東京45年【3】インド | 東京45年

東京45年

好きな事、好きな人

【3】

 

1979年 初夏から夏の頃
 

 

インドの首都ニューデリーは多くの官庁と大企業があるインド最大の街である。

 

街は生命力に溢れ道には人と動物が同居していた。
 

バイトして貯めた蓄えがあったので先輩達を見送りニューデリーに留まる事にした。
 

茂子に葉書を書いた。エアメールは高いので葉書にした。

 

多分2週間後には着くだろう。
 

無事山に登れた事と変わらずに愛している事を書いた。
 

 

 

数日間1泊500円のキチン宿に泊まった。

 

布団はなくヤクの毛で編まれた毛布が一枚あるだけだった。

 

被るとケモノ臭と人の汗臭さが鼻をついた。
 

 

 

昼間はやる事もなく暇にあかせては街を歩き回った。

 

夜は緒方漣や茂子、山岳部の先輩や友達に葉書を書いた。

 

 

 

ある日、コップが欲しくて街で露店商の親父に声をかけた。

 

言葉は通じないが、人の良さそうな親父だった。


ピサの斜塔の様に傾いた陶器のコップしかなかった。

 

 

 

真っ直ぐな物が欲しいと手振り身振りで伝えたら、それを理解した様だったが、足下からボコボコのヤカンを取り出してピサの斜塔に水を注いだ。

 

どうやらこのコップでも水はこぼれないと伝えたかったらしい。

 

苦笑いしながら仕方なくそれを買った。

 

日本円で10円だった。
 

 

 

それから毎日街をぶらついてると毎日その親父と会い、挨拶を交わすうちに仲良くなった。

 

ある日家に招待されて晩ご飯をご馳走になった。

 

奥さん1人と子供が4人とおばあさんが2人いた。
 

 

 

インドは1948年にイギリスの統治から外れて独立国家になった。

 

1950年に法律が制定された。

 

それはカースト制度を否定する法律だったが、その法律の中にさえカースト制度の名残がたくさん残っている事を教えられた。

 

元々、職業は親の仕事を継ぐ事になっていて、職業選択の自由はなかった。

 

だから、親が道端で生まれたら子供も道端で死ぬしかなかった。

 

特にカースト制度の下層階級の人達は最悪だった。

 

人として扱われずに、道で生まれて道で死んでいく。

 

誰もその遺体を片付けない。

 

骨が風化して埃になっていくだけだった。

 

法律制定後も親が行商人であれば子供も行商人をするしかなかった。

 

 

 

但し、法律制定時の1950年以降に出来た新しい仕事には誰でもが自由に就ける事となっていた。

 

インターネットの起りは元々米国防省ペンタゴンに導入された軍事用世界通信回線であった。

 

これにより米国の通信回線にアクセスする権利を持った人々は世界の何処にいても世界の出来事を知る事が出来た。

 

それを開発した人々はアメリカ系インド人でカースト制度の下層階級の人々であった。
 

つまり、1950年以前にコンピューターは無く、プログラマーもいなかった。

 

この仕事自身が無かったのだ。

 

だからこの仕事が出来ると下層階級の人々はこぞって職にありついた事になる。
 

 

 

日本にあった士農工商も第2次世界大戦後のGHQが行った財閥解体により爵位が撤廃された事で名残さえも無くなった。

 

但し、士農工商制度以外の部落民問題は今も残っている。
 

 

 

食事は鶏肉をメインにしたカレーもどきだった。

 

聞くと何処の家にも香辛料を大きな壺に入れて煮物や炒め物、揚げ物。。。何にでも使っている。

 

つまり日本の醤油と同じような物だ。

 

これをインドではマサラと呼んでいる。

 

但し、壺の中の香辛料は各家庭によって調合が違う。

 

だから家庭毎に味が違う事になる。

 

また、インドにはカレーと言う言葉が無い事も知った。

 

統治時代の18世紀にイギリス人が香辛料を持ち帰り、カリーとして発売したのが始まりと言われている。

 

今は国民食となったカレーは日本にイギリス経由で明治時代に伝わったものである。
 

 

 

その晩親父がどこに住んでいるのかと聞かれて、木賃宿と伝えたところ、『良いところがある』と言い、勝手に住家の手配をしてくれた。

 

見もせずに値段だけ聞いて借りたのは80坪の木造と土造がごっちゃになった平屋だった。

 

これが最初は月6000円だった。

 

その後、5000円になり3年後には3500円になった。

 

どうやらニューデリー近辺の北インドでは長く借りると安くなっていくらしいと気づいたのは随分後になってからだった。

 

 

 

翌日、親父に連れられて引越しをした。

 

母なる大河ガンジス川の近くだった。
 

家は80坪ワンフロアーだった。

 

 

トイレは部屋の隅にあったが、変な水洗だった。

 

木の床にお尻より小さな丸い穴が開いている。

 

下を覗くと玄武岩らしく黒光りをしていた。

 

岩が斜めになっていて家の裏に流れている農業用水の水路に落ちていた。

 

トイレの横に大きなドラム缶があって、そこからホースが床に入っていた。

 

ホースには洗濯バサミの様なものが付いていて摘むと水が出た。
 

 

仕組みはわかったが、最初は立ちしょんべんをすると決まってはみ出して床を濡らした。

 

ある時、近所の男の子が勝手に入って来て、パンツを膝まで下ろして床にお尻を着けて、おちんちんを穴に向けて、シャーとやった。

 

持つべきは先達の知恵だと思った。

 

ウンコはお尻を穴にポコっと嵌めればよかった。
 

 

 

持ち金は残り30万円あった。

 

当時のインドの生活水準は中流家庭の5人家族で15000円位だった。

 

一日の生活費が100~150円だったから贅沢をしなければ2年と少し暮らせる事になる。

 

肉体労働のアルバイトの日当は200円か250円だった。

 

日本では8000円も貰えたのに。
 

 

 

働かないといけないと思いながら住家を整備したり、次の登山の計画を立てながら歩き回っていると1ヶ月半が過ぎた。

 

6月半ばの暑い盛りになっていた。
 

 

 

ある日、日本人が来た。

 

聞くと早稲田山岳部OBとの事。

 

名前を聞くと有名な方だった。

 

それから数ヶ月後に俺の生涯のザイルパートナーを紹介してくれる事になる人との出会いだった。
 

 

 

『一人で偉いねぇ~』
 

『いいえ、やりたい事ですから』
 

『ところで山の道具を預かってくれないか?』
 

『いいですけど、ここに居るのはお金の問題で2年までですが良いですか?』
 

『秋に来るから』
 

そう言ってその時、預かり賃として10万円を置いて行った。

 

これで3年いられると思った。

 

とんでもない臨時収入だった。
 

 

その荷物は50人規模の登山隊の量だった。

 

80坪の家がいきなり40坪の広さになった。

 

その次の週も日本人が来た。

 

またその次の週も。その次も…
 

お陰で10年はいられるだけの資金が集まったが、空いているスペースはトイレと寝床1畳とシャワーだけとなった。

 

 

 

そして、フランス人が来て片言の英語で道具を譲ってくれと言う。

 

預かってるだけだからダメだと言ってもフランス語でまくし立てられて埒外が空かない。

 

仕方がなく預かった人達に電話をする為に30分かけて街まで行った。

 

日本に電話をすると、どの人達もインドとパキスタンとの情勢不安から行けなくなったから上げて良いよと言う。

 

そう言えば街中は軍隊らしき人達が増えたと数週間前から感じていた。
 

フランス人を待たせたままだったので急いで家に帰った。
 

『選んで持って行きなよ』
 

『契約書を書け!』
 

『金は要らないよ』
 

『でも書け!』

 

 

 

俺はフランス人が嫌いになったのはこの時からだ。
 

坊主憎けりゃ袈裟まで憎いだ。

 

未だにフランス料理、フランスワイン、クロワッサンに至るまで口にしない事にしている。
 

『1週間くれ』
 

『3日にしろ』
 

その日のうちに街まで出かけて英仏辞書を買って来て、徹夜で契約書を手書きで書いた。

 

3日後に手渡すと30分後には赤ペンで添削されて戻ってきた。

 

もうどうでもいいやと思いながら真っ赤な契約書にサインしたら、500万円くれた。

 

意味のわからない契約書にサインしてお金を貰ったのはそれが最初で最後だ。
 

預かった登山装備の20%が一気に無くなった。

 

という事は残り全部売れば2000万円になる。

 

アルバイト探しどころではなくなった。
 

取り敢えず、その集落に無い電話を引いて貰う為、役職に交渉。

 

工事費5万円。

 

OK!
 

 

次に今回の遠征費用を借りた先輩達と友達への返済40万円。

 

OK!
 

次に日本に帰る為のチケットの手配10万円。

 

OK!
 

その次に払っていない学費1年分80万円。

 

OK!
 

最後に茂子への誕生日プレゼント、シルクのサリー2000円。

 

OK!
 

 

あの露店商の親父ガングリさんに2万円渡して奥さんに店番をお願いした。
 

残ったお金450万円のうち50万円を取って400万円を親父に預かって貰った。

 

そして日本へ。
 

 

 

 

日本に着いたのは6月22日になっていた。

 

日本を出てから5ヶ月が経っていた。

 

真っ直ぐに茂子が通うポン女に向かった。

 

お昼過ぎに茂子と初めて会った正門を通って学内に入ろうとしたら慌てた風の守衛さんに呼び止められた。

 

聞くと女子大だから許可が無いと入ってはいけないと言う。

 

 

 

俺はただでさえ男なのによれよれのジャージ、Tシャツ、インドで履き古したスリッパに登山用の大きなザック、おまけに髪は伸び放題で輪ゴムで後ろ手に縛りつけて髭は1ヶ月位剃っていないといった出で立ちだったから無理もないと気付いた。

 

そう言えば成田からの電車は妙に俺の回りは空いていた。

 

ザックから学生証を出して事情を説明したが、信用してくれない。

 

呼び出してとお願いしてもダメ。

 

 

 

仕方がないので正門前で山でやる様にザックの上に腰を下ろして待つ事にした。

 

すると守衛が学生課に相談したらしく事務長が駆け付けて来た。

 

もう一度同じ説明をした。

 

すると早稲田の山岳部に電話をして、やっと信用してくれた。

 

 

だがあまりに汚らしいので中には入れてくれなかった。

 

その代わりに茂子を呼び出して貰える事になった。

 

 

 

30分程待っただろうか茂子が恥ずかしそうに来た。
 

『お帰りなさい』
 

『ただいま』
 

『それにしても汚いわね』
 

『慣れっこだったじゃん』
 

『今も大丈夫よ』と言って5ヶ月振りのキスをしてくれた。
 

 

ザックの中からサリーを出して渡した。

 

夕方の待ち合わせを約束して、茂子は授業に戻り、俺は部室に向かった。

 

 

 

ニューデリーでは殆ど毎日葉書を書き、2週間に1回は電話をしていた。
 

茂子からは分厚い手紙が週に2通以上届いていた。
 

 

 

それだけが日本語に触れる機会だった。

 

部室に行くと授業中なのに皆が集まってきた。

 

 

 

土産話に花を咲かせて、先輩に借金を返していると緒方漣が来た。

 

こいつは犬以上に鼻がきくのか俺が部室にいると必ずやって来た。
 

『汚いぞ!しまたい』
 

『ああ、みんなに言われてる』
 

新品のジーパンとTシャツに着替え、スニーカーに履き替えて部室にザックを置いて、二人で高田馬場にある銭湯に行った。

 

背中を流し合い、いろんな事を話した。

 

どうやら彼女が出来たらしい。

 

やっと童貞が捨てられたと言いながら照れていた。
 

 

 

『島谷には負ける』と呟いた。
 

『ああ俺は高校生の頃だからな』と言うと
 

『違うよ。そっちの話じゃなくて、しげちゃんだよ。しげちゃんは良いよ。素晴らしいよ。お前が山から降りて来るまで毎日の様に新聞でお前が事故ってないかチェックしていたらしい。それだけじゃあない。大使館、外務省、日本山岳協会、早稲田山岳部に毎日どっかに電話していたらしい』
 

『そう言えば、ポン女で事務長に“貴方が島谷さん?”って言われた。名乗ってもないのにだぜ』
 

『ポン女の一部の学生達には有名らしいぜ。もっとも早稲田ではとっくに有名だがな』
 

『茂子と俺が?』
 

『羨ましいよ。全く。毎日葉書書いていたらしいな』
 

『そんな事まで知っているのかよ』
 

『智子・ザ・スピーカーだよ』
 

『同室だからだな』
 

そう言えば智子には今年の正月に下北沢のアパートを引き払う時に緒方漣と手伝いに来て以来会っていない事を思い出した。
 

それから夕方まで緒方漣の彼女の話を嫌となる程聞かされた。
 

また会う約束をして別れた。
 

 

 

茂子との約束の新宿まで歩きながら日本を満喫していた。

 

途中、戸山公園の横を通りながら、バイト帰りに茂子と待ち合わせをした場所だった事を思い出した。

 

するとヒマラヤから帰れた安堵感と茂子恋しさに泣けてきた。
 

約束の場所に着くと約束の10分前なのに茂子が待っていた。

 

池袋経由大宮。駅弁を買って信州上田への特急列車あさま号に乗った。

 

茂子の両親に会う為だった。

 

列車の中でインドで出会った人達の事を話して、茂子は去年デビューしたサザンオールスターズの事や智子の事を話した。
 

 

ひとしきり話が途切れた時に
 

『また行くの?』と聞いてきた。
 

『ごめん』と言うと
 

『謝らないで。いいの。待ってるから』と言った。
 

『ごめん』
 

『だから謝らないで!』
 

『待っててくれよ』
 

『わかった』
 

 

 

正月に緒方漣に言った事が智子から茂子に全て伝わっている事を茂子の手紙で知っていた。

 

茂子には本人に伝わったなら両親に挨拶がしたいと葉書で伝えてあった。
 

『俺と一緒にいろよ。絶対に幸せにしてやる』

 

『嬉しい。よろしくね』

 

何度もプロポーズしたが、これが最初だった。