混乱と停滞の造物主たる“テクノ・スパイダー”に“COYOTE”達が咆哮を上げ、挑んでいく。“テクノ・スパイダー VS COYOTE”、まるでゴジラ対キングギドラだが、そんな構造も思い浮かぶ。世の中の不都合な真実や不合理な事実に意義申し立てしていく。そんなところは1980年も2023年も佐野のアティテュードに変わりはない。
実は、その数日前、9月1日(金)に渋谷「duo MUSIC EXCHANGE」で行われたPANTAのお別れ会「献花式・ライブ葬」へ出席したばかり。彼がPANTAの訃報に際して、Official Facebook Pageに言及したことは知っていたが、まさか、彼の口からPANTAの名前が出るとは思ってなかったので、驚いたと同時に嬉しかった。佐野元春と政治的で過激なイメージのある頭脳警察のPANTA。結びつかないと感じる方もいるかもしれないが、しかし、繋がっていたのだ。
『バンドやろうぜ』そのものは1988年に創刊され、2004年に休刊している。本2023年は休刊してなければ『バンドやろうぜ』35周年になる。それを記念して、と書くのはこじつけくさくなるが、内容そのものは“バンドやろうぜロックフェス”という名を冠するに相応しいラインナップとコンセプトでイベントが行われている。「大人のためのミュージックステーション」を標榜する東名阪のラジオ3局(ニッポン放送・TOKAI RADIO・FM COCOLO)がプロデュースし、“AOR(=Adult Oriented Radio) NETWORK” がオーガナイズするイベントが『バンドやろうぜ ROCK FESITIVAL THE BAND MUST GO ON!!』だ。
それにしてもこの日のセットリストは圧巻だった。名曲達をメンバー紹介以外はMCもなく、一気に聞かせるのだ。この日、演奏されたのは「kiss...いきなり天国」(1986年『IMAGE』収録)、「Dear Venus」(1988年『HERMIT COMPLEX』)、「Rainy Valentine」(1990年にリリースされたベストアルバム『HAMMER MUSIC』収録。同年2月にシングルとしてリリースされている)、「Blind Age」(『HERMIT COMPLEX』)、「no side action」(1987年『inner ocean』収録)、「Time Bomb」(『inner ocean』)、「Kiss In The Moonlight」(『inner ocean』)……最初から最後まで、まるでシングルのA面コレクション(当時、レコードは若干あるものの、基本はCDリリースだった)の趣きだ。1曲目に「Kiss...いきなり天国」を持ってきたのはデビューシングルというのもあるが、大袈裟な表現になるが、バンドブームの正体を自ら暴いてみせるかのようだ。同曲は彼らのオリジナルではなく、作詞は柴山俊之、作曲は大沢誉志幸(当時の表記)である。いわゆる“売れ線”を狙ったもの。バンドブームに当て込み、一発あててやろうという事務所やレコード会社の魂胆が見え隠れする。広石自身も事務所やレコード会社が予め、シングルとして曲を用意していたことに不満と不審を抱いたという。同時に広石を始め、バンドメンバーのルックスを生かした、まるでアイドルの売り出しのようなプロモーションにも違和感があったそうだ。彼からは“この顔に傷をつけてもかまわない”という過激な発言も飛び出していた。
バンドブームの初期には、シングルA面は職業作家に依頼し、B面はバンドのオリジナル、もしくは外国曲のカバーというGS的な発想を持った製作者も少なくなかった。幸か、不幸か、彼らが初期に所属した事務所がフォーク、芸能界系のロックセクションだったこととも無縁ではないだろう。最初に所属したのは佐野元春が所属したことで知られる「HEARTLAND」だった。そんな縁もあり、1987年8月22日から23日にかけて、熊本県阿蘇郡久木野村(現・南阿蘇村)の熊本県野外劇場「アスペクタ」で7万に集め、豪雨の中、開催されたオールナイトコンサート「ビートチャイルド(BEAT CHILD)」にBOØWYやTHE STREET SLIDERS、HOUND DOG、THE BLUE HEARTS、RED WARRIORS、佐野元春、尾崎豊、岡村靖幸、白井貴子、渡辺美里……などとともに出演している。昭和の音楽史に残るイベントだが、同ドキュメンタリー映画『ベイビー大丈夫かっ BEATCHILD1987』(監督・佐藤輝)はTHE HEART、UP-BEAT、小松康伸はオープニングアクトとして出演しているものの、そのステージは収録されていない。同映画は2013年10月26日に公開され、同年12月31日に一日限定で再上映された。
と、話が飛んだが、彼らが事務所やレコード会社に好き勝手されることなく、何から何まで自分達がやりたいことができるには、もう少し時間が必要だった。同曲以降は自らが考えるロックを志向し、それを実現させることができている。特に「Kiss In The Moonlight」は同じ、“Kiss”絡みでも彼らが考える音楽性と大衆性の均衡が取れたもので、テレビドラマの主題歌という“タイアップ”もあって、大ヒットを記録している。他の曲も確固たるメッセージを込めながらも音楽的にも整合性を取りつつ、革新的な音作りがされている。やはり、佐久間正英というプロデューサーの存在が後押ししていたのだろう。佐久間を始め、ホッピー神山、是永巧一、岡野ハジメ、笹路正徳……など、バンドブームの陰には名プロデューサーありだ。
UP-BEAT解散後には、1997年にテイチクからリリースされたマーク・ボラン&Tレックスの世界初のオフィシャルトリビュートアルバム『Boogie With The Wizard/A Tribute to MARC BOLAN & T.REX』にアキマ&ネオス、THE YELLOW MONKEY、ザ・ウィラード、 頭脳警察、デミセミクエーバー、野宮真貴+サエキけんぞう、ちわきまゆみ sing with PEALOUT、暴力温泉芸者、マルコシアス・ヴァンプ、山本精一、本田泰章、ROLLY、高木完、今井裕……などともに参加してもらった。彼は「ティーンエイジ・ドリーム」をカバーし、また、オールスターキャストによるボランズ・チルドレンとして「T.レックス・トリビュート・メドレー」も歌っている。
彼とは昔も今も音楽の話ができる。それも洋楽に精通し、古今東西の音楽を浴びるように聞いてきている。バンドブームの中、バンドであるにも関わらず、音楽の話ができないというのも変な話だが、BOØWYやTHE BLUE HEARTSは聞くけど、ストーンズやザ・フー、ビートルズは聞いていないというバンドがたくさんいた。単なる憧れだけで、バンドを組むものも多かった。ある種、音楽的な引出しの少なさや底の浅さがバンドブームの終焉に繋がる。広石武彦は福岡県出身、それも北九州市出身だ。福岡からはサンハウスやシーナ&ロケッツ、THE MODS、TH eROCKERS、THE ROOSTERS、ARB……など、数多のバンドがデビューしている。鮎川や大江などには地元の先輩として、直接、薫陶も受けているという。英米のロックやブルース、パンク、ニューウエイブなど、その博識ぶりは、その音を聞けばわかるというもの。彼がサバイバルできるのは、そんな音楽に対する深い愛情と広い知識があるからだろう。
「STAY GOLD」(1994年にシングルとしてリリース。日本テレビのプロ野球中継のイメージソングとして使用され、30万枚を売り上げている。同年にリリースされたアルバム『BLOND 007』収録)、「翳りゆく夏に」(ZIGGYはSNAKE HIP SHAKES名義で2000年から2002年まで活動。同バンドとして2001年にリリースしたアルバム『NEVER SAY DIE』へ収録)と、ミディアムスローの名曲で緩急をつけながら聞くものを虜にしていく。心の奥底にすんなり入って来る。改めて、彼らの楽曲の自然なポピュラリティー、大衆性に脱帽せざるを得ない。バッドボーイズロックの強面なイメージばかりが先走るが、ソングライターとしての確かな力量を評価すべき。会場にいる観客も悩み多き青春時代を思い出し、懐かしさとともに忘れていたものを思い出したのではないだろうか。
「ONE NIGHT STAND」(1989年にリリースしたシングル。オリコン12位にチャートインしている)、「SING MY SONG(I JUST I WANT TO SING MY SONG)」(1988年にシングルとしてリリース。翌89年にリリースされたアルバム『NICE & EASY』ではアルバムヴァージョンとして録り直しされている)、「I'M GETTIN' BLUE」(オリジナル盤は1988年5月に「GLORIA」と同時発売。翌89年7月に「GLORIA」が再発売され、同年11月には「I'M GETTIN' BLUE」も再発売されている。テレビ朝日系のヴァラエティ番組のエンディングテーマに使用され、オリコン15位にチャートイン)など、名曲が惜し気もなく披露され、最後は「DON'T STOP BELIEVING」(1990年にリリースしたアルバム『KOOL KIZZ』収録。同アルバムは初のオリコンチャート1位を記録している。同曲は映画の主題歌として使用され、数多くの歌番組で披露された)で締める。それらの曲間でも森重のMCは延々と続いたが、特に心に残ったものを書き留めておく。くだけた口調の中にも大事な言葉があった。“バンドブームで、デビューしなくてもいいようなバンドもいたけど、ちゃんとしたバンドはいまも残っている”、“このところ、たくさんのミュージシャンが亡くなっている。けど、そんな奴らの思いを伝えていきたい”、“そのためなら、なんでもしてやる。そんな気概のあるやつは俺が手助けする。勿論、簡単に譲らないからな”ということを語っていた。うろ覚えで、正確な引用ではないので、音源や映像が公開される際にでも確認いただきたいが、おそらく、森重のそんな思いはここにいた多くの観客に届いたことだろう。
ZIGGYを形容する際に使用される“バッドボーイズロック”なるキャッチフレーズ。実は、そんな形容詞の誕生に少なからず、関わっている。おそらく、“バッドボーイズロック”という言葉が初めてメディアに登場したのは1987年に宝島で特集された「バッドボーイズロック JOHNNY BE BAD!(ロックよ、悪<ワル>になれ!!)」なる企画だろう。その特集で“バッドボーイズロック”(もしくは“バッドボーイズロックンロール”なる言葉を使用して、ZIGGYやGDフリッカーズ、シェイディ―ドールズなどを紹介している。ワーナーミュージックのディレクターで当時、ガンズ・アンド・ローゼスを担当していた方と企み、ガンズやモトリー・クルー、ハノイロックスなどとともに日本のZIGGYやGDフリッカーズ、ジュンスカ、マルコシアス・ヴァンプ、ティラノザウルスなどをリンクさせ、その総称として「バッドボーイズロック」と名付けた。ロックが品行方正なものになりつつある中、ロック本来の不良性やグラマラスな魅力を際立たせるためだが、HIPHOPなどで使用されていたB-BOYのロック的展開である。翌88年5月に発売された宝島のビデオマガジン『VOS ヴスッ!』の第3号」でも特集されている。ZIGGYに同名称で形容されることについて、改めて聞いたことはないが、未だにバンド紹介の際、同名称が引用されているので、そんな反感はないはずと、勝手に思っている。ただ、ジュンスカはZIGGYと共演していたり、たまたま、グラマラスにメイクした写真(宝島の特集で公開している)があったりしただけで、その仲間入りは不本意だったかもしれない。また、ソウルフラワーユニオンのライブで中川敬がギターの高木克を紹介する際、彼が参加していたシェイディドールズのことを“バッドボーイズロック”と必ず、囃し立てることがいつも気になっている。少し心が痛む。申し訳ない。