ザ・モッズ 1979「Rock in 黒髪」――不屈のあかり | Let's Go Steady――Jポップス黄金時代 !

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不屈のあかり――6月1日、中止されていた熊本城のライトアップが再開された。「熊本地震」から2ヵ月近く経つのにも関わらず、いまだに余震は続き、復興作業は遅れている。くまモンがしなければいけないことは多そうだ。

改めて、被災された方にお見舞いを申し上げる。一日も早い復興をお祈りしたい。

本来であれば、私が関わっていた「ミュージック・ステディ」の前身「ロック・ステディ」の1980年2月号(山下達郎表紙)の記事を見てからと思っていたが、いまだ、見つかりそうもない。当時のことを知る方とも話す機会を得たため、多少、あいまいな記述になるが、とりあえず、書いておく。書くことで、復興支援(にはならないかもしれないが、気持ちは込める)になればとも勝手に思っている。

以前、ザ・モッズのデビュー前のライブを1979年7月、福岡のバンド・コンテスト「Lモーション」の後、同年の「黒髪祭」でも見たと書いた。それは1979年11月のことだったのだ。熊本の熊本大学の学園祭「黒髪祭」(読み方は“くろかみさい”ではなく、“こくはつさい”だそうだ)は、1969年の学園紛争後、同大学の正式行事ではないが、学生の自主的な催しとして毎年 開催されていた。同学祭では「Rock in 黒髪」というオールナイト・コンサートも行われていた。モッズを始め、ロッカーズ、アクシデンツ、ヒートウェイブなど、九州のロック・バンドがこぞって参加し、その覇を競ってもいた。いわば登竜門的な存在だという。

1979年11月の同イベントを見に行くきっかけは、元サンハウスの浦田賢一が結成したショットガンだった。彼らが熊本の放送局主催の熊本の藤崎台球場で行われる野外コンサートに出演後、そのまま夜に開催される「Rock in 黒髪」に出演するという。モッズなども出演すると聞いていた。おそらく、放送局が東京のメディアを呼んで、イベントを広く知らしめたいということもあったのだろう、レコード会社やプロダクションがメディアへ盛んに声をかけていたのだ。

博多通りもんが伝統あるイベントに出演する、行かないわけにはいかない。藤崎台球場は、熊本県熊本市中央区の熊本城公園内にある野球場で、正式名称は藤崎台県営野球場。当然の如く、熊本城にも近い。コンサートの前に同城へ行ったかは定かではないが、馬刺しを食べたのだけは覚えている(笑)。

同球場でのコンサート、ショットガン以外に誰が出演したか、覚えていないが、当時、リリースした「スパークリングギャル」などのポップなナンバーが秋空の中、爽やかに鳴り響く。浦田がサンハウス出身であり、同年7月の博多「徒楽夢」での“奇跡のセッション”を体験した後では、その出自を億尾にも感じさせない、ポップなロックンロールは、いい意味での違和感を抱く。


そんな羊の皮を被った狼が牙をむき出しにしたのは、その夜に行われた同じく熊本市の中央区にある熊本大学の「黒髪祭」のオールナイト・コンサート「Rock in 黒髪」である。

学園祭などといえば、どこかしら、長閑で和やかな学生さんのお祭りムードが漂うものだが、会場になった同大学の講堂には怒号が飛び交う。殺気立ってもいる。そんな会場には柔な音はそぐわない。ショットガンも会場に煽られるようにサンハウス直系のブルースやロックンロールを繰り出し、一気に会場を盛り上げる。イベントのため、わずか、数十分のステージで、疾風怒濤のように消えたが、改めて浦田賢一の凄みみたいなものを感じないわけにはいかなかった。


モッズが登場したのはショットガンの前か、後かも覚えていないが、深夜に近かったように記憶している。バンド・コンテストで見たようにコステロのようなパワーポップか、フーのようなビート・ミュージックを奏でるかと思っていたら、やはり彼らも会場の熱気に煽られたのか、スピーディーで、パンキッシュ、とてつもないやばさのようなものを纏う。さすが、火の国、肥後もっこす、益荒男な力と熱が会場を支配し、また、その観衆を前にするバンドもその気迫に負けまいと、歓声や喝采に呼応するように鋭利で、太い音の塊を投げ返す。コール&レスポンスなどという可愛らしいものではなく、やられたら、やり返す。下手すれば火傷しそうに熱いものが迸る。

モッズの新たな魅力を熊本もんが引き出したといっていいだろう。会場の熱気と熱狂の主たちは、30数年後、いい歳の大人になったと思うが、今日の復興の主力として活躍しているはずだ。

モッズの演奏そのものもショットガンと同じく数十分だったが、強烈な印象を残す。また、新たな顔を覗いた気がする。改めて博多のロックの奥深さを知る。


熊本の黒髪祭で、最高のリアルなロック・ムービーを見せられた後、熊本から博多へ、新たなロード・ムービーが幕を開ける。


当初の予定ではそのまま熊本のホテルに戻り、翌朝まで過ごし、昼過ぎに東京へ帰る予定だった。どういう経緯からか、当時、モッズのマネージャーをボランティアで務めていた医大生の好意で、彼の運転する車で、メンバーとともに博多まで、戻ることになったのだ。


多分、車2台で、博多へ向かったと思う。ルートは、高速を走ったか、国道を走ったか、覚えてはいないが(多分、国道だろう)、リアルな“夜のハイウェイ”には心躍るものがあった。涙は危険なドライブか。勿論、泣いてなどはいない(笑)。

博多到着は、まだ、夜明け前。メンバーの家にそのまま、投宿することになった。博多の海沿いの町に佇む、瀟洒な一軒家。メンバーの部屋(か、居間かは忘れた)にはピアノもあった。ちゃんとした家で育ったことがわかる。

彼の部屋で嬉しいものを見つける。1977年にセックス・ピストルズが日本デビューに際し、当時の所属レコード会社、日本コロムビアがセックス・ピストルズを始め、スティーリーダン、POCO、ゴダイゴ、渡辺香津美など、同社所属のアーティストのプロモーションのため、制作したブックレット『ロック&ソウル・マガジン』の表紙が壁にピン止めされていた。表紙はセックス・ピストルズが飾っていたのだ。

実は、同誌、私が学生時代に中村俊夫さんとともに制作にかかわったもの。既にパンクの洗礼を受けていたことの証であり、同時に彼らとの奇妙な縁みたいなものも感じる。


メンバーとどんな話をしたか、覚えてはいないが、気づけば寝落ちしていた。起きると、波が浜の砂や小石を洗う音が聞こえる。心地よい目覚めだった。

ザ・モッズがエピックソニーからデビューするのは、1981年のこと。1980年は彼らにとって、怒涛の1年となる。幸いなことに、その期間も比較的、近いところで見させて貰った。それらは改めて、書き記すが、いずれにしろ、最初に彼らを見てから数ヵ月で、モッズの進化と深化を感じた熊本行だった。

熊本というと、森高千里やくまモンよりも黒髪祭のことが真っ先に浮かぶ。気のせいかもしれないが、未だに熊本のことを思うと、肥後もっこす達の力強い歓声や怒号がいまも耳鳴りのように聞こえてくるのだ。


この7月、8月と予定されていたザ・モッズの「THE MODS TOUR 2016“HAIL MARY”Round2」も森山達也の体調が回復せず、残念ながら中止になってしまった。一日も早い回復を祈る。モッズの不屈のあかりも、きっと灯る。