かで母性本能に恵まれた本当に優しい女だった。

 

多分、俺の気持ちが薄れるとすぐに感じ取るだろう。

 

でも、俺はそんな茂子が大好きで愛おしかった。

 

茂子はその夜ベッドの上で乱れた。
 

 

 

行為が終わってから、
 

『このベッドって下北沢のアパートより広いよね』
 

『確かに』
 

『懐かしいね』
 

『うん』
 

同じ物を見て同じ事を感じる二人になっていた。
 

 

 


何故、成田空港に見送りに来たのか聞いてみた。
 

『終わらせたくなかったから』
 

同じ事を感じる二人になっていたのはもっと前からだった。
 

 

さらに過去に戻り、何故クリスマスの翌日出て行ったのかを聞いてみた。
 

『つかさは私をダメにすると言ったけど、つかさがダメになると思ったの』

 

その通りだった。
 

 

何故、いきなり越して来たのかを聞いた。

 

『伝言を貰う前から会いたいと思ってたの』

 

俺もそうだった。
 

 

『代々木公園では?』
 

『これで終わりかもって思った』

 

同じだった。
 

 

 

どうしてだろう?同じ感情が持てるのは?
 

これを聞いたらなんて答えるんだろう?
不思議だった。

 

怖いと思った。
 

『エスパーみたい』と茂子は言った。
 

『ホントだよ』
 

『怖い』
 

『ホントだよ』
 

 

 

 

運命を感じていた。

 

きっと茂子もそう思っているだろう。

 

それだけではなく波長が合わなくなる事を恐れていた。

 

それ以上の質問はしなかった。
 

 

 

 

『明日はどうする?』
 

『ゆっくりしたい』
 

『わかった』
 

 

チェックアウトの時にあの初老のホテルマンを探したがいなかった。

 

お礼を言いたかったが、仕方がないのでその場で二人別々に手紙を書いた。

 

多分、同じ内容だろうと思った。
 

 

 

 

ホテルを出て、茂子は買物があると言って京王デパートに入って行った。

 

俺は部室に寄って荷物を取ってから上井草の寮に向かった。

 

また今日から暫くモグリの生活だった。
 

寮に着くと寮生や寮母さん達が迎えてくれた。

 

これではモグリじゃないやと思いながらラグビー部の先輩達に挨拶して回った。

 

ヒマラヤ登山の成功が有名にしてくれたんだと思った。

 

その時はやりたい事をやっただけなのにと思っていた。

 

寮母さん達がわざわざ荷物置場にしていた部屋を片付けて空けてくれていた。

 

しかも他の部屋は二人部屋なのに俺だけ一人部屋だった。

 

無銭宿泊なのに高待遇だった。
 

 

 

 

その夜インドの親父に葉書を書いた。

 

長男が英語を話せたので辞書を引きながら英語で書いた。
 

翌日は入学した去年の4月以来初授業に出席した。

 

もうすぐ7月で前期試験が迫っていた。

 

 

 

大久保キャンパスは理工学部で男だらけだった。

 

キャンパスを歩いていると知らない学生や先生から声をかけられた。
 

『おめでとう』
 

『お帰り』
 

『山って楽しい?』
 

『インドに住むんだって?』
 

なんだこれはと思った。
 

 

 

見ると学生掲示板に学部新聞やら学内新聞に写真入りでヒマラヤ登頂の記事が載っていた。

 

メンバー全員の顔写真と俺以外のコメントも載っていた。
 

記事を読むと俺が上井草寮にいる事まで書いてあった。

 

寮母さんのインタビューがそれを伝えていた。

 

早稲田大学山岳部でヒマラヤの壁を初登攀したのは今回が初めてだったらしい事も書いてあった。
 

 

緒方漣が寄ってきて、
 

『お前、有名人だろ?』と来た。
 

『寮を追い出されないかな?』
 

『追い出されたら早稲田は別の寮もあるだろ』
 

『それもそうだな』
 

いつも緒方漣は俺を勇気付けてくれた。
 

 

 

その新聞の横には前期試験の日程が張り出されていた。
 

『取り敢えず、試験だな』

 

『俺、何取ってるんだっけ?』
 

俺の受講科目の選択は全て緒方漣に任せてあった。

 

4月初旬に履修科目を提出しなければならなかったが、俺は帰国出来ないとわかっていたから手続き全部をお願いしていた。

 

試験の日程を紙切れに書き取った。

 

俺は既に1年留年の身だった。

 

だから去年と同じ必修科目と時間割りがいっぱいになる程受講する事になっている。
 

『名前書けば通るやつは無いのかよ?』
 

『あれしかないよ』
 

『勉強するしかないなぁ』久しぶりに目一杯授業を受けた。試験は2週間後からだった。