ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

日々、少しずつ日が長くなってきている

感じがしますね😊

 

今、話題の新書、

堤未果さんの

 

デジタル・ファシズム: 日本の資産と主権が消える

 

 

を紹介しています。

 

海外の巨大テック企業によって、

日本の「行政」「金融」「教育」が

支配される怖れがあると、

警鐘を鳴らしている本なのですが、

 

その中でも、

「教育」の箇所にフォーカスして、

引用しながら、

紹介、解説をしています。

 

文科省の公式HPの動画の中で、

女の子がこんなセリフを口にしています。

 

 

「タブレットがないと、

全部自分の頭で

考えないといけない。

 

でもこれ

(タブレット)があれば、

間違えた時すぐ説明されて、

前に進んでいけるんです」

 

 

なるほど、

タブレットだと、

間違えた時、

すぐに説明してくれる・・・

 

 

タブレットの中に

組み込まれた学習アプリが、

立ち止まって考える間もなく、

すぐに間違いを正してくれ、

その子の

理解の度合いに合わせた

次のステップに

誘導してくれる。

 

こうした個別の学習ソフトは、

デジタル教材の

目玉の一つとして

宣伝されている。

 

だがその効果に関しては、

賛否両論あるのが現状だ。

 

 

たしかに、

便利な反面、

タブレットに依存しすぎると、

自分の頭で考えられなくなるような

危険性があるかも・・・

 

言語脳科学者で

東大大学院の酒井教授は、

こう述べています。

 

 

紙の教科書と違い、

液晶画面で読むものは、

空間的な手がかりが

つかみにくいため

 

記憶に残りにくいこと、

 

ネット検索で情報過多になり、

考える前に

すぐ検索してしまい

頭を使わなくなること、

 

そしてメモを取る能力と

字を書く能力、

 

そして内容を咀嚼する能力が

落ちてしまうことだ。

 

 

「考える前にすぐ検索してしまい、

頭を使わなくなること」

 

うーん、これは、

私自身にも当てはまります(^^;

 

わからなければ、

考えることなく、

すぐグーグル先生で検索・・・

 

もちろん、

これは、ネット検索技術の

最大の恩恵のひとつで、

ものすごく有り難いことですし、

わからないままにするよりは、

断然いいのですが、

 

たしかに、

頭はあんまり使わなくなるかも(^^;

 

記憶の定着度に関しても、

たとえば、

手帳、タブレット、スマホに

それぞれスケジュールを

書き込むのを比較すると、

手帳に書き込むのが、

やはり記憶力が優位に働くようです。

(MRIの脳活動の測定結果による)

 

酒井教授はこう述べます。

 

 

「デジタル文字が

綺麗に並んでいる

タブレットを見ただけで、

わかったような気に

なってしまう。

 

一方、

自分が書いた文字は

不完全なので、

自ら考えて

結論を出さなくては

なりません」

 

教科書に

付箋をつけることも含めて、

その学習プロセスにこそ

意味がある。

 

 

学習プロセスを踏むことが、

考えることにつながり、

記憶も定着する・・・

 

実感として、分かる気がします(^^;

 

やはり、記憶に定着されるためには、

書くことが大事。

 

私は、最近、

スマホやノートパソコンで

メモを取ることが多くなりましたが、

(手帳は、まだ紙を使っていますが)

 

手書きで書くことも大切にしたいと

改めて思いました。

 

今、教科書のデジタル化の是非が

議論されていますが、

 

紙をなくすのではなく、

デジタル、紙のそれぞれの利点を生かして、

併用していくのが、

最も、子どもたちにとって

利点が多いような気がします。

 

 

本書には、

「待つことの価値」

も述べられています。

 

著者の体験談を引用します。

 

 

クラスに

計算がとても遅い

Tくんという子がいた。

 

毎回計算にすごく

時間がかかるのだが、

その間他の生徒は

いつも先生にこう言われて

待たされていた。

 

「T君が終わっていないから、

みんなちょっと待っていて」

と。

 

この時の

「待つ」という体験に、

これほど価値を感じる時が

来るとは、

あの時は思いもしなかった。

 

今の教育は

先生だけでなく、

親も待てなくなっている。

 

待てないからすぐに結果を求め、

それを子供が出せないと、

自分自身まで責めてしまう。

 

今、母親による虐待が

ニュースになると、

SNSにはすぐに

母親を責める声が溢れる。

 

けれどそこで立ち止まり、

「なぜそこまで

追い詰められたのだろう?」

と想像力を駆使してみると、

別の思いが浮かんでくる。

 

他人に助けを求められず、

すぐに結果を出せない自分を

自分自身が待ってあげられず、

焦るあまりに

子供を虐待してしまったのかも

しれない、と。

 

社会全体が待てなくなってきている。

 

スピードこそが

価値を持つ世界の中で、

私たちは

「早くしないと置いていかれる」

と急がされる。

 

デジタルが

社会生活の中心になると、

ますますそれに歯車が

かかるだろう。

 

 

私自身、耳が痛いです(^^;

 

私は、どちらかというと、

もともと、

せっかちなタイプなような気がしますが、

最近、特に、

待てなくなってきたという自覚があります。

 

ネット検索で、

ほんの数秒、ぐるぐる待たされるだけで、

「遅い・・・」と感じてしまったり、

 

駐車場の出口の精算で、

もたもたしている人がいると、

特に急いでいる訳でもないのに、

ちょっとイライラしてしまったり・・・

 

せこい話ですみません(^^;

 

 

教室では、

自分とは違う能力を

持っている人がいる。

 

でも計算が遅い子が、

例えば図画の授業では

自分や他の子よりも

絵がうまかったりする。

 

だからそこで切り捨てず、

「この子はこれが苦手だけど、

それも一つの個性だね」

と認めて待てる先生を

作り出す環境を学校が与え、

社会がそれを

受け入れられるかどうか。

 

そうした「公教育の精神」と

デジタルの間の溝や軋みが、

これから次々に

露呈してくるだろう。

 

 

そうですね・・・

 

あまりにもデジタルによる

効率性が重視されると、

教室という名の空間における

「多様性」というものが、

失われる可能性があるような気がします。

 

デジタルを、

「多様性を尊重する」方向で、

うまく活用できればいいですね。

 

 

今や公民館や図書館も、

街の本屋もどんどん減って、

多様な人が集まれる場所が

次々に消えている。

 

地域コミュニティーも

機能していないところが多く、

子供だけでなく

大人にとっての

パブリックなプラットフォームまで、

私たちは失いつつある。

 

色々な立場の、

自分とは違う考えを持つ他者と

同じ空間にいることが、

自分だけでなく

社会にとっても大切なのは、

想像力を使って、

他者に共感する訓練を

せざるを得ないからだ。

 

子供は、

「こいつ変な奴だな」

と思っても、

物理的に同じ空間にいることを

受け入れる。

 

それによって

他者への想像力や、共感力、

待たせることと許されること、

それらを体験するうちに、

いつしか海の向こうの

見知らぬ誰かの痛みまで、

心で感じる力が

育まれていく。

 

 

なるほど・・・

 

多様な人と空間を同じくすることが、

想像力や、共感力、受容力を養うことになる。

 

子供たちは、もちろんのこと、

私たち、大人もそうですね。

 

それが、

身近なところから広がって・・・

 

いつしか、海の向こうの、

見知らぬ誰かの痛みまで、

感じる力となる・・・

 

 

「教育」をテーマに、

解説してきましたが、

 

私自身の「あり方」についても、

いろいろと考えさせられました(^^;

 

 

 

-----------------------------------------

 

 

 

以上、3回にわたって、

堤未果さんの

 

デジタル・ファシズム: 日本の資産と主権が消える

 

 

を紹介してきました。

 

この本は、

海外の巨大テック企業によって、

日本の「行政」「金融」「教育」が

乗っ取られる脅威があると

述べられているのですが、

 

「行政」「金融」については、

触れられなかったので、

興味がある方は、

是非、本書をお読みください。

 

なかなか刺激的でおもしろいですよ!

 

今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました😊

 

次回は、別の本を紹介いたします。

 

 

 

--------------------------------------------

 

 

 

おまけ

 

平日の金曜日に休みが取れました!

天気もよかったので、

ぶらっと鎌倉を散策しました(^^)

 

 

 

杉本寺、

十一面観音さまがいらっしゃいます。

 

本堂の中には(コロナの影響?で)入れなくて残念。

 

 

 

 

宝戒寺、

素敵な地蔵菩薩さまがいらっしゃいました。

 

 

 

 

鶴岡八幡宮、

いつも混んでいますが、

平日のせいか割と空いていました。

 

(土日は、大河ドラマの影響もあり、

混みあうかもしれませんね)

 

 

 

 

梅(?)が咲いていましたよ。

春の足音が聞こえますね😊

 

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

前回から、

今、話題の新書、

デジタル・ファシズム: 日本の資産と主権が消える

 

 

を紹介しています。

 

海外の巨大テック企業によって、

日本の「行政」「金融」「教育」が

支配される怖れがあると、

警鐘を鳴らしている本なのですが、

 

今回は、

「教育」の部分にフォーカスして、

紹介・解説していきたいと思います。

 

 

今、日本政府は、

「GIGAスクール構想」

に力を入れています。

 

この構想は、

生徒一人一台のタブレットの支給や、

全国の小中学校に、

高速大容量のインターネット環境を

整備するというものですが、

 

コロナ禍の影響もあって、

タブレットの普及は前倒しになり、

多くの自治体では、

なんと、一人一台が

実現しているんですね!

 

コロナ禍のご時世、

それはそれで、

利便性があるのですが、

この本を読んでいると、

いろいろと問題もあるように

思えてきます。

 

たとえば、

福岡県久留米市の場合、

グーグルのOSを搭載した

クロームブックを

一人一台導入しましたが・・・

 

 

生徒がタブレットを

使うたびに、

情報がどんどん蓄積され、

個人の「プロフィール」

が作られていく。

 

グーグルは通常

これらの情報と

他のデータベースに

蓄積され情報を

組み合わせることで、

正確で詳細な

個人のプロフィールを分析し、

加工し、商品化して

利益を上げている。

 

インターネットの

閲覧履歴ほど、

人の関心の優先順位が

わかる情報はない。

 

グーグルは

検索履歴や

訪問履歴をもとに、

利用者が最も関心を

持ちそうな広告を

プラウザ上に表示するのだ。

 

 

私たちのパソコンやスマホも

そうですよね。

 

私たち大人は、

グーグル先生から、

多大なる恩恵を享受しているので、

広告が出るのは止むを得ないかと

思いますが(^^;

 

ただ、公教育で使用する

タブレットの場合は、

広告はもちろんのこと、

そこから個人情報を収集するのは、

ちょっと問題だと思います。

 

しかし、実態としては、

個人情報の保護ルールは、

しだいに緩められているようです。

 

 

生徒一人一人の

理解度に合わせた

個別学習プログラム実施には、

タブレットを利用する個人が

特定される必要があるため、

今回の個人情報保護ルールに

関わる改正法が、

2022年から2023年

にかけて

段階的に施行されるのだ。

 

 

「生徒一人一人の理解度に合わせた

個別学習プログラム」

 

というのは、

これからの「個」の時代に対応する、

デジタルの特性を生かした、

すばらしい仕組みだと思います(^^)

 

が、しかし、

そのために、

個人情報の保護が

おろそかになり、

営利目的で使われてしまう

可能性があるというのは、

どうなのでしょうか。

 

今、「教科書のデジタル化」も

検討されているようですが、

それに関しても、

著者が問題を提起しています。

 

 

デジタル教科書を

使う頻度と反比例するように、

教師の多様性が

不要になっていくことだ。

 

問題と答えが

パッケージで差し出される

デジタル教科書を前に

教師が求められるのは、

授業を面白くする工夫でなく、

タブレットを使いこなす

技術だからだ。

 

 

教師に求められるのは、

タブレットを使いこなす技術・・・

 

それでは、悲しすぎますね😢

 

たしかに、

今、教師のデジタル・リテラシー不足が、

問題になっているようですが、

それは、本質からは

ズレているような気がします。

 

 

教師の多様性が

なくなれば、

次は当然、

その数(教師の数)を

減らしましょうという

流れになるだろう。

 

 

うーん・・・

 

デジタル庁設立の中枢にいる、

ある企業の会長は、

こう述べます。

 

 

オンライン授業を

主流にしていくと、

教員の数は

今よりずっと

少なくて済むと言う。

 

一人の優秀な教師が

大勢の生徒たちを

遠隔で教えられるからだ。

 

人手が足りない

過疎地の学校も、

少数の教師が

オンライン授業をすれば、

廃校にせず存続させられる。

 

<究極的には

通常の知識を教える教師は

各教科に全国で一人いれば

よいのです>

 

 

各教科に全国で一人いればよい・・・

 

・・・もう30年以上前のことを、

思い出したのですが、

 

私が通っていた予備校で、

サテライト授業というものが

始まりました。

 

本校の有名講師の授業を、

衛星放送でつないで、

全国どの校舎でも大画面で見られる

というものでした。

 

試しに受講してみたのですが・・・

 

有名講師なので、

講義は面白いはずなのですが、

画面越しだと、なかなか集中できず、

眠くなってしまい・・・(笑)

 

やっぱり、

リアルがいいなと

思った次第なのですが(^^;

 

ましてや、

予備校ならともかく、

公教育の場で、

しかもタブレットの

液晶画面上となると、

どうなのかと思いますが、

 

(でも、意外と、

今の子どもたちには

違和感ないのかなあ?)

 

 

優秀な教師が

オンラインで授業を行うのを、

全国の子供たちが

液晶画面で見るという

スタイルによって、

教育の平等が実現する。

 

日本全国どこにいても、

優秀な教師から学びチャンスが

子供たちに平等に

与えられるというのだ。

 

その結果、

(現場の)教師の仕事は

教えることではなく、

動画の内容を

生徒が理解しているかを

チェックすることに

変わっていく。

 

 

たしかに、

教育の平等が実現するのは、

いいことかもしれませんが、

しかし、それでは、

現場の教師の本来の役割が、

損なわれるような気がします。

 

 

人間は対面で

触れ合うことで初めて、

共感を育む脳機能が

オンになるという。

 

教える側に多様性が

必要ないならば、

教育はもはや一方通行の

「情報」だ。

 

パンデミックによって

世界各地で

オンライン教育が

実施されたが、

YouTubeで動画を見ているのと

何が違うのか、

 

という不満の声が

あちこちから上がっている。

 

 

「人間は対面で触れ合うことで初めて、

共感を育む脳機能がオンになる」

 

同感です(^^)

 

コロナ禍のマスクの影響で、

子供たちが、

表情から感情を読み取れなくなって、

共感能力が低下しているという記事を

読んだことがありますが、

 

マスク越しでさえ、

そうなのですから、

ましてや、

画面越しでは、

なおさらのような気がします。

 

小中学生の時には、

教師と対面でじかに触れ合ってこそ、

共感能力が育まれるのではないかと

思います。

 

もちろん、

パンデミックなどで非常事態の際には、

オンライン教育も有効な手段だと

思いますが、

 

しかし、通常時には、

教師と子供たちの触れ合いを基本とする。

 

少なくとも、

デジタルに偏重することなく、

リアルとのバランスをとる必要が

あるように思います。

 

 

次回に続きます(^^;

 

今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました😊

 

 

 

-----------------------------------------------------

 

 

 

おまけです(^^;

 

 

近所の鶴見川。

 

 

 

 

この時期になると、

毎年、黒くて頭の先だけが白いカモ?

(調べたら、オオバンという鳥のようです)

がたくさん飛来します🐤

 

素潜りが得意です。

(小魚を捕まえているのかな

→水草のようです)

 

鳴き声が可愛くて、癒されます😊

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

先日、ネットで、

ちょっといい話を目にしました(^^)

 

----------------------------------

 

ある女性が、

駅の自動改札を、

残高不足で止めてしまいました。

 

後ろには、おじさんがいます。

 

「すみません・・・」

 

舌打ちされるかと思ったら・・・

 

「いいよ~ん♪」

 

----------------------------------

 

何だか、ほっこりしました(^^)

私なら、言えないかも(^^;

 

こんなおじさんに、私はなりたい。

 

 

で、今回は、

今、話題の新書、

デジタル・ファシズム: 日本の資産と主権が消える

 

 

を取り上げたいと思います。

 

著者は、国際ジャーナリストの、

堤未果さん。

 

この本の表4(裏表紙)には、

こんなドキッとする

キャッチが載っています。

 

 

全国民必読!

日本の「心臓部」が

米中資本に売られる!

 

亡国のデジタル改革を

緊急レポート!

 

 

コロナ禍の裏で、

デジタル改革と名のもとに、

GAFA

(「Google」「Amazon」

「Facebook(現Meta)」「Apple」)

や、中国のファーウェイなどの

海外資本から、

行政、金融、教育といった

日本の中枢部が

狙われているというのですね。

 

本のプロローグでは、

こんな言葉が紹介されています。

 

 

「技術(テクノロジー)は

ある地点から、

専門家以外には

魔法と区別がつかなくなる」

 

一般大衆が

理解できていないことを

理解している少数の人々が、

大衆に対して支配的な力を

手にしてしまう、

ということだ。

 

例えば今、

私たちが放り込まれている、

高速で進化する

<デジタル>

という魔法のように。

 

 

たしかに、

今のデジタル技術の進化は、

私たちが子どもの頃の感覚だと、

まるで、

「魔法」のようですよね(^^;

 

普段は、

あたりまえになってしまって、

あまり意識しませんが、

よくよく考えて見ると、

たとえば、Wi-Fi(無線)で、

動画がふつうに見れることも・・・

 

不思議です(^^;

 

魔法としか言いようがありません。

 

(文系の私には、

どういうしくみなのか、

さっぱり分かりません)

 

子どもの頃は、

FAXでさえも、

「どういうことなんだろう?」
と魔法のように感じられましたが、

それどころではない・・・

 

・・・すみません、

アラフィフのおじさん丸出しですが(^^;

 

 

台湾の若きデジタル担当大臣

オードリー・タン氏はこう述べています。

 

 

社会がデジタル化

することによって、

民主主義が深まるという。

 

人々は

共感し合えるようになり、

オンラインで対話を

重ねながら、

同じ一つの問題を、

解決できるようになるはずだ、

と。

 

 

そうですね。

たとえば、ZOOMを使えば、

世界中どこの人とも、

気軽に対話ができる世の中です。

 

もちろん、

会議や商談もオンラインが可能となり、

おかげで、

テレワークが推進されました。

(やれば、できる!)

 

ほんと便利な時代になったものです(^^)

 

 

だが彼女はそこに、

ある一つの条件をつけた。

 

<ただし、決して

権力を集中させてはいけない>

 

 

デジタル社会は、

決して権力を集中させてはいけない。

 

たしかに、

デジタル社会というのは、

一部の権力者が、

簡単に、世の中を操作できる社会になる

危険性はあると思います。

 

個人情報の悪用、監視型社会、

一部の強者が大多数の弱者を支配・・・

 

SFでよく描かれがちな、

負の側面ですね。

 

そんな懸念事項が、

今や現実のものと

なりつつあるというのです。

 

 

総理自らがトップに立つ

「デジタル庁」の創設や、

教育や医療をはじめ、

街ごと全て5Gでつなぐ

「スーパーシティ」、

スマホに直接振り込まれる

キャッシュレス給与に

グーグルなどと提携した

オンライン教育。

 

デジタル技術が無駄をなくし、

必要な人に必要な支援が

行き渡ることで、

少子高齢化や地方の過疎化、

貧富の格差など、

今日本が抱える

いくつもの課題が、

解決されてゆくという。

 

だが本当にそうだろうか?

 

 

国が主導していることよりも、

米中の巨大テック企業に、

それを委ねようとしていることが、

問題のようです。

 

 

危機意識の薄い

デジタル改革担当大臣は、

 

「誰一人取り残されない

社会を作る」

 

などといいながら、

日本初のデジタル庁を、

早くも壮絶な

米中デジタル戦争に

丸腰で差し出そうとしている。

 

このまま何もしなければ、

私たち日本国民は、

文字通り

 

「誰一人取り残さず」

搾取されてしまうだろう。

 

(中略)

 

「今だけ金だけ自分だけ」

 

の強欲資本主義が、

デジタル化によって、

いよいよ最終ステージに入るのが

見えるだろうか。

 

(中略)

 

わかりやすく

暴力を使われるより、

便利な暮らしと引きかえに

いつの間にか選択肢を

狭まれてゆく方が、

ずっとずっと恐ろしい。

 

 

強欲資本主義を、

「今だけ金だけ自分だけ」

とは、言い得て妙だと思いますが、

 

たしかに、

便利な暮らしにあぐらをかいていたら、

いつの間にか

米中の巨大テック企業に

搾取されていた、

というのは怖いですね。

 

この本は、

危機感をあおるために、

かなり煽情的に書かれているところも

あるような気がしますが、

ただ、少なくとも、

そういったリスクがあるというのは、

事実だと思います。

 

本書では、

日本の行政、金融、教育が、

巨大テック企業に搾取されるリスクが

語られているのですが、

 

この中でも、

私が個人的に関心の高い、

「教育」について、

次回、引用、解説しながら、

私の意見も述べていきたいと思います。

 

--------------------------------------

 

次回に続きます(^^;

 

今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました😊

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

吉野源三郎さんのロングセラー、

 

君たちはどう生きるか

(岩波文庫)

 

 

を紹介、解説しています。

 

今回で4回目、最終回にします(^^;

 

前回は、

「石段の思い出」

という、

主人公のコペル君の

お母さんの体験談から、

私たちの罪悪感が救われるような

メッセージを紹介しましたが、

 

今回は、

それを受けての、

おじさんのNote

 

「人間の悩みと、過ちと、

偉大さについて」

 

について、引用しながら、

解説していきます。

 

 

僕たちは

人間として生きてゆく途中で、

子供は子供なりに、

また大人は大人なりに、

いろいろ悲しいことや、

つらいことや、

苦しいことに出会う。

 

もちろん、

それは誰にとっても、

決して望ましいことではない。

 

しかし、

こうして

悲しいことや、

つらいことや、

苦しいことに出会うおかげで、

僕たちは、

本来人間が

どういうものであるか、

ということを知るんだ。

 

 

悲しいこと、

つらいこと、

苦しいことに出会うおかげで、

本来人間がどういうものかを知る?

 

どういうことでしょうか。

 

 

心に感じる

苦しみや痛さだけではない。

 

からだにじかに感じる

痛さや苦しさというものが、

やはり、

同じような意味を持っている。

 

健康で、

からだになんの故障も

感じなければ、

僕たちは、

心臓とか胃とか腸とか、

いろいろな内臓が

からだの中にあって、

平生大事な役割を

務めていてくれるのに、

それをほとんど忘れて

暮らしている。

 

 

たしかに、

からだに何も異常がなければ、

内臓のことを、ふだん意識することは

まずないですよね(^^;

 

 

ところが、

からだに故障が出来て、

動悸がはげしくなるとか、

おなかが痛み出すとかすると、

はじめて僕たちは、

自分の内臓のことを考え、

からだに故障の

出来たことを知る。

 

からだに痛みを感じたり、

苦しくなったりするのは、

故障が出来たからだけど、

逆に、

僕たちがそれに気づくのは、

苦痛のおかげなのだ。

 

 

たしかに、私たちは、

苦痛のおかげで、

からだの故障にはじめて気づけます。

 

そう考えると、

苦痛も有り難いことなのかも、

しれません。

 

(だけど、あまりにも苦しいのは、

勘弁ですが(^^;)

 

 

同じように、

心に感じる苦しみやつらさは

人間が人間として

正常な状態に

いないことから生じて、

そのことを僕たちに

知らせてくれるものだ。

 

そして僕たちは、

その苦痛のおかげで、

人間が本来

どういうものであるべきかと

いうことを、

しっかりと

心に捕えることが出来る。

 

 

なるほど、

 

心に感じる苦しみやつらさも、

人として正常な状態でないことを、

知らせてくれる有り難いものだと

いうことですね。

 

そして、

人として本来どうあるべきかに、

気づくきっかけになる。

 

 

人間が本来、

人間同士調和して

生きてゆくべきもので

ないならば、

どうして人間は

自分たちの不調和を

苦しいものと

感じることが出来よう。

 

お互いに愛しあい、

お互いに好意をつくしあって

生きてゆくべきものなのに、

憎みあったり、

敵対しあったり

しなければいられないから、

人間はそのことを

不幸と感じ、

そのために苦しむのだ。

 

 

人が本来の姿でないときに、

苦しみを感じるということですね。

 

 

また、

人間である以上、

誰だって自分の才能をのばし、

その才能に応じて

働いてゆけるのが本当なのに、

そうでない場合があるから、

人間はそれを苦しいと感じ、

やり切れなく思うのだ。

 

 

本来の才能(個性)を

発揮できないときも、

苦しくなる・・・

 

 

人間が、

こういう不幸を感じたり、

こういう苦痛を覚えたり

するということは、

人間がもともと、

憎み合ったり敵対したり

すべきものではないからだ。

 

また、元来、

もってうまれた才能を

自由にのばしてゆけなければ

ウソだからだ。

 

およそ人間が

自分をみじめだと思い、

それをつらく感じるということは、

人間が本来

そんなみじめなもので

あってはならないからなんだ。

 

コペル君。

 

僕たちは、

自分の苦しみや悲しみから、

いつでも、

こういう知識を

汲み出して来なければ

いけないんだよ。

 

 

なるほど・・・

 

つまり、

人が何か苦しみを感じている

ということは、

本来の自分自身でないという

サインであるということですね。

 

「この苦しみとは、

いったい何なんだろう?」

 

と自問自答する。

 

苦しみの原因を直視することは、

しんどいこともあるかもしれませんが、

勇気をもって、見つめたいですね。

 

(一人ではしんどいときは、

カウンセラーの力を借りることも

手だと思います(^^;)

 

以前にも紹介させていただきました、

神との対話

 

 

という本には、

 

 

人生には、

ほんとうの自分でない面を

示すことで、

ほんとうの自分を

証明することを

要求されることが

何度かある。

 

(神との対話1巻より引用)

 

 

という印象的なフレーズがありますが、

同じようなことを言っているのかと思います。

 

君たちはどう生きるか

に戻ります(^^;

 

 

・・・そういう苦しみの中でも、

一番深く僕たちの心に突き入り、

僕たちの眼から

一番つらい涙を

しぼり出すものは、

 

―自分が

取りかえしのつかない

過ちを犯してしまったという

意識だ。

 

自分の行動を振り返って見て、

損得からではなく、

道義の心から、

「しまった」

と考えるほどつらいことは、

恐らくほかには

ないだろうと思う。

 

 

そうですね、

 

道義の面、

言い換えると、

 

「自分の心の弱さ」から

犯してしまった過ち・・・

 

コぺル君は、

それを犯してしまったわけですが。

 

私自身も、

今まで生きてきて、

たくさん経験してきました・・・

 

つい、目をそむけたくなりますが(^^;

 

 

そうだ。

 

自分自身そう認めることは、

ほんとうにつらい。

 

だから、

たいていの人は、

なんとか言訳を考えて、

自分でそう

認めまいとする。

 

しかし、

コペル君、

自分が過っていた場合に

それを男らしく認め、

そのために苦しむということは、

それこそ、

天地の間で、

ただ人間だけが出来る

ことなんだよ。

 

 

そうですね、

自分の過ちを認めることは、

なかなかつらいです。

 

ついつい、言い訳や自己弁護をしたくなる・・・

 

「あの時は仕方がなかったんだ・・・」

と。

 

しかし、

過ちを直視して、

それを受け入れつつ、

乗り越えることができれば、

人は成長できます。

 

次に生かせます。

 

 

人間である限り、

過ちは誰にだってある。

 

そして、

良心がしびれて

しまわない以上、

過ちを犯したという意識は、

僕たちに苦しい思いを

なめさせずにはいない。

 

しかし、

コペル君、

お互いに、

この苦しい思いの中から、

いつも新たな自信を

汲み出してゆこうではないか、

 

―正しい道に

従ってゆく力があるから、

こんな苦しみもなめるのだと。

 

 

----------------------------

 

 

「誤りは真理に対して、

ちょうど睡眠が目覚めに対すると、

同じ関係にある。

 

人が誤りから覚めて、

よみがえったように

再び真理に向かうのを、

私は見たことがある。」

 

これは、ゲーテの言葉だ。

 

僕たちは、

自分で自分を決定する力を

もっている。

 

だから誤りを犯すこともある。

 

しかし―

 

僕たちは、

自分で自分を決定する力を

もっている。

 

だから、

誤りから立ち直ることも

できるのだ。

 

 

「僕たちは、

自分で自分を決定する力を持っている」

 

・・・勇気づけられますね😊

 

 

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以上、4回に渡って、

吉野源三郎さんのロングセラー、

 

君たちはどう生きるか

(岩波文庫)

 


の内容の一部を、

私の印象に残った箇所を引用しながら、

紹介してきました。

 

物語の部分は、

ネタバレになるため、

あまり紹介できなかったので、

ちょっと抽象的で理屈っぽい内容が、

多かったような気もしますが(^^;

 

ストーリーの部分は、

古き良き時代を彷彿させる感じもして、

なかなか読ませますよ!

 

忘れてきた何かを、

思い出させてくれるような本だと思います。

 

ご一読をおすすめします😊

 

なお、

主人公の「コペル君」

というあだ名は、

地動説で有名な

コペルニクス

から来ているのですが、

 

他にも、

似たような名前の人がいたような気が・・・

 

そうです。

 

同じくポーランド出身の聖人

コルベ神父

です。

 

コルベ神父に関しては、

過去ブログ、

 

 

で詳しく紹介しましたので、
よかったらご覧ください。
 
この本が執筆された1937年当時は、
まだ、コルベ神父が
アウシュビッツで殉教される前ですので、
コルベ神父を意識されたとは思えないのですが、
 
「コペル君」の
「べ(ペ)」と「ル」がひっくり返って、
「コルベ神父」
 
「誤り」と「真実」は
コインの裏表・・・
 
という、
今回のブログのテーマに、
不思議と、通ずるものがある。
 
と、勝手にこじつけてみました(^^;
 
 
--------------------------------------
 
 
今回も、
最後までお読みくださいまして、
有り難うございました😊
 
次回は、
別の本を紹介します。
 
 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

吉野源三郎さんのロングセラー、

 

君たちはどう生きるか

(岩波文庫)

 

 

を紹介、解説しています。

 

今回で3回目になります(^^)

 

この本は、

旧制中学(今の高校生くらい)の学生である、

コペル君が、

学校での様々な出来事によって

成長していくという物語なのですが、

 

その中で、

ある雪の日に、

コペル君にとって、

とてもショッキングな出来事が

起きるんですね。

 

どんな出来事かというと・・・

 

ここは物語のクライマックスなので、

ネタバレ防止で、紹介できませんが(^^;

(是非、本書をお読みください)

 

兎にも角にも、

コペル君は、

すごい「自己嫌悪」に陥ってしまうのです。

 

 

卑怯者

 卑怯者

  卑怯者

 

 

余りに落ち込み過ぎて、

熱を出して、

寝込んでしまいます・・・

 

・・・そんなコペル君に対して、

お母さんが、

「石段の思い出」

というのを語ります。

 

そこを引用いたします。

 

 

「それはね。

お母さんがまだ

女学校にいっていた

頃のことなの。

 

お母さんは、

学校の帰りに

わざと廻り道をして、

湯島の天神下に出て、

それから天神様を

通り抜けて、

本郷のおうちに

帰ってくることが

よくあったの。

 

そんなときには、

きまって、

あの天神様の

裏の石段を登って、

境内に出たものでした。

 

 

学問の神様で有名な、

東京の湯島天神ですね。

 

私もだいぶ前に、

行ったことがありますが、

たしか、実際に、

石段があった記憶があります。

 

 

ある日、

お母さんが

その石段を登りかけたとき、

見ると一人のおばあさんが、

木綿の風呂敷包みを

片手に下げて、

お母さんより

五、六段先を登って

ゆくところでした。

 

(中略)

 

コウモリ傘を杖に、

ヤットコサと石段を

登ってゆくのよ。

 

風呂敷包みの中は

何か知れなかったけど、

小さい割に

ずいぶん重そうなの。

 

(中略)

 

で、

二、三段のぼっては休み、

二、三段のぼっては休み、

休むたんびに腰をのばして、

それからまた、

エッチラオッチラと

のぼってゆくのね。

 

お母さんは

なんだか

見ていられないような

気がして来ました。

 

 

私が、何故、

この箇所を引用したかというと、

実は、私も、

たしか1年くらい前ですが、

自宅付近の長い階段で、

まさに、

同じような場面に遭遇したのです(^^;

 

おばあさんが、

五、六段先を、

重い荷物を持って、

エッチラオッチラ登っていた・・・

 

 

こりゃあ、

あの荷物を持って

あげなきゃいけない。

 

お母さんはそう考えたの。

 

(中略)

 

おばあさんが

中途でとまって、

やれやれと

腰をのばしているとき、

おかあさんは、

そのそばに

走りよろうと思ったのよ。

 

ところが、

その途端に、

おばあさんも歩き出したの。

 

(中略)

 

こんどおばあさんが

休んだら、

そのとき、

そばにいって、

「おばあさん、

もってあげましょうか」

と言い出そう。

 

そう考えて、

お母さんはあとから

ついていったんです。

 

ところが、

おばあさんが立ちどまった

ときになると、

なにかきまりの悪いような

気がして来て、

すぐにトントンと

駆け上ってゆけないの。

 

どうしようかな、

と考えているうちに、

また、おばあさんは、

なんにも見向きもしない様子で、

石段をのぼりはじめて

しまいました。

 

(中略)

 

そんなことを二、三回

繰りかえしているうちに、

何しろ、

そうたくさんもない石段でしょう、

 

とうとうおばあさんは、

石段をのぼり切ってしまったの。

・・・

 

 

ちなみに、

私の場合は、

ちょっと迷った挙句に・・・

 

速足で、おばあさんを抜かして、

目も合わせずに、

通り過ぎてしまいましたが(^^;

 

やっぱり、

なにか後味が悪いというか、

罪悪感を感じました。

 

 

このことは、

妙に深くお母さんの

心に残ったんです。

 

そのときも、

おばあさんに別れて、

ひとりでおうちに

帰ってくる途中、

歩きながらいろいろ

そのことを考えました。

 

なぜ思い立ったとき、

すぐに

駈け出さなかったんだろう、

なぜ心に思ったとおりに

してあげられなかったんだろう

って、

 

そう思うと、

自分がたいへん

悪いことをしてしまったような

気がして来るのね。

 

それに、

石段をあがり切って

しまった以上、

折角の自分の心持も、

もうなんにもならないでしょう。

 

もう、

心に思ったそのことをする機会は、

二度と来ないのでしょう。

 

(中略)

 

―ほんの些細なことでしたけど、

お母さんは、

やっぱり後悔したのです。

・・・

 

 

・・・

共感します(^^;

 

 

潤一さん。

(=コペル君)

大人になっても、

ああ、なぜあのとき、

心に思ったとおり

してしまわなかったんだろうと、

残念な気持ちで

思いかえすことは、

よくあるものなのよ。

 

どんな人だって、

しみじみ自分を

振り返ってみたら、

みんなそんな思い出を

一つや二つ

もっているでしょう。

 

大人になればなるほど、

子供の頃よりは、

もっと大きなことで、

もっと取りかえしが

つかないことで、

そういう思いをすることが

あるものなの。

 

 

私も、

ふとしたことで、

 

「あの時、ああしておけばよかった・・・」

「あの時、あの人を傷つけてしまった・・・」

「あの時、見て見ぬふりをしてしまった・・・」

 

と、思い出して、

後悔することが、

たくさんあります・・・

 

意外と忘れないものです。

 

ああ、自己嫌悪・・・

 

 

「でもね、潤一さん、

石段の思い出は、

お母さんには

厭な思い出じゃあないの。

 

そりゃ、

お母さんには、

ああすればよかった、

こうすればよかったって、

あとから悔むことが

たくさんあるけれど、

 

でも、

「あのときああして、

ほんとによかった」

と思うことだって、

ないわけじゃあありません。

 

それは

損得から考えて

そういうんじゃあ

ないんですよ。

 

自分の心の中の

温かい気持ちや

きれいな気持ちを、

そのまま行いにあわらして、

あとから、

ああよかったと

思ったことが、

それでも

少しはあるってことなの。

 

そうして、

今になってそれを考えて見ると、

それはみんな、

あの石段の思い出の

おかげのように

思われるんです。

 

ほんとにそうよ。

あの石段の思い出が

なかったら、

お母さんは、

自分の心の中の

よいものや

きれいなものを、

今ほども生かして来ることが

出来なかったでしょう。

 

人間の一生のうちに出会う

一つ一つの出来事が、

みんな一回限りのもので、

二度と繰りかえすことはないのだと

いうことも、

 

―だから、

その時、その時に、

自分の中のきれいな心を

しっかりと生かしてゆかなければ

いけないのだということも、

あの時の思い出がなかったら、

ずっとあとまで、

気がつかないでしまったかも

知れないんです。

 

 

そうですね・・・

 

人は、何度か、

後悔したり、

自己嫌悪に陥るような

経験をして初めて、

 

自分の中の良心を、

素直に生かす勇気を

持てるのかもしれません。

 

何度か紹介した、

遠藤周作さんの小説の中にも、

このテーマが

よく含まれていると感じます。

 

 

「潤一さんもね、

いつかお母さんと

同じようなことを

経験しやしないかと思うの。

 

ひょっとしたら、

お母さんよりも、

もっともっとつらいことで、

後悔を味わうかも知れない

と思うの。

 

でも、潤一さん、

そんな事があっても、

それは決して損には

ならないのよ。

 

その事だけを考えれば、

そりゃあ

取りかえしがつかないけど、

その後悔のおかげで、

人間として肝心なことを、

心にしみとおるようにして

知れば、

その経験は

無駄じゃあないんです。

 

それから後の生活が、

そのおかげで、

前よりもずっとしっかりとした、

深みのあるものになるんです。

 

潤一さんが、

それだけ人間として

偉くなるんです。

 

だから、

どんなときにも、

自分に絶望したりしては

いけないんですよ。

 

そうして

潤一さんが立ち直って来れば、

その潤一さんの立派なことは―、

 

そう、

誰かがきっと知ってくれます。

 

人間が知ってくれない場合でも、

神様は、ちゃんと

見ていて下さるでしょう。」

 

 

う~ん・・・

救われるメッセージですね。

 

「その経験は無駄じゃあない」

 

「どんなときにも、

自分に絶望したりしてはいけない」

 

心に刻んでおきたいです(^^;

 

 

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次回に続きますね。

 

今回も、

最後までお読みくださいまして、

有り難うございました😊

 

 

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おまけ

 

東京・世田谷区奥沢の

知る人ぞ知るお寺。

 

九品仏浄真寺

(くほんぶつ)

 

迫力ある九品(9体)の阿弥陀如来さまと

釈迦如来さまがいらっしゃいます。

 

 

 

この先の閻魔堂でお賽銭を入れると、

閻魔さまの有り難いお告げが

大音量で聞けますよ😲

 

 

 

 

本堂前に白鷺のモニュメントがあります。

逸話が切ないです。

 

 

 

 

今は真冬で殺風景ですが、

とても美しい境内です。

(特に紅葉や新緑の時期は

すばらしいです!)

 

けっこう広々としていて、

気持ちがいいです。

 

特に仏像(大仏)好きの方は是非!