
大好きな人が亡くなると悲しい。
勿論そう。
でも、その人が
満足な人生を終えていたとしたら、
納得のいく最期を迎えていたとしたら、
痛みも苦しみもなく、命を全うしていたとしたら、
悲しいのは、此方の問題なのかもしれない。
亡くなった悲しみは、
今まで自分の中に占めていたその人の場所がポッカリ空くから。
その空虚感の寂しさで。
亡くなるという事実で、
それを強制的に押し付けられるから。
本当の死は、
心臓が止まったか動いているか、
ボディがあるかないかではなく、
誰の中にも存在しなくなった時。
昔よく知っていた人が、
今どこで何をしているか知らなくても、
今はもう生きていないかもしれないけれど、
その人は生きていると感じるし、悲しくはないし。
ということは、やっぱり人は心の中で生きていて、
涙は、自分の中の空虚に対して流れるものなんじゃないかな。

16年、17年、うちの家族として
誰よりもお家に長く居てくれた猫のマリちゃん。
アメリカから、母達に連れられて日本にやってきた帰国子女のマリちゃん。
昨日、静かに息をひきとりました。
苦しい病気にならなくてよかった。
最後まで痛くなったりしなくてよかった。
母の見守っているお家で息をひきとれてよかった。
17歳くらいだったけど、
病院で図った数値はどれもとてもよかったと。
真っ白と真っ黒の毛も、
本当につやつやで綺麗だったね。おばあちゃんなのに。
本当に美人で、家族に愛された猫ちゃん。
いつも母を癒してくれて、ありがとう。
ずっと私たちの足下で、くるくる八の字を描いているのを、
私は感じるから。
これからもずっと側で私たちを見守っててね。
ありがとう。

二十歳前後から、三十超えるまで、
人は服を着込む感じがする。
生まれて、よちよち歩き出して
幼稚園にいって、
小学校、中学校にいって、
高校に入った頃から。
服を着はじめるような。
かっこつけたり、
こんな自分になるとか、
こんなのが自分だとか、
プライド、見栄、夢、野望、
多くの服を着飾り始めて、
二十歳を超えて社会に出て、
その着飾りはますます厚く重くなっていく。
自分なりに選んでるし、
自分の好きな感じだから、気持ちいいんだけど、
本当はらくちんではない。
35歳を過ぎた頃、ふと、
あれ軽くなったなと思って、
よくよく考えてみたら、
あの頃着はじめた、厚く厚く重なっていた
実は重い服をすっかり脱いでいた事に気付いた。
生きることが、らくちんになっていた。
その頃から、私は小学生の頃の自分に戻った様な気がして、
本当の自分らしく、
率直で、猜疑心無く、明るい小学生の頃の私の様に、
まっすぐ人と付き合い始めていた。
多くの人は、こうやって、ある時期に
本当の自分、何も着飾っていなかった、
子供の頃のまっすぐな自分に戻るのかもしれない
そう思って周りを見渡すと、
同い年の近くにいる人も、
なるほど中学生のように見えるなと、思った。
人間は嗅覚が弱い。
味覚もそれほど強くない。
知識とか情報とかが詰まったせいでか、
視覚がだんとつに秀でていて、
聴覚が次くらい?
触覚も視覚の助けがないと怪しいし。
で、そんな風に五感さえも不安定な中、
六感の感覚を思い出すことは、
かなり困難だと思う。
意識しないで生きてたら、
それを実感せずに死んでいくこともあるかもしれない。
けれど、私達は思えば、普段ちょくちょくこの六感を使っていて、
意識し始めると、その感覚が他の五感と同じように思えてくる。
鍛え始めるのが遅かったから、
まだ視覚ほどには発達してないかもしれないけれど、
多分私の中では今、
嗅覚、味覚、聴覚
よりは上になっている気がする。
ここ数年のこのトレーニングが
毎日、楽しくて仕方ない。






