東京オアシスにかかる幻想――今井裕、サディスティックス『ザ・ベスト』を語る!Ⅰ | Let's Go Steady――Jポップス黄金時代 !

Let's Go Steady――Jポップス黄金時代 !

Jポップスの黄金時代は80年代から始まった。

そんな時代を活写した幻の音楽雑誌『MUSIC STEADY』をネットで再現します。

かのSadistics(ザ・サディスティックス)の全オリジナル・アルバムからセレクトされたベスト・アルバム『THE BEST』(『ザ・ベスト』のオリジナル・リリースは1980年) がこの725日に「ADLIB presents ビクター和フュージョン・プレミアム・ベスト」(監修:松下佳男、高田英男)の中の一枚として発売された。サディスティックスに関してはオリジナル・アルバム3タイトル<『Sadistics』(1977年)、『WE ARE JUST TAKING OFF』(1978年)、『Live Show』(1979年)>のリイシューの際に今井裕へメール・インタビューを試み、自ら解説をしてもらっている。今回も今井に登場していただき、ベスト・アルバムの全曲解説を始め、いまだからこそ、見えてきたサディスティックスが輝いた華やかな時代と、その稀有で稀少なサウンドを分析してもらった。このところ、今井は若い音楽ファンからサディスティックスや今井のソロ・アルバム『A Cool Evening』(1977年)について、聞かれることが多いという。今井は時代の風が吹いていることを実感しているようだ。

 

 

――今回のサディスティックスのベスト盤『ザ・ベスト』の発売に関して、ここにきて、サディスティックス、並びに今井さんの再評価というか、新たなブームが来ていることを感じますが、それについて、どうお考えですか?

 

「先日、大阪で桑名晴子さんと林立夫氏のライブがありまして、会場の若い世代の方からわたくしのCD持っていますとのことで話しました。その熱気に戸惑いました。他のライブでもトリのバンド二人が同じような反応で、確かに認知が深まっている感触です」

 

 林立夫と今井裕

 

――シティ・ポップやフュージョンなど、古い言葉が新しい意味を持ち始めています。その流れの中で、新たに注目を浴びたと思っています。

 

「経済が好転して心に少し余裕ができて、停滞気味の日常に対して新たな都市感覚の出現が待たれている。サディスティックスの活躍時と今の周辺が似通っているのか、特に若い世代に明るくて透明な知性を感じられるサブジェクトを辿る作業が成されていると捉えています」

 

――あの時代を改めて振り返っていただければと思います。ご自身の中では、どんな時代でしたでしょうか?

 

19761978年のサディスティックスの活動期間中に、東京の街や人、人情、風俗などの移り変わりが、サディスティックスの描く音楽の内に背景としていくらかでも浮かび上がっていたら、望外の喜びを得たことになるでしょう。そのころは、サーファー・ルックがポピュラーになり始め、アメリカ西海岸のトロピカルなイメージも原宿・青山近辺に溢れ、明るくて透明な知性がカッコいいという都市感覚が出現した」

 

――『made in USA catalog』が出版され、『ポパイ』 が創刊されたのが1975年、1976年です。いわゆる四畳半フォーク的なものが色褪せ、その後、ニューミュージック、ニューファミリーなる言葉も出始めた頃ではないでしょうか。

 

「ヨーロッパのような明確な個人主義志向の芽生えかなと推察される。人の欠点を指摘するのではなく、行儀のいい立ち振舞いがモラリストの表れとされた。プルーストの『失なわれた時を求めて』の裏に潜んでいる洗練された美意識ほどではないとしても…。発展著しい東京オアシスにかかる幻想、それを音楽の領域で表現すると、どんなサウンドなのか?! 都市感覚で捉えたカリブ海の風景に想いをはせた」

 

――サディスティックスの前身、サディスティック・ミカ・バンドではイギリスへ行き、変わりつつある世界を体感しています。

 

 

1975年、加藤和彦氏、ミカさんとともに(ミカ・バンドで、ロキシー・ミュージックのオープニングアクトとして)イギリス・ツアーの敢行を経て、ピックアップした個人主義思想を土台として、やがてサディスティックスがシティ・サイドと呼んだ作品が産みだされた。新しさを遠くに見据えたそれは、フレンチ・ポップスのようであり、いにしえのミュージカルのジャズ・アレンジであったり、品のよいシティ・ポップスだったり、南米の陽気なサンバのようなものだったりと、多様性に特徴があった。これからの自分の指標を勇気と気概でカミングアウトすることは、イギリス体験に基づいたものですが、今までの日本人にとっては稀な感性であったかもしれません。日常離れした魅力に溢れた光輝く、その象徴性を表現しようとした時代。希望に満ちた青春の光に覆い包まれた日々。優しさと諧謔に満ちた笑いで描いた。ボリス・ヴィアンのように…」

 

――当時、サディスティックスは矢沢永吉を始め、たくさんのアーティストをバックアップしています。今井さんは大貫妙子やRAJIE、大空はるみなど、多くのアーティストのレコーディングへ参加しています。それら、特に大貫妙子の『サンシャワー』は近年、YOU達(『YOUは何しに日本へ?』)からの支持もあり、再評価も著しいです。

 

「『サンシャワー』のセッションは、坂本(龍一)氏のアレンジのもとで録音されました。わたくしもなぜか呼ばれて、エレピなどを弾きました。二人で同録は、珍しいんじゃあないかな? そのころ現れたフュージョン・サウンドはとても新鮮で、ましてやポップスの歌との融合は、チャレンジといったかなり思いきった企画。両方の兼ね合いが難しいんですが、いろんな方向に広げられた多彩な尽力でよくやりきったなぁと思います。その新鮮、かつイケイケのプロダクションが、外国の人にはわかりやすく、受けるのではないかと思います。わたくしも自身のアルバムで似たようなアプローチの曲があるのですが、フュージョン特有のC分のDD/C)みたいな分数コードを使って、内面の心情を表そうとするとコードの癖が強すぎて、情緒がかき消されることがあり、解決するのに手間がかかりました。大貫さんの場合は、歌詞がシュールなので収まりがいいのかもしれません」

 

 

 

――サディスティックスについて、以前、お聞きしましたが、各メンバーがソロなどに忙しい中、唯一、今井さんが現場で踏ん張り、サディスティックスを繋ぎ止めたとおっしゃっていました。

 

「サディスティックスでのわたくしの立ち位置について、流れを辿って行きます。加藤和彦さんのロンドン詣でから出来たミカ・バンドでは、クラビネットでスライを意識たり、『ファンキ-・マ-ジャン』では、コモドア-ズでやってみたらと幸宏氏にアドバイスされ、上手くはまりました! 『黒船』のセッションでは英国人、クリス・トーマスさんとの運命の出会いを経てプログレのキ-ボ-ドの極意を伝授されました。Less  speak  More!ということです。そうこうするうちにRoxy Musicのサポ-ト・バンドとしてのイギリス・ツアーも好評のうちに終わりました。ライブの状況を翌日の音楽紙に詳しくメンバーの出来不出来まで伝えられたりして、そこで自ずと自分のアイデンティティーとスタイルについて深く考察する習慣がついたようです。それがサディスティックス後の独立の際に役立つことに成ったわけです」

 

――そんな経験を経て…。

 

「サディスティックスの結成となるわけです。メンバーは、聴いている音楽がバラバラで、しかも音楽の話はほとんどしなかったと記憶しています。ミカ・バンド当時も同じです。新たに契約したレーベルは『ビクター/Invitation』で、アメリカのレコーディング機器メイカー『MCI』の技術者との行き来が盛んでした。今までのブリティッシュ・サウンドがアメリカンになって、奥行きの無いのはどうかな? と、はたと考え、この先、音質面ではわたくしが気にして行こうと決めました。もしプレスに受けが悪かった時の加藤ブランドに傷がつかないようと細やかに気をつけていたと思います。わたくしがサディスティックスを纏めていたとの評価ですが、実はそんなにではなく、単に音色に関わる事だけをバンドに対して示唆するに過ぎなかったというのが本当のところです。たとえ纏めようとしても言うことを聞く猫達じゃーないし!()

 

――音質や音響などは、今回のリイシューの監修もしている高田英男さんが関わっている。

 

「エンジニアの高田英男氏には3作リマスター時に久々にお会いして、1976年当時と全く印象が変わらないことに驚きました。林くん、フィル・マンザネラくんも同様に。mix時は、高田さんに奥行きのあるサウンド作りの要望を伝え、二人共同で作業しました。キーボードの音量レベルでは、いつも意見が異なって、“高田上げ”、“わたくし下げる”のルーティンを何回か繰り返していたようです(笑)。ブリティッシュ・サウンドについては、幾つかのキ-ボ-ド・サウンドを前にあるギターサウンドの後方に何層にわけて配置していく技法によって構築されています。この考え方を『Live Show』まで保つことになりました」

 

※「新たな都市感覚の出現――今井裕、サディスティックス『ザ・ベスト』を語る!Ⅱ」に続く!