華やかさの陰に隠れる"サンクトペテルブルク"の悲しい過去 | 西方見聞録(旧パリレポート)

西方見聞録(旧パリレポート)

2015〜2020年パリ、2020年4月に本帰国しました。帰国後も”これは!”と思うものを探し、レポートしています!!

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サンクトペテルブルクと
ビリー・ジョエル
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ロシア旅行から帰ってきて
だいぶ経ちますが、
(過去記事)

一点、
これは絶対にブログで
書かねば! と思っていたのですが
ちょっと、あまりに辛い話なので
躊躇していたことを
やはり書こうと思います。

それは、
サンクトペテルブルクの話です。

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サンクトペテルブルクは
ブログに書いたように
"ヨーロッパよりもヨーロピアン" な
ロシア帝国時代の華やかな都で、
豪華な宮殿や美術館で
訪れる人を驚かせてくれますが、
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サンクトペテルブルクの夜。絵に描いたような、きらびやかさです!

そんなサンクトペテルブルクを
私が初めて知ったのは
全然違う側面からでした。

私がこの街を知ったのは
まだ高校生の頃。
その頃ビリー・ジョエルという
アメリカの歌手が好きで、
CDをよく聞いていたのですが、

その中にあった歌が
「レニングラード」という曲。

ビリージョエルには
「オネスティ」や「ピアノマン」
「ニューヨーク ステイト オブ マインド」など
数多くの名曲がありますが、

「レニングラード」はその中にあって
ちょっと異質な、厳かな曲。


自分はその曲が好きで、
「レニングラードって、何だろう?」と
興味を持って調べたら、
それはソ連の街の名前で、
第二次世界大戦で大変な被害を出した街、
ということを知りました。

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サンクトペテルブルクの悲惨な歴史を
今に伝える博物館
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自分の小さい頃は
冷戦時代だったので、
ソ連は今の北朝鮮とほぼ同じで
暗く、自由がない国、
というイメージ。

レニングラードは
そのソ連の中でも特に悲惨な街。
ずっとそんな認識でした。

そんな状態で、今回のロシア旅行で
恥ずかしながら初めて
"レニングラード" はソ連時代の呼び名で
今は(元々も)"サンクトペテルブルク"だと知り、

さらに、そこはかつての
ロシア帝国の華やかな都だった街、
と知ったわけです。

そのギャップたるや!!

と言うわけで、
今回レニングラード、いや
今の名前はサンクトペテルブルク
に行くことなって、真っ先に奥さんに
「ここに行きたい!」と言って、

サンクトペテルブルク到着後、
どこよりも真っ先に向かったのが、
その悲惨な犠牲を出した戦い、
「レニングラード包囲戦」を今に伝える
「レニングラード包囲戦と防衛博物館」。
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サンクトペテルブルク到着後、真っ先に向かった博物館

戦争にほとんど興味ない奥さんから
OKをいただき、
どこよりも優先してやってきたわけです。

何しろ、自分のサンクトペテルブルクは
この「レニングラード包囲戦」なのですから。

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人類の歴史上、最も悲惨な
戦いのひとつ
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「レニングラード包囲戦」は
第二次世界大戦の時に
ナチスドイツによって引き起こされた
戦いの一つ。

レニングラードという
モスクワに次ぐソ連第2の都市が
ナチスによって包囲され、
900日に渡ってナチスの攻撃を防御し、
最終的には追っ払った、
という戦いです。

この戦いで何がそんなに
大変だったか、というと、

街は完全に囲まれ、
激しいドイツ軍の空爆や市街戦に加え、
食料・燃料などの物資補給が完全に絶たれ、
飢餓やロシアの寒さにより
とにかく甚大な犠牲者を生んだ、
ということ。

包囲戦前、レニングラードに
住んでいた人の数は約320万人。

そして、包囲戦で何と
約100万人が死亡。
(一説では150万人)

その数は、太平洋戦争時、
日本本土で亡くなった
民間日本人の総数より多いのです。

日本も東京大空襲や沖縄戦、
広島・長崎への原爆で
未曾有の被害を出しましたが、

それらを含めた日本全国の
民間人の犠牲者よりも、
一つの都市であるレニングラードでの
被害者の方が多かったのです。

レニングラード市民の
3人に1人が亡くなった
というわけです。

そんな戦いのことを
忘れないために、そして
広く世界に知ってもらうために作られたのが
こちらの博物館。

早速中に入ると、
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このような感じの館内

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ナチスのレニングラード侵攻・包囲について展示されています

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街はナチスによって完璧に包囲されました

完全に補給路を断たれたレニングラード。
1941年の9月に包囲されると、
悲劇はすぐにやってきました。

その年の秋、
包囲戦の備えをしていなかった街は
あっという間に食料が尽き、
食料品店からは食べ物が全て消え、
街には餓死者が現れるように。

そして、最悪な事態となったのが
その冬。

食料が尽きた街では
市民に配られた食料は
何と、1日125gのパンだけ。

125gとは、
以下の写真のパンの半分です。
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これが250gのパン。これで2日分の食料です

ほんの一欠片です。

しかも、パンを作るための
つなぎがなく、
仕方なく工業製品から
それを捻出。
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こんなものを使って、パンを作ってました

街にいる犬猫も全て食べてしまい、
しまいには人の、、、

そして、犬猫の肉を売る店が
出ただけでなく、
なんと、にんげ●の肉を売る店まで
あった、という話です。

食べられるものは
何でも食べて生き延びる。

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革製品だろうと何だろうと、食べられるものは何でも食べました

そんな状況に追い討ちをかけるように
ロシアの極寒が襲います。

レニングラードの冬は
マイナス20度以下。

燃料がなくなった街は
凍死者が続出。
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亡くなった方を運ぶトラックも燃料がなくて動かず、このように人の手で運んだようです

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このように、いたたまれない写真が多数展示されています

街には遺体がそこかしこに放置され
それはもう大変な状況だったようです。
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当時の様子を描いた絵も、たくさん展示されていました

特に子どもはかなり犠牲になったようで、
やせ細った子どもたちの写真が
たくさん張り出され、

また、かわいそうな最後を遂げた子たちの
話が、写真などどともに
書かれていて、

それをずっと読んでいた
隣のロシア人と思しきご婦人は
涙を流していました。

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そんな、
とても悲しい歴史がある
レニングラード(今はサンクトペテルブルク)。

西洋を凌ぐ美しい街並みですが、
実は私が歩いた道には
たくさんの亡くなった方が
いらっしゃったわけです。

上のビリー・ジョエルの歌は
戦時中レニングラードで生まれの1人の男性と、
戦後にアメリカで生まれた
ビリー・ジョエルという

冷戦で敵国同士となっていた
2人の人生が交わり、
そして、最後に抱き合う。

とても感動的な歌です。

ぜひ、一度お聞きになってみてください!!

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