ご訪問くださいまして、

有り難うございます(^^)

 

今回から、

もしアドラーが上司だったら

という本を紹介します。

 

著者は、

小倉広さんです。

 

任せる技術

任せるリーダーが実践している 1on1の技術

などの、

主に中間管理職向けの

ビジネス本を多く執筆されています。

 

アドラーと言えば、

すでに、お読みになった方も多いと思いますが、

岸見一郎先生の

大ベストセラー、

嫌われる勇気

が有名です!

(私の大好きな本です)

 

この本の著者、

小倉広さんも、

アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉

というベストセラーがありますが、

今回は、

もしアドラーが上司だったら

のほうを紹介します(^^)

 

もうすぐ30歳の、

広告代理店で営業マンとして働く

若者の前に、

アメリカの大学院でアドラー心理学を修めた、

とても人間味溢れる「ドラ」さん

(アドラーの分身?)

が、上司の課長として現れる設定です。

 

ドラさんはいいます。

「ボクは上司ではなく

キミたちの支援者だ。

だから、

命令はしたくない。

その代わりに

キミたちをできるだけ勇気づけたい」

 

「キミたちはクライアントの力になり

貢献することができるはずだ。

キミたちは仲間や会社の役に立つことができる。

ボクはそう信じている」

アドラー心理学の、

2つのキーワード

「勇気」と「共同体感覚」

を中心に、

物語が展開します。

 

ちなみに、

「勇気」を与える、

すなわち、

「勇気づけ」

とは、いわゆる、

「がんばれ!」

と励ましたり、

「よくできたね」

とほめることではないです(^^;

 

自分で自分を勇気づける。

そのために、

「できているところ」に注目する、

「できていないところ」には注目しない

ことがポイントだといいます。

 

続きは次回です(^^;

 

今回もお読みくださいまして、

有り難うございました(^^)

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます(^^)

 

6回にわたって、

五木寛之さんのロングセラー、

大河の一滴

で印象に残ったところを、

紹介してきました。

 

今回が最終回。

「悲しむ」がテーマです。

 

喜ぶことに対して、

悲しむことはマイナスである。

くよくよ悩んだり、

深刻に物事を受け止めたりすることは、

よくないことである。

笑うことは大切であるけれども、

涙を流したり泣いたりすることはよくない、

というふうに考えがちです。

 

けれども、

はたしてそうだろうか、と、

ぼくは思います。

本当は必ずしもそうでは

ないのではないか。

う~ん、

悲しい時は、

直面するのはつらいので、

そこから目をそらしたくなりますし、

特に男性は、

泣くのはみっともないという

固定観念がありますので、

ついつい、

やせ我慢してしまいがちです(^^;

(私は映画を観ながら、

よくやせ我慢します・・)

 

別の本で読んだのですが、

事故で両親が亡くなった時、

兄弟の中で、長男だけが、

「しっかりしなきゃ」

ということで、

悲しみをこらえて

泣かなかったケースがあったそうです。

 

弟や妹が号泣していても、

長男は我慢して泣かなかった。

 

そうしたら、

長男が大人になったら、

身近な人の死に対して、

ものすごく動揺して、

パニックになってしまうようになった。

 

ということが

のべられていました。

 

抑圧することなく、

悲しみの感情を出すというのは、

必要なんだと思います。

 

喜ぶのと同じように、

本当に悲しむことが大事なのです。

本当に悲しむというのは、

どういうことか。

自分のために悲しむだけでなく、

他人のために悲しみ、

涙を流すことでもあります。

 

たとえば、

ここにすごく苦痛に耐えながら

残りの人生を見据えて

苦しんでいる人間がいるとしたら、

その人間になにかしてあげたいと思う。

その苦痛を少なくしてあげたいと思う、

その人間の気持ちを回復させ、

癒してあげたいと思う、

だけど、

自分にはどうしようもない―

というときが人間にはあるのです。

 

なにを言っても無駄だ。

どんなに力を尽くしても、

その人の痛みや孤独感や苦しみを

たすけてあげることはできない。

目の前の相手をたすけることができないと

感じた時に

人間は、

なんともいえない深い絶望感とか

苦しみとか痛みとか

深い<悲しみ>を感じる。

そういう悲しみが、

ぼくはとても大切な悲しみなのではないかと

思ったりもします。

 

そういう悲しみによって逆に、

いきいきと活性化させられていく命もある。

心もある。

ぼくはそう信じているのです。

 

喜ぶことと悲しむことは

同じ人間の大事な感情である。

明るい気持ちになって、

すかっとした気持ちになることも大事である。

しかし、

本当に人間にとって重要なことを

深刻に悩むことによっても、

人間の自然治癒力とか、

命は活性化していくのだ、

というふうに、

ぼくは考えたい。

う~ん、

人間にとって重要なことから目を背けずに、

深刻に悩むことは、

ある意味、とても勇気のいることだと思います。

が、たしかに、

命は活性化するような気がします。

 

故、遠藤周作さんの言葉が紹介されています。

 

痛みとか苦しみを自分ひとりだけが抱え込んで、

他の人たちにはわかってもらえないという

孤立感のなかにあるとき、

その人間の痛みや苦しみは

二倍にも三倍にもなる。

というふうに、遠藤さんは言っておられました。

遠藤周作さんは、

別の本で、

ご自分が大病を患って入院された際、

 

「看護師さんが、苦しみに共感して、

手を握ってくれるだけで、痛みが軽減した」

 

というようなことを、

のべられていました。

 

相手の痛みを自分の痛みのように

感じることはできる。

相手の悲しみや絶望感を、

自分の悲しみや絶望として感じることは

人間だったら必ず自然にできるはずです。

それができるということが大事なのではないか、

と思います。

これ、まさに、

カウンセリングの世界ですね(^^;

 

そういうときの悲しみや絶望は、

それを感じとっている人間の命にとって

決してマイナスではなく、

むしろそれを感じることによって、

いま目の前に苦しんでいる人から

なにかを自分が分けてもらっているのではないか、

と思ったりするのです。

カウンセリングをすると、

カウンセラーが癒されることがあるというのは、

こういうことなのですね。

 

仏教の、

<布施行>という言葉が、

紹介されています。

 

他人になにかを捧げることで

自分に幸せがもどってくるという

考え方です。

 

相手の苦しみ、痛みに共感することも、

<布施行>

なのだと思います。

 

もちろん、

相手ではなく、

自分自身の苦しみ、痛みを受容することも(^^)

 

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久しぶりに、

大河の一滴

を読み返してみて、

改めて、

若い頃にはピンとこなかった

この本の「深さ」

を味わうことができました(^^;

 

初版は、

20年以上も前ですが、

今の時代、

再ブレイクしているのも頷けます。

 

本質的なものは、

長く売れ続けるんですね(^^)

 

今回もお読みくださいまして、

有り難うございました。

 

次回は、別の本を紹介します(^^;

ご訪問くださいまして、

有り難うございます(^^)

 

五木寛之さんのロングセラー、

大河の一滴

で印象に残ったところを、

紹介しています。

 

今回で、5回目になります(^^;

 

<あれか、これか>

という二者択一ではなく、

<あれも、これも>

という包括的な生き方をするほうが

いいのではないか―

ということなのです。

本には、

デンマークの哲学者キルケゴールの

「あれか、これか」

という著書のタイトルが紹介されていますが、

この、「白、黒はっきりさせる」

というのは、

いかにも西洋的な発想ですよね。

 

私は、若い頃、

(いや、今でも少しありますが)

「白、黒はっきりさせる」

というのは、ある意味、

決断力があって、男らしいという感じがして、

ちょっと憧れていました(^^;

 

対して、

「あれも、これも」

というのは、東洋的な発想ですよね。

 

私は、最近、

こちらのほうに、

より共感するようになってきました。

 

ぼくもまた無意識のうちに、

いつも

<あれか、これか>

の選択をしてきたという覚えがあります。

しかし、

あれか、これかを選択するのは、

ぼくのような生来なまけ者で

いいかげんな人間にとっては、

大変な苦痛なのです。

はたして、

これをとって、

あれを排除し切り捨てていいものなのだろうか。

同感です(^^;

 

そして考えたのが、

<あれか、これか>

の選択をせずに

生きてゆけないものか、

ということです。

<あれも、これも>

人生に大切なこととして抱え込んだら、

どうなるのか。

 

光があれば影があり、

プラスがあればマイナスがある。

生があれば必ず死がある。

人間の生命の本質は、

これら両極のものが混ざりあったところに

あるのではないでしょうか。

 

あれもこれも、

と抱えこんで生じる混沌を認め、

もう少しいいかげんになることによって、

たおやかな融通無碍(ゆうずうむげ)

の境地をつくることが、

枯れかけた生命力を

いきいきと復活させることに

なるのではないでしょうか。

そうですね。

<あれも、これも>

のほうが人生楽しめそうですね(^^)

 

ちなみに、

「融通無碍」(ゆうずうむげ)

 

ちょっと難しい言葉ですが、

調べたら、

行動や考えが何の障害もなく、

自由で伸び伸びしている。

という意味でした(^^;

 

ちなみに、パナソニックの創業者、

松下幸之助さんは、

素直な心の動きのひとつが、融通無碍。

たとえば、

「流れる水は、

いかなる障害物に出会おうとも少しも苦にせず、

サラリと回って流れ続けます」

とおっしゃっています。

 

本には、

多田富雄さんの、

「免疫の意味論」

が、紹介されています。

 

免疫というシステムは、

異物を拒絶するだけでなく、

実は、その異物と共存する作用も

もちあわせているといいます。

 

たとえば、

母親の胎内にできた新しい子どもの生命は、

母親という<自己>にとっては、

<非自己>なのですが、

それがどうして拒絶されないかといえば、

免疫の中に

<トレランス>(寛容)

というはたらきがあり、

単になんでも排除するだけでなく、

自己のなかに非自己を共存させていく側面も

じつはもっているというのです。

 

この免疫系の<寛容>というはたらきから、

世の中の問題を考えていくと、

意外な光景が見えてくるような気がします。

今、新型コロナの時代、

自粛警察という言葉もあるように、

どうしても、ぎすぎすしがちな世の中ですが、

そんな時代だからこそ、

<寛容>

という精神も大切なのかもしれません。

(もちろん、最大限の予防が必要なのは

いうまでもありませんが)

 

あれもこれも、

生も死も、

光も影も、

喜びも悲しみも、

みんな抱えこんで生ずる混沌を認め、

もう少しいいかげんに行儀悪くなって、

たおやかな融通無碍の境地をつくることが、

枯れかけた生命力をいきいくと復活させ、

不安と無気力のただよう時代の空気に

エネルギーをあたえることに

なるのではないか。

時代の空気だけでなく、

私たち個々の心の中も、

同じ事が言えると思います(^^)

 

心の中の混沌を認め、

さまざまな感情を感じて味わうことができれば、

生きる力が少しずつ

湧いてくるような気がします。

 

 

今回もお読みくださいまして、

有り難うございました。

 

次回へ続きます(^^;

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます(^^)

 

今回で4回目になりますが、

五木寛之さんのロングセラー、

大河の一滴

で印象に残ったところを、

紹介しています。

 

今回は、

私が若い頃は、

なかなか受け入れられなかったところ、

(今はだいぶ受け入れられるようになりました)

を紹介します(^^;

 

「人間はただ生きているというだけですごいのだ」

 

というところです。

 

私は人間の価値というものを、

これまでのように、

その人間が人と生まれて努力したり

がんばったりして

どれだけのことを成し遂げたか―

そういう足し算、引き算をして、

その人間たちに成功した人生、

ほどほどの人生、

あるいは失敗した駄目な生涯、

というふうに、

区分けをすることに疑問を持つようになりました。

う~ん、

私は、2~30代のころまでは、

このような考え方は、

怠惰を正当化して、努力や向上心を奪ってしまう、

いわゆる

「なまけもの」

の考え方だと思っていました(^^;

 

やっぱり、努力して、

功成り名を遂げるのは、

価値があるのではないか、と。

 

たしかに人間にとって、

愛と正義と勇気と努力をもって

世のため人のために尽くし、

そして名誉や富や社会的地位を得たり、

あるいは科学上の大きな発明を成し遂げたり、

大冒険を成功させたりする、

そして世の中から拍手で

ヒーローとして迎えられるというのも

すばらしいことではありますが、

さして人間の価値とは関係がないのではないか、

と、たいへん乱暴なことを

少しずつ考えるようになってきたのです。

そうですね・・・

たしかに、

「世のため人のため」

に尽くすのは、

すばらしいことだと、

今でも思います。

 

たとえば、

稲盛和夫さんの本を読むと、

感化されますし、憧れの気持ちも湧いてきます。

 

私も、自分の仕事を通じて、

少しでも、

「世のため人のため」

に尽くしたいと思っています。

 

自分自身の成長のためにも。

 

しかし、

そのような

「世のため人のために尽くすこと」

ばかりが、

価値のあることではない、

と近年、考えるようになりました。

 

世の中、そんなに単純ではない。

 

人それぞれ、役割があり、

それぞれの価値観で生きている。

 

テレビで、

「家ついて行ってイイですか」

という番組を何度か観て感じたのですが、

人それぞれ、

ほんと

「人生いろいろ」

だなあと。

 

人生にちょっぴり後悔している人、

子どもに対して負い目がある人、

マニアックな趣味をもっている人、

夢をあきらめきれずにいる人、

・・・

 

いわゆる、

社会通念としての成功者は、

あまり登場しないのですが、

「人生いろいろ」の中で、

自分なりの人生を、懸命に生きている。

 

本人が幸せを感じているかは分かりませんが、

でも、何だか、とても愛おしさを感じます。

 

「人生いろいろあってもいいんだな」

 

と思えます。

 

最近では、

人間の値打ちというものは、

生きている―

この世に生まれて、

とにかく生きつづけ、

今日まで生きている、

そのことにまずあるのであって、

生きている人間が何事を成し遂げてきたか、

という人生の収支決算は、

それはそれで、

二番目くらいに大事に考えていいのではなかろうか、

と思うようになりました。

生きていることだけでも、

いかに大切かの例として、

一本のライ麦の根の長さの話が

紹介されています。

 

根の長さの総量、総延長数は、

なんと、

1万1千二百キロメートルにもなるんですね!

(シベリア鉄道の1.5倍)

 

命をささえるのは、

それだけ大変な営みなんですね。

 

一本のライ麦でさえ、

そうなのですから、

ましてや、一人の人間が生きるということは、

どれほど地球にささえられているか、

そして、何より、

自分の命がどれだけ頑張っているか。

 

私たち、皆、同じですよね。

 

日本メンタルファウンデーション・コーチ協会

代表理事の野口嘉則先生から学んだ、

コーチ、カウンセラーとして、

共感力を高めるためのエクササイズがあります。

 

「この人も私と同じだ。幸せでありたいと願っているんだ」

「この人も私と同じだ。苦痛を避けたいと願っているんだ」

「この人も私と同じだ。人生を通じて学んでいるんだ」

 

毎日5人以上の他人に対して

心の中でつぶやくというものです。

 

おすすめします!

是非、やってみてください。

 

私も、

このような学びを通じて、

人を裁いたり、批判したりする気持ちが、

だいぶ薄れてきたという実感があります。

 

そうなると、

何より、自分自身が、生きやすくなってきます(^^;

 

次回に続きます。

今回もお読みくださいまして、

有り難うございました(^^)

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます(^^)

 

五木寛之さんのロングセラー、

大河の一滴

で印象に残ったところを、

紹介しています。

 

今回は、

テレビでも取り上げられていた、

屈原(くつげん)の話、

「滄浪(そうろう)の水が濁るとき」

を紹介します。

 

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古代中国に、

屈原という人がいました。

 

優秀な役人でしたが、

清廉潔白すぎて、周囲の反発を買い、

辺地を流浪する身になりました。

 

長い流浪の歳月に疲れ、

裏切られた志に絶望した屈原は、

よろめきながら滄浪という

大きな川のほとりにたどりつく。

 

彼が天を仰いで

濁世をいきどおる言葉を天に吐きながら

独り嘆いていると、

ひとりの漁師が船を寄せてきて、

 

身分の高いかたのようだが、

どうなさいました、

とたずねる。

 

そこで屈原は答えた。

 

いま世間は、

あげて皆すべて濁りきっている。

濁世のきわみだ。

そのなかでこれまで

自分はひとり清らかに正しく生きてきた。

 

そしてまた人びとはいまだに、

みな酒に酔いしれているような有様だが、

そのなかで自分はひとり醒めているのだ。

 

だからこそ、

私はこのような目にあって官を追われ、

無念の日々を送っているのだ、と。

 

それを聞いた漁師は、

うなづきながらふたたび屈原にたずねる。

 

たしかにそうかもしれません。

しかしあなたは、

そのような濁世にひとり高く

おのれを守って生きる以外の道は、

まったくお考えにならなかったのですか。

 

屈原は断固として答えた。

 

潔白なこの身に

世俗の汚れたちりを受けるくらいなら、

この水の流れに身を投じて

魚の餌になるほうがましだ。

それが私の生き方なのだ、と。

 

すると漁師はかすかに微笑み、

小舟の船ばたを叩きつつ歌いながら

水の上を去っていった。

 

その漁師の歌は、

次のように語り継がれている。

 

(訳文のみ)

 

「滄浪の水が清らかに済んだときは

自分の冠のひもを洗えばいい

もし滄浪の水が濁ったときは

自分の足でも洗えばよい」

 

 

皆さんは、

どうお感じになられたでしょうか?

 

 

私は、若い頃なら、

屈原に共感したかもしれません。

今でも、

「信念を貫くのはかっこいい」

と憧れる気持ちはあります。

 

しかし、

今なら、やっぱり、

漁師の歌に、

共感を覚えます(^^;

 

「生きる」

ということは、

清濁を受け入れること。

 

清と濁

陰と陽

苦と楽

プラスとマイナス

ポジティブとネガティブ

天使と悪魔

天国と地獄

光と影

強さと弱さ

・・・

 

両方を受け入れること。

そして、

振り子のように揺れながらも、

その時、その時で、

最善のことをする。

 

それが、

本当の意味で、

生きるということ、

そして、

自己実現につながるのだと

思います。

 

 

屈原は、

結局、自分の理想を貫き、

投身して死ぬことになります。

 

キリシタン弾圧で、

信念を貫き、

殉教した信者を想起します。

 

踏み絵を踏んで、

生き残った信者もいます。

 

遠藤周作さんの小説にも、

根底にテーマが流れていますが、

踏み絵を踏んで生き残った、

名もなき多くの信者たちも、

それはそれで、

意味のある生き方だと思います。

 

ある意味、

自分の影を受け入れたのですから。

 

幸いにも水が澄んだら

自分の大切なものを洗えばよい。

魂を洗うこともよし、

またおのれの顔を洗うもよし。

 

そして水が黄色く濁ったとしても、

なにも茫然と立ちすくんで

怒り悲しむ必要もないではないか。

 

足元を見るがいい。

ほれ、

おまえさんのその足は泥の上を歩いて、

いつのまにか汚れて泥もこびりついている。

たとえ濁った水といえども、

その自分の汚れた足を洗うには

十分というものだ。

 

それともあんたは、

自分の体のどの一部も、

ちりひとつついていない玉のような

清らかな存在だとでも考えているのかね。

 

長年、生きていれば、

多かれ少なかれ、

足元が汚れてきますよね。

 

今、この時代、

日頃支えてくれている足元をねぎらい、

汚れた足を洗うのも、

いいかもしれませんね。

 

私は、足どころか、

体じゅうが、

だいぶ汚れてきましたが(^^;

 

今回も、

お読みくださいまして、

有り難うございました。

 

次回に続きます(^^;