2008年に書いたブログに
大正楼の事を書きました。

 

↓↓こちら

 

 


今でも憶えていますが


近所の人らしいおじいちゃん
当時で80歳位だと思います。

2008年当時で80歳位

ということは
遊郭が現存していたころは


20代後半から30代という
現役バリバリだったはず。

その方に

「大正楼はどれですか?」
と訊くと

「これが大正楼や」
と教えてくださったのを
鮮明に覚えています。

皆が大正楼と言っている

建物の斜め向かい

現在は空き地に
なっている所でした。

もしかしたら

おじいちゃんが
勘違いしていたのかも

知れません。

しかし、当時は

ネットに僅かしか

情報が上がって

いなかったのが
この十数年の間で

瞬く間に増えて

いったのです。



もし、これは仮定の話ですが

おじいちゃんが間違って

いなかったとして
ネットに上がった最初の情報が

間違っていたとしたら

みんなこの情報を元に
記事を書いていって

ずるずると引きずって

既成事実となっていったと

考えると恐ろしいと思います。

 

 

 

 

YouTubeを観ていると面白い動画を発見しました。

 

浪華芸人横丁~大阪天王寺山王町~

 

というタイトルで

昭和46年放送されたNHKの新日本紀行で

 

てんのじ村の芸人横丁を

取材したものです。

 

そこで、今回のモトブログは私も以前この近くに住んでいたこともあり、

この芸人横丁周辺を散策してみました。

 

 

 


元動画に出てきた芸人さん(主にウィキペディアより)

最初のナレーションで出てきた・・
〇勝浦きよし(かつうらきよし、1931年3月27日 - 2005年)- 本名:大海清五郎。
山口県出身。長唄を3代目今藤長十郎に師事し今藤長雀を名乗る。日本舞踊を
花柳流の花柳松近に師事し花柳澄五郎を名乗る。

〇勝浦さよこ(かつうらさよこ、1928年7月29日 - 現在存命)- 本名:大海スガ子。
熊本市または佐賀県の出身。尾上梅次郎に師事する。1947年に勝浦小夜子の名で熊本歌舞伎座で初舞台。1978年に勝浦さよこと改名。

〇東洋小勝 河内風土記 おいろけ説法の小男(産婆おりんの情人)という以外は詳しい記述なし。

〇小松まこと 大阪府大阪市西成区飛田の生まれ。
竹の家喜雀の弟子で、父は芸人の傍ら小料理屋を営んでいた。1925年に女道楽で初舞台。長らく竹の家正雀を名乗る。後に山崎朝子と漫才コンビを組むにあたり「小松まこと・あけみ」と改名。1979年にあけみ没後独り高座になる。
後ろ面踊りは女形の衣装(着物)を前後ろ逆に身にまとい面を後ろでり、
「七福神」「伊予節」等の囃子に合わせて正座をしながら上半身で扇子を使い踊る芸。かつては漫才を終えたあと余芸で披露していた。調子、体調がよい時は立ち上がり、手足の関節も逆に踊ってみせていた。この芸は戦前呉の小屋に出ていたころに一風亭頓服という芸人から見よう見まねで覚えて習得した。

団之助からお声がかかった・・
〇浮世亭出羽助(1901年5月5日 - 1980年3月24日)本名は中尾幸一郎。
和歌山の生まれ、浮世亭夢丸の門下、最初は砂川菊一を名乗った。1920年大阪天満吉川館で初舞台。
三曲万歳では胡弓を担当し時折テレビ出演もあった。
1976年に慢性気管支炎で公害病に認定された後はほとんど舞台に出ることもできず1980年、自宅でこたつで死亡しているのを相方の花柳かつこ(青柳かねこ)が発見した。東雲節や都々逸も得意とした。SPレコードも残されている。大阪のてんのじ村に長年居住していた。


息子が製本工場に勤めることになった・・
〇本田恵一・玉木貞子
本田恵一・玉木貞子(ほんだけいいち・たまきさだこ)は、昭和期に活躍した夫婦漫才(音曲漫才)
人気の第一線に立つことはほとんどなかったが、茶筒とヤカンの二挺鼓なる珍芸で、晩年人気を集めたほか、てんのじ村を代表する芸人としても知られた。
恵一は1910年愛媛県中山町出身。実家の木の実問屋を手伝っていたが、16歳のときに家出同然で飛び出し広島の呉で演芸館に住み込みで働く、同僚の親友に寄席小屋の席亭の息子がいたので寄席にの楽屋に出入りするようになる。21歳で沖野光の名で立花幸楽とコンビを組んでデビューとなった。広島の演芸館や巡業をなかりだったが、1936年頃幸楽が死去し解消。
貞子は竹の家喜雀の娘で1913年の生まれで1918年上京。「竹の家小茶女」を名乗り、初舞台。帰阪後は小学校に通いながら、芸人生活を送っていたが、中退し、弟とコンビを組んで、竹の家小升・正雀で漫才師に。竹の家定奴の名で女道楽で舞台に出る。
1937年頃に呉の演芸館時代から面識のあった恵一と貞子が6年ぶりに再会し結婚。1937年に夫婦漫才を結成し、本田恵一・一恵となった。
後に2人は結婚しコンビを組むに伴い定奴は玉木貞子と改名。音曲漫才であった。
北九州の八幡を巡業の際に、子供たちが潰れた鍋やバケツやフライパンを持ってきて、チンドン屋の真似事をしている遊びから着想を得て、「ヤカンと海苔缶の二挺鼓」なる珍芸を考案。貞子が櫓太鼓の曲弾き、恵一が海苔缶とヤカンを持ち出し、演奏を始めるスタイルを確立する。安来節などの歌を得意としていた。

動物の世話をしていた・・
〇林美津江(はやしみつえ)は、戦後に活躍した夫婦漫才コンビ。コンビ結成時期不明。
美津江は奇術出身で松旭斎天遊門下で松旭斎天美といって後見をしていた。
NHKの新日本紀行の天王寺村(芸人村)で元気な美津江が観られる。
同じ天王寺村出身の人生幸朗・生恵幸子に美津江愛用の三味線を贈呈している。美津江が体震わせ流行歌を歌うが、あまりにもオンチなのでそれだけで笑いが起きた。幸福が美津江から「ほらほらほら」と促され狸の顔真似をしていた。
立花 幸福(1903年 - 没年不詳)本名は林新三郎。
林 美津江(1908年 - 没年不詳)本名は林みつ

動物の世話を頼んだ・・
〇小唄志津子(こうたしずこ、1913年 - ?)本名は福土シズエ。
8歳で小山慶司の門下になる、実の妹がミナミサザエで夫は広多成三郎。16歳で姉妹で小山静江・寿美江で初舞台。その後、広多シズエの名で広多成三郎と組む。浮世亭夢丸(浮世亭歌楽の実の兄)と組んでいたこともある。1974年に夫の死に伴い小唄志津子の名で荒川キヨシと組んだ。

奥さんに200円以内で買い物をいいつけられた・・
〇広多成三郎(ひろたなりさぶろう、本名・福士宇三郎、1901年4月20日 - 
1974年)立ち位置は向かって右。
荒川千成の門下。最初は荒川成三郎、広田成三郎といった。夫人は広多シズエの名でもろ多玉枝没後コンビを組む。

 

 

 

 

 

この3月4月とバタバタしていまして


久しぶりに管理画面開けたら

コメント頂いておりました。


コメントに対して動画で返す

というのはYouTubeの風潮として

あまり無いと思うのですが、


これはどちらかと言えば

TikTokの方が一般的に

行われているのです。

但し、TikTokは若い人が多い

という事もあってか、
コメントが荒れる傾向にあり

コメント返しでも喧嘩みたいに

なっている場合が多いのです。


探しますと代表事例が
ありましたので、動画内でご覧ください。




これは極端な例ですが、

 

この方の場合は

わざと煽ってアンチコメントが

来るようにしているんですね。

例えば、
「年収なんぼ以下の人は社会のお荷物」
と言ったり
「工場勤務をしている人は詰む」



詰むというのは今の若い人の言葉で

私たちの年代でいうと「終わっている」

という意味です。




アンチコメントでも沢山くると、

TikTokとしては盛り上がっていると判断して

おすすめに乗りやすくなる

ひいては、再生回数が伸びるというのを

狙っているので


この方にも多少の落ち度はあるといえばあるのですが

それにしてもすごいコメントですね。
 

 

 

 

以前、亀岡市畑野ニュータウンをご紹介したブログの中で、池田市の穴織宮伊居太神社と呉服神社の名前が出てきました。

今回はこの穴織宮伊居太神社及びその周辺をご紹介したいと思いますが

神社自体は、もうネット上でもかなり沢山の人が詳しく説明されていますので、今回はその周辺をご紹介したいと思います。


と言うのも、よくDeepスポットを紹介しているブログというのは沢山ありますが、

池田市自体取り上げられないか、もしくは巨大サイトでも、

「池田は高級住宅街が広がり見どころが無い」

と決めつけ、あまつさえ、かつて池田市内の小学校で起こった、世の中を震撼させた事件の犯人の家を訪問して紹介する、というありさまでした。



これはDeepスポットマニアからすると、反則技というか禁じ手なのです。



Deepスポットとはあくまでも、現在の法律水準からすると到底実現しない建造物が密集している、もしくは社会的に必ずしも称賛されない風習が残っている地域が長い年月を経て、なおも現存している・・という所を散策する。

と定義しておりまして、

凶悪犯の家はちょっと違うと思います。


そこで、池田もかつてはDeepスポットの宝庫であったんだぞ!という事を説明したいと思います。




今昔マップを見てみますと、現在の池田駅より北側の方が栄えているのが分かります。

むしろ池田駅や呉服神社あたりは田園地帯が広がるのどかな風景でした。

ここは能勢街道と有馬街道の分岐点ということもあって、少なくとも車社会ができる前、
つまり、人の往来が主流だったころは、この呉服橋の通りの方が栄えていました。



広域で見てみますと、石橋や豊中などは真っ白で、これだけ人家が密集しているところは、伊丹、塚口、後は大阪市内に続きますので、北摂エリア最大と言ってよいと思います。

これだけ人の集まる・・つまり色んな業種の人たちが集まるところにはDeepスポットが出来てきます。

それと、以前のブログの中で池田市畑はその昔、秦氏の秦をあてて秦村と言っていた・・・と説明していましたが、よく見ますと秦野村でした。訂正してお詫び申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今では数少なくなってきた木造の市営住宅を歩いてみました。

 

 「歩いてみました・・」とはいうものの、傾斜地のキツイ所でしたので、すべてを網羅するのは結構ハードでした。

 

 現在は全て退去されているようでしたので、近いうちに解体されるかも知れません。 

 

 

ストリートビューも中の方までは対応されていないので、今撮っておかないと・・

 

ということでランドホームTV取材班(といっても私一人ですが)のカメラが潜入しました! 

 

 

余計な音声やBGMは省きました。 足音と息遣いを感じて下さい。