東京45年【1】 | 東京45年

東京45年

好きな事、好きな人

【1】

 
 

1978年春から夏まで

45年。


過ぎてみればあっという間だった。
 

大学と大学院時代8年は山岳部時代~三菱電機12年初任給14万4千円⇒三菱商事19年⇒レイ・インダストリー。

 

それぞれの時代を通り過ぎ、たどり着いた今。


東京に来た経験は高校時代までに何度かあった。それは母親と一緒だったり、姉貴とだったり、友達とだったりしたが、みんなが帰っても一人ずっと東京にいる。


夢心地だった18歳、早稲田に来て一人暮らしの下北沢。
 

何もわからない東京は物珍しいばかりだった。
 

 

大学ですぐに友達になった緒方漣(オガタレン)も物珍しい奴だった。

 

面白い奴だった。

 

秋田のど田舎生まれで、訛りがすごくて、でも色白で、ものすごく良い男だった。

 

今の言葉で言うとイケメン。

 

とにかく流行とかファッションに敏感で、いつも訳のわからないブランド名や知りたくもない音楽家や芸術家の名前を口走って、その人達の考え方や時代背景を語っていた。
 

 

俺と言えば、そんなものには興味もなく、ましてや無頓着で、いつもジーパンかジャージにTシャツで、未だ見ぬ山、過去の登山家の思想や芽生えたばかりの登山への想いを熱く語ってばかりいた。
 

 

とにかく二人とも若々しく人生を語りながら、その本質は何も知らずに好きな事を“人生そのものだ”と熱く語っていた。

 

 

幼くて何も知らない、だが目映い光に満ちた18才だった。
 

 

 

時代は、田中角栄による日中和平友好条約締結。

成田空港開港。

阪神タイガース江川問題。

国鉄(JR)は最低区間料金60円。

原宿は竹の子族だらけ

原宿ラフォーレ建設中

 

原宿キディーランド向かいの交番の初老のお巡りさんが、うんこ座りして煙草を吸っているヤンキー達に向かって、

 

『原宿は良い子の来る街です。悪い子は歌舞伎町へ行きましょう!!!』と言った。

 

 

ノーパン喫茶

ディスコブーム、カンタベリーハウスVIVA館・シンデレラ館・ニューヨーク・ニューヨーク・椿ハウス

サタデイ・ナイトフィーバー、ジョン・トラボルタ、オリビア・ニュートンジョン

サンシャイン60開業

じゃりン子チエとなっていた。
 

その他に口裂け女・なんちゃってオジサン・不確定性の時代・窓際族・キャンディーズ解散・ピンクレディー・山口百恵いい日旅立ち・サザンオールスターズ『勝手にシンドバッド』でデビュー・フュージョン音楽、リーリトナー・ラリーカールトン。。。。。。
 

 

これらを時代背景から詳しく知っている緒方漣だった。

 

そんな事を知っていて早稲田に入る勉強はいつしたんだろうと疑問に思った。
 

 

 

緒方漣は大学1年のゴールデンウイーク前のある日、確か4月20日だったか、バイトがあるにも関わらず俺を、しかも嫌がる俺を引っ張って近くの女子大のポン女の正門へ連れて行った。
 

ずばりナンパが目的だった。
 

『大学入学したのはオナゴと感性を磨く人生経験が目的だ』と公言する奴、緒方漣。
 

対して、『何か一つだけで良い。それを突き詰めたい。とにかく登山だけを突き詰めたい』と、俺。
 

緒方漣のイケメンさと面白さが受けて、すぐに可愛い同じ歳の女の子二人を連れて高野フルーツパーラーへ行った。
 

目白から新宿までの電車は賑やかだった。
 

無口な俺は、『よくもこれだけいい加減で面白い事が言えるもんだ』と閉口しながらも、その電車の中の主人公緒方漣を羨望の目で見ていた。
 

 

 

高野フルーツパーラーでは自然と2つのカップルが出来上がっていた。
 

楽しい豊沢とノリの良い智子、俺と少しぶりっ子だが話す時に相手の目を真っ直ぐに見る子。

 

それが茂子だった。

 

とても印象的だった。
 

 

 

僅かな時間だったが、俺達はいろんな事を話した。

 

俺はもう一つのカップルが席を立っている隙に照れながら茂子に電話番号を聞いた。

 

大学の寮に住んでいるらしく、『取り次ぎの時間は8時まで』と聞いてもいないのに茂子は言った。
 

 

それならと思い、
 

『また明日会わない?』と誘った。
 

『うん。何処で何時?』
 

僅か1分くらいで翌日の約束が出来た。
 

高野フルーツパーラーでの3時間はあっという間だった。

 

楽しかった。
 

 

 

そして、翌日昼過ぎにまた茂子に会い、お茶を飲み公園をフラフラ歩いた。
 

黄色い花柄のフレアーのワンピースにピンク色の薄手の毛糸のショールの茂子は清楚で純粋で可愛かった。
 

一方の俺は、今の時代ならともかく、擦り切れたジーパンにTシャツ、薄手のヨレヨレのスタジャンを着ていて、靴は高校陸上部時代に履き古したアディダスのアップシューズ。
 

おおよそ茂子と俺は不似合いだった。
 

回りから見たらお嬢様と貧乏学生がありありとわかっただろう。
 

 

 

歩きながらいろいろな事を話して話題に詰まった時に、立ち止まって『好き』と伝えた。

 

そしてキスをした。

 

唐突なキスだった。

 

でも柔らかい唇が素敵だった。

 

だから何度も何度もキスをした。

 

貪る様にキスをした。

 

一度するともう一回したくなる唇だった。

 

 

公園の木陰に座り、胸にも触れた。

 

直接も触れた。

 

小さくて柔らかくて忘れられない感触だった。
 

 

 

しかし、その後茂子を泣かせてしまった。

 

俺はその翌日からヒマラヤ遠征の予定だった。
 

それを伝えた。
 

初めてのヒマラヤに想いを馳せながら昨日会ったばかりの女も手に入れたかった。
 

 

 

そんな欲張りな俺の目をカッと恫喝の様子で凝視しながら、それでいて涙を流しながら
『私と山とどっちが大切なの?』と真面目な顔をして聞く茂子がいた。
 

あの印象的な綺麗な目が淋しげに怒っていた。
 

俺は出会ってたった2日でそんな情熱的な事を言う女性を見た事が無かった。

 

いや、人間を見た事が無かった。
 

俺は無言のまま不思議そうな顔をしていただろう。

 

不思議そうな顔をしながらも、泣きじゃくる茂子を綺麗だと思っていた。
 

そう思いながら突然だった出会いと情熱的なキスは、もう無いだろうとも感じていた。
 

出会いからたった24時間の失恋だと感じながら、やると決めた事はやりたい。

 

茂子が俺について来れば良い事だと言った。

 

これは逆に茂子も出会って2日目の人間にそんな事を言われた事が無く、赤い目をしながら不思議そうな顔をした。
 


二人とも幼くて恋の駆け引きは全く出来なかった。
 


二人ともが浅く傷付いていたが、恋は時間なんか関係無い事だと知り、お互いが不思議なお互いに笑い転げていた。

 

そして俺は失恋を感じていた。
 

さわやかな初夏の空が広がっている代々木公園の木陰での出来事だった。
 

若くて甘酸っぱい出来事だった。
 

 

 


そして、翌日俺は唇と手の平に茂子を感じながら、小さな肩の温もりを感じながら、あの純粋で綺麗な目を想いながら男5人でヒマラヤ遠征に旅立った。
 

1年生は俺1人だった。後の4人は、3年生1人、4年生1人、2年ダブっている4年生、つまり山岳部6年生だ。

 

初めてのヒマラヤは散々だった。
 

時期が遅すぎた事もあったが、10年ぶりの悪天候で、毎日の様に吹雪と雪崩、落石続きだった。

 

少しでも闘争心と集中力を欠くとどんな事故が起きても不思議ではなかった。

 

結局、ピークまであと300mの所で敗退を決意した。

 

実力の無さを痛感して自分に腹が立った。

 

悔しかったが、生きて帰れた事はあとから思えばリーダーの英断だった。
 

同じ時に同じ山域を登っていたポーランド隊は、登頂後に10名の隊員中3名が死亡し、2人が滑り落ちて行方不明、2名が凍傷で足を切断した。

 

無事に生還したのは3名だったが、内1名はその登山が原因で自殺、残り2名は精神に異常をきたし病院の入退院を繰り返した。

 

 

その年だけでその山は何人もの尊い命を奪った。
 

 

 

何れにしても我々の隊は敗退だった。

 

帰路は下山後に徒歩で2週間、バスでまる1日、ディーゼル機関車でも24時間の長い旅だった。

 

往路と同じ道だが、敗北感でいっぱいで、とにかく長い帰路だった。

 

機関車で田園風景を通りながら、18才で初めて味わった大きな若い挫折に身も心も疲れていた。

 

初めての大陸はデカかった。

 

その巨大な大陸を身体で感じながら同時に小さな自分を圧倒的に感じて、挫折感が追い打ちを掛けていた。

 

しかし、ポーランド隊の悲報をインドニューデリーで知った時、不謹慎な事に哀悼より先に安堵感が身を貫いた。

 

それと同時に生きている喜びと登山中1度も思い出さなかった茂子を感じた。

 

帰りの飛行機の中では後期の学費とアパート代金の三ヶ月分滞納の事ばかりが気にかかっていた。

 

日本に帰ったのは真夏の7月末だった。

 

翌日はなけ無しのお金を電車代に使い、大学に行った。

 

と、前期試験の最終日だと知った。

 

 

 

山岳部の部室で先輩達と同期生にヒマラヤの話をしていたら緒方漣が帰国を知って駆け付けて来た。

 

無事を祝う風も無く、1科目だけあるから受けろと言う。

 

もちろん俺は試験日程を見ていなかったし、どうせ授業も出ていないから受かりっこないと答えたら、緒方漣は一生懸命に俺を説得して嫌がる俺を引っ張って試験を受けさせた。


茂子に初めて会った時と同じ奴がいた。

 

変な奴だと思ったのは2度目だった。

 

お陰でその単位が取れた。

 

後で聞いたら名前を書けば受かる単位だったらしい。
 

 

 

そして翌日からの夏休みはバイトと登山に明け暮れるはずだった。

 

ところが夏休みに入った途端に茂子を思い出した。

 

あの時、代々木公園で俺は失恋していた。

 

失恋した女に無事を伝えたかった。

 

あわ良くばもう一度会いたかった。

 

思い出したら居ても立っても居られずに公衆電話から茂子に聞いていた大学の寮に電話をした。

 

島谷と名乗り、茂子の呼出しをお願いしたら8時を過ぎていてダメだと言われた。

 

じゃあ伝言だけでもと食い下がってお願いしたら渋々受けてくれた。
 

伝言は、『島谷です。ヒマラヤから帰国しました』とした。
 

明日は土方のバイトの為にと考えながら夜の12時過ぎに寝る準備をしていたら、窓の外から大きな叫び声が聞こえた。
『しまたにいいい~~』
 

外には大きな荷物を抱えた茂子がいた。
 

菱形にゆがんでいて開かない窓ガラスを恨めしく思いながら、2階から急いで降りた。
 

外に出て『大きな荷物だね。信州に帰省するの?』と聞いたら、
 

『引っ越し!』
 

『どこに?』
 

『ここに!』
 

『ええっ????なんだってそんな。。。』
 

答えに詰まった俺を見ながら、茂子は
 

『だいたいにしていつ帰ってきたの?』
 

『3日前』
 

『どうして連絡するのに3日もかかるの?ほっぽとく気だったの?インドから電報も打てるでしょ!!』
 

『。。。。。』
 

矢継ぎ早に責められて、答えに窮する俺。

 

どんどん責める茂子。

 

それでも無言の俺。
 

 

 

すると、
 

『朝日新聞にポーランド隊の事故のニュース出てたのよ。その中に早稲田隊は勇退して無事って。。。』
 

『。。。。。』
 

『あなたみたいなペーペーの名前なんか出ていなかったけど。。。』
 

『。。。。。』
 

『なんとか言いなさいよ。。。』
 

『。。。。。』
 

『そんな危ないところに行くなんて聞いてないし。。。』
 

俺は無言で茂子を抱きしめた。そして、
 

『好き』とだけ言ったら、茂子は大きな声で泣き始めた。
 

夜中の12時過ぎに子供が泣く様な声でえんえん泣いていたのでアパートの住人たちの窓ガラスがあっちこっち開いた。
 

 

夜分にごめんなさいと謝りながら、泣きじゃくる茂子をなだめて荷物を持ち、俺の部屋へ連れて行った。
 

アパートの2階へとギシギシと鳴る木の階段を上りながら明日はバイト無しだなと思っていた。
 

 

部屋に入るとあまりの狭さにビックリしたのか茂子は途端に泣きやんだ。
 

山の道具の中からコンロとコーヒーを引っ張り出して入れた。
 

どうやら茂子は俺の伝言を聞いて、智子経由緒方漣に俺の住所を聞いて来たらしい。
 

そんな茂子の行動力というか奇行というか、とにかく茂子のそれは俺にとって物珍しかった。
 

何度も新種の生物か宇宙人に思えて仕方がなかった事を覚えている。
 

それからインドの事やネパールの事、ヒマラヤの事を話した。
 

茂子はこの3ヶ月間の出来事を事細かに話した。
 

二人が離れていた3ヶ月間の話が一区切り付いた時に茂子が聞いた。
 

『私の事、思い出した?』
 

『うん』
 

『毎日?』
 

『山の中以外では思い出した。』
 

『だから私と山とどっちが大事なの?』
 

しまったと思ったが遅かった。

 

また俺は茂子を抱きしめるしか無かった。
 

そして、キスをした。

 

あの柔らかな唇だった。
 

『ずるい』と言われた様な気もするが、止まらなかった。
 

裸電球を消すと水垢に汚れた窓ガラスから夏のお月様の光が差し込んでいた。
 

そして茂子の服を一枚一枚脱がした。

 

夏の夜の明るい月明かりに照らされた茂子の一糸まとわない肢体は綺麗だった。

 

綺麗な肢体は俺を雄に変えた。

 

 

外の草むらの虫たちの音色は聞こえなくなっていた。
 

茂子の上に覆い被さった時、夏の月光が俺の陰を茂子の上に落とした。
 

茂子は初めてだった。暑い真夏の夜だった。
 

山は憧れであり、無くてはならないものだった。

 

茂子と山の選択を迫られてもどっちも欲しかった。

 

その行為の後、俺の茂子への気持ちはより一層深く強くなった。
 

窓が開かない狭い部屋での暑い暑い夏の夜の出来事だった。
 

 

 

そして、その日から茂子との同棲がスタートした。

 

家賃五千五百円の三畳一間で押し入れも無い、息が詰まるくらいに窮屈だったが、その狭さが二人の愛情を何処までも深めた。

 

何処までも俺は茂子を知り、茂子は俺の知らない俺までも知った。

 

生活は貧乏を極めていた。

 

茂子は俺と同棲する事に反対する親を押し切って俺の元に来たので仕送りは無かった。

 

元々、信州上田の裕福な家庭に生まれ育った茂子と不自由無く育って山が登りたいだけで意地を張って親に勘当された俺、そんな二人の同棲だった。
 

 

お金は無かったが、愉快で楽しく暖かい生活だった。

 

幸せと喜びは違う。

 

喜びは一時的なものだが、幸せは続いていく。

 

 

俺は茂子と幸せになりたいと思った。