東京45年【2】 | 東京45年

東京45年

好きな事、好きな人

【2】

 

 

1978年秋の頃
 

 

茂子と俺は、山に行かない日は相変わらず毎日狭い部屋で抱き合って寝ていた。

 

喧嘩をした時や機嫌が悪い時でも、その狭さのお陰で抱き合っていた。

 

喧嘩をしても狭い部屋のお陰ですぐに仲直りが出来た。

 

足か手を延ばせばそこに茂子がいた。

 

怒っている茂子と仲直りがしたくて、触っていると最初は叩かれたが、そのうちに機嫌を直してくれた。
 

そして大好きな茂子は離れていてもいつも俺の傍にいてくれた。
 

 

 

雨が降ると土方の仕事は休みで、そんな日は茂子は出来るだけ早くバイトや大学から帰ってきた。

 

早目にご飯を済ませて銭湯に行った。

 

しなければいけない事は出来るだけ早く済ませて、何度も煎餅布団の中で愛し合った。

 

愛し合った後に抱き合っているとまた愛し合った。

 

生活は貧乏なママゴトの様だったが、確かに二人はお互いを必要としていた。

 

そのアパートは水道もトイレもガスコンロも台所も全てが共同だった。

 

貧乏人の巣窟の様なアパートでのママゴト生活だった。
 

 

 

1973年リリースされたかぐや姫のヒットした『神田川』は四畳半だったのに自分達は3畳だと二人で笑った。

 

また『赤ちょうちん』は『雨が降る日は仕事もせずに、キャベツばかりをかじってた♪』だったが、俺達はキャベツもかじれないと笑った。

 

笑いながらも、その生活がいつか終わる事に怯えていた。
 


同棲して3ヶ月が経ったある日、些細な事で喧嘩をした。
 

『出て行って!』と茂子。
 

『ああ、わかったよ』
 

部屋を出る時に俺が借りている部屋である事も忘れてアパートから出て行った。

 

すると2階の空くはずのない俺たちの部屋の窓ガラスが空いて、
 

『なんで出て行くのよぉ!戻りなさい!』
 

『こっちまで来て、俺に来て謝れ!』
 

すると茂子は素直に1階まで降りてきて、
 

『好き』と言って俺を抱きしめた。
 

謝らずにそう言った。

 

やられたと思ったが、遅かった。

 

すぐに喧嘩は収まった。

その頃、俺は茂子にメロメロになっていた。

 

いや、おぼこ娘が男を知り、男の操縦方法を身に付けたと言った方が正確かも知れない。

 

 

谷崎潤一郎の『刺青』を思い出した。
 

その内容は朧だが、確かこうだった。

 

 

刺青の粋を極めた老年の彫り師が、年老いてこのまま死んでいく事に疑問を抱く。

 

商売として長年いくつもの彫り物をその卓越した技術と経験で世に生み出したが、本当に自分の描きたい、芸術と称賛される作品は未だ生み出していない。

 

長年の彫り師の勘は、一番輝く刺青は若い肌の女性で、かつ白い肌であり、おぼこ娘である事が条件だと言っていた。

 

そこで彼は街中から望み通りの肌の色つやが良くて、自分好みの少女を誘拐してくる。

 

そして、数ヶ月を掛けてその少女の純白な肌に描きたい刺青を丹誠込めて彫り込む。

 

少女の意志とは全く関係なく、その仕事は進んでいく。

 

その間、少女はあまりのショックに差し出される食事も十分に摂れない状態になり、肌を傷付ける刺青の所為で高熱を出し、どんどん衰弱していった。

 

だが、彼はその仕事の手を休めようとせず、無我夢中で彫り込む。少女は必死に耐える。

 

その内に彼は彼女に恋心を抱き始める。

 

なんとか少女は一命を取り留めて、その作品は完成する。

 

自分の最高傑作を手に入れた事で、彼は自画自賛の満悦の境地に達する。

 

その後、彼は自分の言いなりの少女の身体を奪う。

 

最高傑作と意のままになる女を同時に手に入れた彼は、人生で最高の至福の時を迎える。

 

一方、少女は数ヶ月の刺青の痛みと精神的苦痛と性的苦痛を短期間に経験していた。

 

そして、少女はそれを境に女へと変貌を遂げていく。

 

そして、ある日、年老いた彫り師は少女が女へと変貌した事に気が付く。

 

彼が自分の意のままになると思っていた少女は、もう何処にも存在していない。

 

彼の魂をも吸い取る程に妖艶で逞しくなった女が一人いるだけだった。

 

人生で最高傑作の般若は、自分の魂を吸い取る情念の化身となっていた。

 

 

要するに、付き合った女が変化していく話だが、俺は身勝手で手に入れた女はバケモノになると解釈している。

 

男には痛い程分かる話だが、同時に最高に怖い時でもあると解釈する。

 

男は生まれて死ぬまで男だが、女は年を重ねる毎に、経験を経る毎に育っていく。女は生まれてからすぐに女に育って行く。

 

 

フランスの哲学者サルトルがその生涯を共にした同じく哲学者ボーボワールが書いた本で『第二の性』というやつがあった。

 

高校時代に読んだが、その時の感想は頭でっかちの生意気な女哲学者が空想を語っていると思った。

 

その本の出だしはこうだった。

 

『女は女として生まれるのではない。女として育つのだ』と。
 

 

俺は茂子の変化を知ってから茂子を『ボーボワール女史候補』と呼ぶ様になった。
 

あまりに俺の事を知り過ぎる茂子が母親の様に感じらた時期があった。

 

その事を茂子に伝えると翌日から元の可愛くて綺麗な茂子に戻っていた。

 

変化しながらも対応力も身につけていた。
 

こいつは何なんだ?と思った。

 

またまた大好きな宇宙人が来た感じがした。

 

もっと襲来して欲しかった。
 

少しだけ女を理解出来た幼い俺がいた。

 

それと同時に女が怖くなった最初でもあった。

 

どうか『刺青』の彫り師と同じ運命を辿らない様にと祈った。
 

18才の秋の深まりを感じる頃の出来事だった。
 

 

『天高く馬肥ゆる秋』、『食欲の秋』、『恋の秋』。。。
 

秋が深まり、寒さが近付くにつれて、俺達の恋はさらに深まっていった。

 

 

 

二人ともアルバイトをしていたが、俺の方が稼ぎは良かった。

 

しかしそのほとんどは登山の費用と学費の積み立てになった。

 

二人の生活費は合わせて10万円くらいだった。
 

それを半分ずつ出し合って二人の生活を維持していた。
 

生活は苦しかったが、それでも幸せだった。
 

 

ある冬の夜、お金が無くて晩飯が食えずに、水道の水を飲んで済ませた事もあった。

 

あまりに腹がグウグウなるので二人共寝れなかった。

 

誰の腹がなっているのかわからなくて、小さな布団の中で抱き合いながら二人共笑い転げた。
 

笑うと余計に空腹感を感じた。

 

暖房も無い寒い夜だったが、二人の心は暖かかった。
 

そんな生活は12月末の家賃が払えずに、正月の引越しで終わりを迎えた。
 

いや、払おうと思えば払えたが、同棲を止めると言い出したのは俺の方だった。

 

山とバイトに明け暮れて、一緒に暮らした5ヶ月間に茂子と街でデートしたのは青山と西麻布の散策の2回だけだった。

 

それでも茂子は暖かく毎日を一緒に過ごしてくれた。

 

これは45年経った今でも感謝している。
 

初めてのクリスマスは二人でケーキを作った。

 

最初に行った高野フルーツパーラー以外で初めての贅沢だった。
 

狭い部屋でケーキにローソクを立て、二人できよしこの夜を歌った。

 

でも二人とも歌詞が違うと笑い合った。

 

しかも俺は音程もずれていた。
 

 

 

 

二人だけのクリスマスパーティーはプレゼント交換で最高潮を迎えた。
 

茂子は俺に手編みの登山用の手袋をくれた。

 

だが二つとも右手用だった。

 

初めての編み物だと言ったが、手の甲に相合い傘の刺繍で『つかさ』、『しおん』とある以外は完璧な出来だった。

 

良い仕上がりだった。
 

『こんなの付いてたら山の中でお前を思い出して闘争心が萎えるじゃないか!』
 

『。。。』
 

茂子は半ベソをかきながら俺がトイレに行っている間に片方の刺繍を取っていた。
 

『もう一つはそのままで良いよ』と言ったら、
 

『へへ~』と言いながら勢いよく抱き着いて来た。
 

 

お陰で押し倒された俺の背中に食べ残しのケーキがべったり付いた。

 

俺は背中のクリームに構わず、50セント銀貨をスプーンで叩いて作ったシルバーリングをプレゼントした。

 

茂子は左手の中指にしながら俺の背中のクリームを舐めた。

 

そしてクリームが無くなったところで俺の着ていたものを剥ぎ取る様に脱がせた。

 

茂子に押し倒されて二人は愛し合った。熱い抱擁は長く続いた。
 

 

 

その行為の後で、俺は切り出した。
 

『同棲止めようよ』
 

驚いた顔で無言でいる茂子がいた。いつもなら食い下がるのに。
 

『俺の勝手でこんな暮らしさせて申し訳ないから』
 

『でも、楽しいよ。つかさの事大好きだし、何より私だけを見ててくれるのが嬉しい』
 

『俺が山に行く時に遊びに行けって言っても遊びに行かないし』
 

『だって行きたいとこないし』
 

『それじゃあ山に行き辛いよ』
 

『やっぱり私より山が好きなのね?』
 

その日の俺はそれ以上茂子を抱きしめなかったと思う。

 

抱きしめたかった。

 

涙が出る程に茂子の事が愛おしかった。

 

気持ちはとっくに深まっていた。

 

だから余計に申し訳なかった。

 

茂子は俺と暮らし初めてから一度も美容室に行っていなかった。

 

洋服も化粧品も買っていなかった。

その夜、茂子は泣かなかった。

 

そして初めて背中合わせになって寝た。

 

明け方にトイレから戻ってきた茂子の目は真っ赤に腫れていた。
 

その時、目覚めなければ、その時の茂子の顔を見てなければ、もしかしたら同棲は続いていたかもしれない。
 

俺はもう一日、山を止めるか止めないか考えてみようと思いながら寝付いた。
 

 

 

 

冬山が迫っていた。
 

茂子の愛情を深く感じながら、茂子も俺の愛情を深く感じながらも、このままでは俺も茂子も駄目になると感じていた。

 

翌日、朝早くから俺はバイトに行った。

 

昨日の答えは未だ出ていなかった。

 

バイトが終わると急いでアパートに戻った。

 

帰り道の雑貨やで茂子の好きなアイスクリームを2つ買った。

 

茂子は冬のアイスクリームが好きだった。

 

半月に1度は銭湯の帰りにアイスクリームを『贅沢しよっと』と言いながら買っていた。

 

いつもは2人で1つだった。
 

アパートに帰ると茂子はいなかった。

 

荷物も無くなっていた。
 

 

いなくなった茂子を想いながらアイスクリーム2つを晩飯代わりに食べた。

 

自然と涙が出てきた。

 

2つ目のアイスは溶けかかっていた。

 

食べ終わる頃には涙と一緒に鼻水も出ていた。

 

 

たくさんの涙と鼻水を垂れ流しながら自分の情けなさと茂子を想っていた。
 

狭い部屋が広く感じる18才12月の出来事だった。

 

 

翌日から山岳部の冬山合宿だった。

 

北アルプス剣岳への冬期未踏のルートからの登頂が目的だった。
 

アプローチの雪道で白い雪面に茂子の顔が浮かび、それを踏み締めて登った。
 

『あいつ何も言わずに出て行きやがって』と胸の内で呟いていた。
 

先輩達に冷やかされながらあの相合い傘の手袋は恥ずかしげもなく右手にあった。
 

 

 

核心部に差し掛かる頃は茂子の事は無くなっていた。

 

いつも先輩達に核心部での集中力と慎重さと大胆さを褒められた。

 

“真っ白になる瞬間”もしくは“自然と同化する瞬間”と俺は呼んでいた。
 

トップでルート開拓を行った。年間で80日を登山で費やした成果があった。
 

北アルプス剣岳剣尾根の冬期初登攀はこうして成された。

 

人類初の同ルート登攀だった。

 

 

 

薄暗くなった富山県魚津駅に無事にたどり着いた時は雪が降る中だった。

 

冬合宿は終わった。

 

登攀メンバーが駅前の居酒屋で祝杯を上げ始めた時にサポート隊が駅にたどり着いた。

 

栄冠を勝ち得たメンバーとサポート隊のモチベーションは明らかに違っていた。
 

 

1950年に人類初のヒマラヤ8000m峰登頂をフランス隊が国を挙げて成し得た。

 

その頃から主流になったポーラメソッド、極地法にふっと疑問を感じた瞬間だった。

 

より危険を排除する為に多くの物資と人手を使い、安全確保の為にザイルを登るルートに張り巡らし、ベースキャンプから何度も往復して物資を人の背中で前進キャンプに持ち上げ、送り込む方式の事を言う。

 

 

それ以前にアムンゼンとスコットが南極点到達の為に初めて用いた方法である。
 

この方法では何度も往復する為に時間がかかる。

 

その方法は、何が起きるかわからない危険な山の中に長くいなければならなくなる。

 

しかも登頂出来るのは一部の隊員で、残りのメンバーはサポートに徹するしかなかった。

 

危険な場所は早く通り過ぎるに限る。
 

これには技術と有り余る体力が前提である。

 

当然精神力も必要だが。
 

一緒に行ったメンバーが全員で登って全員で喜び合える山登りがしたいと思った。
 

疑問を残しながら9日間の登山が終了した。
 

そして帰路に着いた。
 

 

 

次は夏のリベンジだ。

 

既にヒマラヤへの渡航手続きは済んでいる。

 

 

 

合宿から帰ると緒方漣がアパートに来ていた。

 

いつも鍵は掛けていなかった。

 

 

茂子は親に詫びて元いた護国寺の寮に戻ったとの事だった。

 

それを聞いてホッとしたが、望んだ事なのに寂しかった。
 

 

 

緒方漣に茂子との事をすっかり話した。
 

『別れるのか?』
 

『いや別れない。ずっと付き合うよ。きっとあいつもそう思ってるよ』
 

『これからどうするんだ?』
 

『とりあえずここを引き払うよ』
 

『そうじゃなくて、どう彼女と付き合うんだ?』
 

『わからない。でも付き合っていたい。山はやりたい。俺じゃなきゃ出来ない山登りがしたい。それが終われば結婚したいと思っている。一生一緒に居たい』
 

 

緒方漣は驚いていた。
 

『そう言ったのか?』
 

『いや、それは今は言えない。今は山だ。ちゃんとやりたい山が終わらないと一緒にいてもあいつをダメにする。山を諦めると俺がダメになる。それじゃ一緒にいてもあいつを苦しめる』
 

今から考えると全く若い情熱に任せた我が儘だったかも知れない。
 

『もうすぐヒマラヤだよな?』
 

『ああ』
 

『それで終わるのか?』
 

『いや始まりだよ』
 

俺はアパートを引き払い、大学の体育会の寮に潜り込んだ。

 

お金は1円も払わずに、寝床は毎日空いている部屋を探して毎日違う部屋に寝ていた。
 

相変わらず勘当された身だった。
 

 

 

そして、俺は二回目のヒマラヤに1月の終わりに旅立った。

 

茂子も去年開港したばかりの成田空港に来ていた。

 

また智子と緒方漣のお節介だと思った。

 

相変わらず可愛くて綺麗だった。

 

 

 

因みに、成田空港は数々の問題を孕みながら1978年5月に開港した。

 

だから、昨年のヒマラヤに向かった時は成田空港はまだ無かった。

 

その時は羽田空港から出発した。

 

また、その1月に国公立大学入試の第一回共通一次試験が開始された。

 

これは1989年まで続き、その後は私立大学も含めたセンター試験となった。

 

 

 

茂子と話すのも会うのも1ヶ月振りだった。

 

クリスマス以来だった。

 

茂子は何も言わずに笑って立っていた。

 

向き合いながら、お互いに黙っていた。

 

俺は離れたくなくて泣いた。
 

成田空港はまだ開港したばかりで人は疎らだったが、早稲田山岳部の見送りと一緒に行くメンバー達の親兄弟、友達が大勢集まっていた。

 

俺の個人的な見送りは茂子だけだった。

 

友達には来るなと言っていた。
 

 

 

見送りの茂子にただ一言、
 

『好き』
 

『私もよ。でも不器用者!』

 

不器用者の意味がわからなかったが、抱き合ってキスをした。

 

あの変わらない柔らかい唇だった。
 

それから数ヶ月後に緒方漣が智子経由茂子に俺の気持ちを伝えた事を知った。
 

 

二度目の飛行機の中で成長過程の自分を感じていた。
 

 

 

一度敗退した山は、二度目に心地良く迎えてくれた。
 

4月20日ヒマラヤカラコルム山群ダウラギリ五峰南壁初登攀。

 

標高7,618m。氷河の奥にすくっと垂直に立ち上がった延々と延びる標高差2500mの壁を登った。
 

登った後に、ダウラギリ(Dhaulagiri)とは、サンスクリット語で“白い山”だと知った。
 

 

 

頂上では茂子を思い出していた。

 

下りたら葉書を書こうと思った。
 

茂子はこの山と同じ様に俺を受け入れてくれるだろうか?

 

そんな事を考えた頂上だった。