追悼・ジョニー野村――ゴダイゴの音楽に橋を架けたプロデューサー | Let's Go Steady――Jポップス黄金時代 !

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Jポップスの黄金時代は80年代から始まった。

そんな時代を活写した幻の音楽雑誌『MUSIC STEADY』をネットで再現します。

まさか、この1年間に2度も追悼文を書くとは思わなかった。ゴダイゴのプロデューサーとして活躍したジョニー野村が昨日、1月23日(土)、午後7時20分、脳梗塞のため、フィリピンのセブ島の自宅にて逝去された。享年75になる。

 

 

改めて、彼の足跡をウィキペディアなどを参考に紹介しておく。ジョニー野村の本名は野村威温(のむら・いおん)。1945年11月4日、ルーマニア・ブカレスト生まれ。父親は元ブカレスト駐在武官・野村三郎、母親は野村タチアーナ(ルーマニアに亡命してきたロシア人である)。1947年に日本に移住。横浜のインターナショナルスクールに通学。バンドを結成し、米軍キャンプなどで演奏している。その頃、後にゴールデン・カップスを結成するエディ潘やルイズルイス加部などと親交を結ぶ。その縁で、ミッキー吉野とも知り合う。

 

ジョニーは国際基督教大学に入学。1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万博の通訳などを務める。大学生時代に奈良橋陽子と知り合い、後にシアトルで結婚(後に離婚)。彼女とともに大阪万博でカナダのバンド、ライトハウスとの競演が縁でカナダにて活動することになるフラワー・トラヴェリン・バンドのカナダ公演をサポートしている。

 

その後、ジョニーは外資系の音楽出版社で活躍。ジョニーは歌詞が英語のため、レコード会社や音楽出版社などにことごとく断られていたタケカワユキヒデの才能を見出し、後にタケカワとともにヒットを量産する奈良橋陽子とコンビを組ませ、さらにバークリー音楽大学を卒業し、帰国したミッキー吉野をタケカワに引き合わせて、プロとしてデビューさせている。その出会いが契機となり、ゴダイゴが結成される。ジョニー野村がいなければ彼らの邂逅はなく、ゴダイゴも生まれていなかっただろう。ゴダイゴ誕生のキーマンとでもいうべき人物である。彼はゴダイゴのプロデューサーとして天才的な閃きと大胆な決断で、ゴダイゴを文字通りメガヒットグループへと導いていく。

 

 

私自身、何度も取材をしているが、彼を通して、プロデューサーとは何であるかを学んだような気がする。訃報を伝える文言の中には彼をビートルズに対するジョージ・マーティンのような存在であると表現している。実際、制作会議などに立ち会ったわけではないが、メンバーの話を勘案すると、音楽制作やバンド活動をしていく中、迷うこともある、その時、その行先をさりげなく指し示す――ジョニー野村はそんな存在ではないだろうか。命令や強制ではない。彼の言葉には気づきや学びがあり、“ゴダイゴ号”が安全に運行できるように力を貸す。メンバーやスタッフにとって頼りになる“兄貴”のような存在だったのではないかと思う。

 

以前、紹介したが、改めてジョニー野村に取材した記事を再録する。『ROCK STEADY』の1979年9月号で、アルバム『OUR DECADE』リリース時のもの。ジョニー野村が『OUR DECADE』の制作過程について語っている。今回はちゃんとスキャンをしているので、拡大すれば文字も読めるはず。彼の肉声は珍しいのではないか。ジョニーは音楽を通しての文化交流を「橋の思想」と例えている。タケカワは世界に出しても恥ずかしくないものを作り続けなければいけないと言っていたが、そういう意味では、その橋を架け続けたのも彼だろう。私達は、ジョニー野村が橋を架けたからこそ、その音楽を聞くことが出来たのだ。改めてお悔み申し上げる。残念でならない。ジョニー野村が関わった音楽は永遠不滅である。そしてゴダイゴは継続する。

 

なお、ジョニー野村はサンハウスやルーズターズなどにも関わり、彼のジェニカ・ミュージックには数多の才能が集い、かの“FUJI ROCK”にも縁あることを付け加えておく。