こんにちは。


 

今回は、正しい者はこの世から排斥されることについて述べます。

新約聖書 マルコによる福音書 八章三十一節〜九章一節(拙訳)


それから、(神が)人の子を多く苦しませ、長老、祭司長、律法学者たちによって排斥されて殺され、三日後に復活する必要がある、と彼ら(弟子たち)に教え始めはった。また、その言葉を率直に話しはった。すると、ペトロは彼(イエス)を連れ出して、彼を窘め始めた。

しかし、(イエスは)振り返って、彼の弟子たちを見ながら、ペトロを叱責して言わはる。「我が背後に引っ込め、サタン。神のことやのうて、人間のことを思てるからや。」


そして、群衆を彼の弟子たちと共に呼んで、彼らに言わはる。「我の後に来たい者は、自分自身を否定して、自分の十字架を担って、我に従いなはれ。
自分の命を救おうと思う者は、それを失うだろうからや。しかし、我と福音のために自分の命を失った者、その者はそれ(命)を救うだろう。
ほんまに、もし全世界を手に入れて、自分の命を失われされたなら、人に何の益をもたらすだろうか。
又は、人は、自分の命の代わりに何を差し出すだろうか。
確かに、姦通と罪深いこの時代に我と我が言葉を恥じる者は、人の子も彼の父の威厳にあって聖なる天使たちと共に来る時、その者を恥じるだろう。」
また、(イエスは)彼らに言わはった。「確かにあんた方に言うとく。ここに立ってるうちの幾らかは、神の王国が力と共に来るのを見るまで、決して死を味わわへん者たちや。」


 

一、正しい者(主イエスと神の民)はこの世から排斥される
題目にしたとおりで、上記聖句で主イエスが「(神が)人の子を多く苦しませ、長老、祭司長、律法学者たちによって排斥されて殺され、三日後に復活する必要がある」と十二使徒に教えたという事実から明らかや。主イエスは御自身を「人の子」と呼称しはった。神でありながら受肉して人間と同じ姿や条件下で生きるためであり、それ故、生まれも他の人間たちと同じようにしはったことで人の子と強調してはるんや。もし主イエスが神やのうて、ただの人間であったなら、決して言わへんことや。あんたらは自らを「人の子」なんて言わへんやろ。なぜなら、当たり前やからや。
父なる神が主イエスを人の子としてこの世に遣わしはり、この世で多くの苦しみを与え、挙句はユダヤ教の長老、祭司長、律法学者たちによって排斥されて殺されるが、メシアの証拠として三日後に復活する必要があると十二使徒にだけ教えはった。この場には他の人間が居らへんかったことに注目すべきや。主イエスは御自分が選んだ人間にだけ秘密を明かしはったということであり、どうでもええ大衆には教えはらへんかった。大衆に言うたところで、彼らは決してまともに信じひんやろし、それどころか「大工の息子の分際で、何故メシア気取りしてるのか」等と誹謗中傷や敵対することが目に見えてたからであろう。もし、権力者や大衆がまともであれば、メシアと分かり、それなりの態度と対応をしたであろうが、現実はそうではなかった。史実のとおり、主イエスは権力者や大衆とは相容れず、権力者は主イエスを嫌って敵対し、大衆も主イエスを嫌って「十字架につけろ」と叫んで悪徳権力者に同調して、主イエスを大いに苦しめ、処刑するまでに至った。事が起こる前に主イエスは予言しており、先を見通してはった。ここでは比喩は用いられておらず、「その言葉を率直に話しはった。」とあるとおり、字義通りで、まんまや。せやから、曲解する余地はまったく無い。主イエスは御自分が世から排斥されることを知り、それを事が起こる前にごく限られた人間(十二使徒)だけに言わはった。そして、排斥されるのは主イエスのみならず、主イエスに似た者となる真のキリスト者も同じである。悪人だらけのこの世は正しい者を疎ましく思い、排斥する。過去記事「聖書の終末預言 一」でも書いたとおり、この世の人間たちが、真のキリスト者を嫌い、苦難に遭わせ、殺しもすると主イエスは予告しはったからや。実際、不信仰者や異教徒が九割以上を占める現世は、神と神の民に敵対しており、相容れへん故、そないな事態になるのは容易に想像出来る。中世時代のカトリックによる異端審問等といった正しい人を不当に処罰や処刑をするという排斥をする者の方が問題であることを忘れるな。黙ってそれを傍観してる大衆も悪である。

 


二、神の御計画を邪魔する者はサタン
上記聖句で主イエスが御自分の死と復活を予告しはったら、十二使徒筆頭のペトロがそれを恐ろしく思った。それ故、「ペトロは彼(イエス)を連れ出して、彼を窘め始めた。」とあるとおり、ペトロは主イエスに死んで欲しくないために、主イエスを連れ出して一対一の場で、そんな事が起こってはならない、回避すべきだ、少しは妥協したりして彼ら(ユダヤ教の長老、祭司長、律法学者たち)と何とか上手くやり過ごして生き長らえるべきというようなことを話したのでしょう。しかし、主イエスにとってそんな事は有り得へん選択肢であり、彼らに妥協するとか額付くことは決して受け入れられるものではなかった。ペトロは主イエスのお命の保全を思って進言した。「しかし、(イエスは)振り返って、彼の弟子たちを見ながら、ペトロを叱責して言わはる。」とあるとおりで、かえって主イエスを怒らせ、ペトロは少し離れた場で窘めたのに、主イエスは他の使徒たちを見ながら、即ち、二人だけでこそこそとせず、彼らの前でペトロを叱責しはった。何故か。続く主イエスの御言葉は、「我が背後に引っ込め、サタン。神のことやのうて、人間のことを思てるからや。」というもので、大層お怒りになった。ペトロは人間のことを思っており、神のことを思ってへんというのが主イエスのお怒りの理由であり、そんなペトロをサタンとも呼んで非難しはった。これは非常に強い叱責である。自分を信じて従ってきたペトロに対して「引っ込め、サタン」と言わはるんやからね。これは荒野の誘惑で悪魔に対して言わはった言葉(マタイ四章十節)と同じであり、強い言葉です。それ程までに主イエスは神の計画を邪魔されたくないという強い思いが明確にあり、神の計画こそが最優先されるもので、絶対不可侵ということです。聖書預言の実現確率が十割である理由は、まさに神が必ず御自身の計画を実現しはるからです。それ程までに神の御力は強く、誰も邪魔でけへんのです。それなのに、邪魔しようとするんやから、怒られるし、サタンと呼ばれて神の敵と看做されるようになる。せやから、主イエスに従う真のキリスト者になって永遠の命に相応しい存在になりたいなら、神の御計画に反するようなことをすべきではないということです。荒野での誘惑で悪魔に対してサタンと言うたのは当然として、ここで主イエスがペトロに同じような言葉を言わはったが、本気ではなかった。ただ、ペトロが神の御計画とは反するようなことを勧めて来たことに対して叱責しはっただけで、ペトロをサタンと断じて十二使徒や神の民から排除する意図の発言ではない。ただペトロに意識を変えてもらいたいがために、主イエスは敢えて他の使徒たちの前で叱責しはった。それは他の使徒たちにも同じような意識を持ってもらいたいがためや。たとえ人間的な視点や考え方では悪くない事であったとしても、それが神の御計画に反したり神の御意志に合致せえへんなら、それは認められへんということや。そして、主イエスの御言葉から、神のことを思うか、人間のことを思うかは両立し得ず、どちらかを選択せないかんことも読み取らねばならん。もし常に両立し得るものなら、かような言い方をしはらへんからや。神のことを思って行うことと、人間のことを思って行うことは必ずしも同一ではないということです。あの場では、ペトロは人間的な視点で人間のことを思った言葉で、神のことを思ってへん発言があった故に主イエスはお怒りになった。もし当時のペトロが神のことを思ってたなら、そもそも余計な口を挟まなかったであろう。せやから、聖書読者たちもこの事から学び、聖書から神が如何にお考えであるか、どないな御計画であるかを知り、それらを汲み取ってこの世で生活し、行動すべきです。それが出来るなら、拙者が今までブログや動画で言うてきたことが正しいのが分かるであろう。もし分からん、又は認めへんなら、その者はサタンであり、世から出た人間(世に属する人間)であるからに他ならへん。

三、真のキリスト者になる行動要件
上記聖句のとおり、十二使徒との内密な会話は終わり、次は群衆も呼び寄せて教えはった。その内容は、「我の後に来たい者は、自分自身を否定して、自分の十字架を担って、我に従いなはれ。自分の命を救おうと思う者は、それを失うだろうからや。しかし、我と福音のために自分の命を失った者、その者はそれ(命)を救うだろう。」というものや。主イエスの後に続きたい者、即ち、真のキリスト者(神の民)になりたい者なら、自分自身を否定し、自分の十字架を担って主イエスに従わねばならんということや。以下に真のキリスト者になる行動要件を箇条書きにして分かり易く見せよう。

①自分自身(自我)の否定
まず、多くの人間が直面する最初の関門となるのは、この自分自身(自我)の否定や。ほんまに多くの人間を見てきて思うのが、自分自身の否定がでけへん人間のなんと多いことか。「自分は正しい、間違ってない」、「誰かに縛られたくない、指図されたくない」等と思う高慢な愚か者が非常に多い。そないな者は、ほんまに滅ぶべき悪しき存在です。なぜなら、神と神の民にとって役立たずの邪魔者でしかないからや。神を認めへんとか従いたくないという不信仰者や異教徒等にまともな人は一人も居ないのが身に沁みて分かってるからや。この世には、まともぶってる人が多いというだけで、実はまったくまともではない。この世の権力者や金持ちどもがまともではない故に、悪政や暴虐がまかり通り、行政も司法も腐敗を極めてるせいで、悪人を適正に処罰せず(当局が悪人だらけ故、機能不全)、それどころか正しい指摘をしたり悪を直そうとする善人を処罰しようとする。大衆は、無責任で臆病故に黙っていて傍観者で在り続け、何も有意義な言動をせえへん凡庸なる悪であり、かような悪徳為政者や金持ちに抵抗せず従う。せやから、この世は悪人だらけで、まともな人はほぼ居らんという状況や。「この世全体が悪い者の中にある」(ヨハネ一 五章十九節拙訳)とあるとおり、聖書の教えは正しい。この事実を理解でけへん人や反抗する人は、その悪人の一員だからや。ファリサイ派の偽使徒パウロの信者どもも同じで、神が定めはった律法を不当な束縛と言い、廃止されたものと勝手に看做して神の律法を無視して違犯し(罪を犯し)続けてる悪人の分際で、キリスト者(クリスチャン)と自称して嘘を言い、その醜い本性の赴くまま悪事を働いてる。
ローマ教皇やトランプ大統領といった権力者やその他の著名人らは、「ありのままでいい」等と現状から無理して変わらなくてもいい、今のままでいいという愚かな人間の承認欲求を満たしたり認める旨の発言をしてきた。しかし、これは明らかに人間のことを思った発言であり、神のことを思った発言ではない。上述したとおりで、主イエスは、神のことを思わず人間のことを思った言動を容認しはらず、もしすれば「引っ込め、サタン」と言わはる程にお怒りになるからや。聖書を読めば明らかに分かるとおり、マラキ書の預言どおり、主イエスの初臨前に預言者エリヤの働きをした洗礼者ヨハネは悔い改めを説き(マタイ三章一節〜二節)、洗礼者ヨハネが領主ヘロデによって不当に拘束されて伝道でけへんようになってから彼と入れ替わるように、主イエスもまた同じく悔い改めを説いて回りはった(マタイ四章十七節)。正しい者は、人間が悔い改めをしなければならない程に悪い存在であることを理解し、それ故に悔い改めの努力を行う。逆に言えば、悔い改めをせえへん人は、それが理解出来ぬ愚かで悪い者と言える。なお、悔い改めについては前回記事「救いの序列と弁える謙虚さ」をはじめ多くの過去記事で宣べ伝えてきたとおりで、ありのままという現状維持ではあかんのは明白や。主イエス・キリストを信じて、神の律法を守り、不信仰の時の生活様式や生き方をやめて改善せねばならんのや。それをせずに、今まで通りでええとか、ありのままでいいなんて反キリスト発言でしかあらへん。こないな甘言に惑わされたらあかんし、自分自身を甘やかして悔い改めへん怠惰な者もあかんし、周囲の人間と異なることを恐れて変えへんという臆病者でもあかん。悔い改めを拒絶する人は、自分は変わらなくてもいい位に完璧だと言うてるようなもんであり、非常に傲岸不遜であり、厚顔無恥でもある。神の目から見たら汚い大罪人でしかあらへんのに、直す所が無い程に完璧と思ってるんか。ほんまに不信仰者や異教徒等の品性や性格は酷過ぎる。

②自分の十字架を担って主イエスに従う
世の諸教会(カトリック、正教会、プロテスタント等)は、アホみたいに十字架をキリスト教の象徴かのように用いており、また、それを見て大衆は同じように思う。しかし、それは非常に愚かであり、勘違いでしかあらへんことは拙者の記事を読めば分かる。そもそも、神の律法では偶像崇拝を禁じており、偶像を造ることも禁じられてる。それ故、人形なんてものは論外であかんし、十字架をキリストの象徴かのように思って首飾りにしたり、ピアスにしたり、ロザリオなんていう数珠のような物もすべて偶像であり、それらを身に着けるのはやめるべきであるし、造ることも販売することも大罪である。何遍も拙者が警告したとおり、世の諸教会や諸教派なんてのは金目当てのカルト宗教でしかなく、聖書を悪用だけはするが、聖書の教えにまったく従順やないどころか違反しまくり、ファリサイ派のパウロ教信者だらけや。せやから、彼らがする事はすべて悪事なのもまったく不思議ではない。欧州では、教会税なんてものもあり、カトリック、正教会、プロテスタント等の信者ならば、税金を納めさせられ、彼らの懐に入る。要するに、世の諸教会(カトリック、正教会、プロテスタント等)は金目当てであることは明白や。偽使徒パウロが異教徒だらけのローマに迎合して導入した日曜礼拝という反聖書的で太陽神崇拝の異教由来な習慣を行い、献金と称して信者から金銭を巻き上げ、自称聖職者が信者と不適切な性的関係を持ったり、信者同士でも同じように不適切な関係を持ったり等と不祥事に事欠かへんのも彼らが悪人の集団やからや。せやから、拙者は世の諸教会に行くのも所属するのもやめとけ、もし既に所属してるならすぐに離れろと言うてるんや。主イエスも、黙示録十八章四節にて悪しき教会から離れ、その罪に加わらず、巻き込まれへんようにせいと同じ事を言うてはる。それなのに、理解でけへん愚か者や意地を張って離れようとせえへん頑固な愚か者も多い。しかし、その反抗の代償はあまりにも大きいものになろう。
さて、聖句の本題は、自分の十字架を担うとは、これは主イエスの十字架刑の史実から分かることや。史実では、主イエスは無実でありながら不当に死刑宣告を受け、鞭打ちを受け、十字架を担いで処刑場まで歩かされた。十字架は死刑の刑具で忌まわしい物であり、キリストを死に追いやった十字架なんかを崇めるとか、キリストの象徴だとか、キリストの代わりに大事にするなんて思うのは反キリストの悪人です。その十字架を担うのは、どういう状況か。史実のとおり、死刑に処されに行くという状況です。つまり、主イエスが経験したように、真のキリスト者も世の権威によって不当に処刑される覚悟を持って主イエスに従えということです。使徒ペトロや使徒ヨハネが言うた(ペトロ一 二章二十一節、ヨハネ一 二章六節)とおり、真のキリスト者は主イエスを模範とし、主イエスが歩みはったようにキリスト者も歩まないかん。つまり、真のキリスト者は主イエスと同じような軌跡を辿るのが本懐を遂げるということになります。しかし、その最期だけ気にするのは間違いで、それに至るまでの過程、即ち、生き方や何をしたかという実績こそが大事で、それらが主イエスと同じような事(自分自身が悔い改め、かつ、他人にもそう勧めたり、パウロ教のような間違いの教義を弾劾して正す、福音伝道をする、慈愛あるええ行いをする等)をしてへんのなら、たとえ殉教しても神が評価しはるかは不明です。そもそも、その覚悟が無い者やその覚悟を持って生きてへん者は真のキリスト者ではない、神の民の候補でもない。当然、臆病者や怠惰な無能なんてのはあかんのや。そんな人らは、永遠の命にも天国にも相応しないし、地獄行きになることも既に主イエスが教えてはるさかい。なんとなく軽い気持ちとか、趣味とか、その程度で思てるような人は無理です。
主イエスは何の罪も無いのに、ユダヤ教のファリサイ派、長老、祭司長、律法学者等の妬みと策謀によって罪をでっち上げられ、大いなる苦しみを受け、十字架刑という残酷な死刑の刑罰までも受忍しはった。ローマ人の総督ピラトは主イエスが無罪と知りつつ、彼が担当する植民地民であるユダヤ人からの支持と総督として暴動や反乱といった問題を起こさずに統治したという実績作りとローマ帝国本国からの評価を気にしたが故に、主イエスを無罪放免にせず、死刑を容認した。結局は、ユダヤ教徒らも総督ピラトも自分たちのことしか考えへん利己主義者やった。もし神を本気で畏れてるなら、無罪の人を死刑にするなんて悪行を断じてせえへん筈やからや。無罪の人を死刑にして罪人扱いした上に命まで奪うなんて、ほんまにとんでもない極悪人やで。これは現代でも同じで、冤罪や無罪で投獄されたり死刑にされた人はなんぼでも居る。ほんまにそれに関わった人(警察、検察、裁判官、法務大臣、刑務官、報道機関等)も他人事に思てる庶民もとんでもない悪人や。ほんまに、悔い改めへん者どもは全員、地獄行きになるさかい、不信仰者や異教徒等は呑気にしてる場合やないで。世の権威信者の愚か者どもは、この世の当局(悪)の裁きを正義と勘違いし、不当にも死刑囚や受刑者にさせられた人をゴキブリでも見るかのように見て、罵詈雑言を浴びせるが、何も事情も知らんくせにかような態度をしたり暴言を吐くような輩は、自分自身が大罪人であるのを棚に上げた厚顔無恥な存在や。ダニエル書十二章二節のとおり、大艱難期末期に起こるキリストの再臨時、この世が滅ぼされる時、立場が逆転することを知っておきなはれ。悪魔崇拝者の支配層や不信仰者や異教徒等がいい気になっていられる時間はもう残り少ないで。

③主イエスと福音のためにこの世の命を失って永遠の命を得る
上記聖句で明確に「我と福音のために自分の命を失った者、その者はそれ(命)を救うだろう。」とあるとおりで、過去記事「聖書の終末預言 一」で紹介したとおり、主イエスの終末預言のとおり、真のキリスト者となって主イエスと福音のために尽力し、世の権威や大衆に嫌われ、最悪の場合は殺されてこの世の命を失うことになろうが、それは悲観すべき事やのうて、永遠の命に繋がるんやからむしろ喜ぶべき事や。迫害されることを喜ぶようにとも別の聖句で書かれてるとおりや。それは神の民になるのにどんどん近付いてる証であるからや。但し、ほんまに悪い行い(殺人や強盗等)をして当局から処罰されてるのに、真のキリスト者だから捕まったとか有罪にされた等と思い込むのは勘違いやさかい、それは違う。正しい事をしてて、正しいが故に疎まれ、嫌われ、彼らが排除するという悪しき目的によって逮捕や有罪判決を受ける等になれば、それは喜ばしい事です。せやから、当局に目を付けられへんようにと隠れてばかりで伝道もせえへんとか、その他キリスト者としての務めを怠るようなら、それは臆病になって保身に走ってるのであり、そないな者は救われることは難しいだろう。なぜなら、主イエスは「自分の命を救おうと思う者は、それを失うだろう」と教えてはるからや。これは自分自身を守る言動をすることを意味しており、自分自身が処罰されへんように、命が助かるためにあらゆる事をするんでしょうが、そないな保身に走る臆病者は永遠の命を失うだろうとされてる。臆病者や嘘つき等は地獄行きと明確に黙示録二十章八節に書かれてるからや。保身のために嘘をついたり、保身のために伝道をせえへんかったり信仰を否定する等するなら、真のキリスト者とは言い難いし、主イエスからも認められへん。神から認められるには、主イエスを模範として神の律法を守り、伝道といったキリスト者としての務めを行い、死を怖がらへんことです。恐れは、臆病の元やからで、慈愛によって完全にされてへん証拠やからや。使徒ヨハネが「慈愛には恐れが無く、むしろ完全な慈愛は恐れを追い出す。なぜなら、恐れは罰を伴う上、恐れる者は慈愛によって完全にされてへんからや。」(ヨハネ一 四章十八節拙訳)と言うてるとおりや。そして、明確に「恐れは罰を伴う」とあり、怖がるような人は神から処罰されるということであり、悪い性格及び品性ということです。せやから、真のキリスト者ならば、完全な慈愛によって恐れを追い出し、臆病にならず、勇気ある言動をしましょう。但し、先をある程度読んで、やっても意味が無い事や無謀な行い等は避けるべきです。無鉄砲な言動をするのは勇敢とは言えず、ただの愚か者の場合があるさかい、その辺はきちんと考えた上で、どうしても一人で決断でけへん場合や判断に迷う場合は、信頼出来る信仰の兄弟等と相談した上で行動しましょう。
特に、現代社会には悪徳政府、悪徳官僚、悪徳公務員、悪徳企業経営者や従業員等と悪い者が大勢居るのに、黙って何もせえへん臆病者の庶民が多過ぎる。彼らの悪政や悪事に対して不満を持ちながらも黙って何もせえへん理由は、保身に走ってるんでしょう。臆病で怠惰な多数派に馴染んで目立ちたくない、実際に行動して当局から処罰されたくない、犯罪者扱いされたくない等と逃げ腰なんでしょう。それでは、この腐敗した史上最悪な社会はいつまで経っても良くなる訳がない。この世はかような有様が長く続いており、もはや自浄作用も感じられず、人間自身が直す気が無いようで、それなら神によって滅ぼされるしかあらへんと思てる。実際、聖書預言には人手によらないとあり、キリストの再臨時に神によってこの世は滅ぼされる。ノアの大洪水も同じように世の人間が悪人だらけやから起こった事や。それなのに、滅ぼした神が悪いとか酷い等と恨み言を言う愚か者が居るだろうが、不信仰で神に逆らう堕天使(悪魔)や人間こそが悪いんや。自分らの悪さを棚に上げて正しい者を非難するな。

四、たとえ全世界を支配しても永遠の命を失うなら無意味
上記聖句のとおり、主イエスは「ほんまに、もし全世界を手に入れて、自分の命を失われされたなら、人に何の益をもたらすだろうか。又は、人は、自分の命の代わりに何を差し出すだろうか。」と言わはった。全世界を手に入れるとは、この世の支配権(権力)を獲得したり、多くの財産等を得て何不自由無く贅沢に暮らせる状態になったかて、そんな状況が永久に続く訳ではないし、人間のこの世の寿命は大体百二十年以下に限られてる。昔はもっと長く生きていたが聖書のとおり、人間の質がどんどん悪化するにつて、寿命が短くなっており、平均的には七十年〜八十年で、長くても百二十年程度に抑えられてる。それは神によって制御されてる。愚かな人間どもが超人間化(トランスヒューマニズム)等と言うて、人体が機械や人工知能と繋がったり、インターネットと繋がる、遺伝子を変えるとか編集する等と言うて、不老不死を夢見てる。しかし、そんなことは絶対に実現せえへん。今既に愚かな金持ちらが不老不死の野望を実現しようと躍起になってるが、そんな事は神が絶対に許可せえへん。この世の真相を見聞きしたことがある人ならご存知のロスチャイルド家やロックフェラー家らは非常に金持ちであり、バチカンのローマ教皇も金持ちで政治的権力を持って大いなる支配権を手に入れてた中世時代もあり、終末時代にまたローマ教皇が権力を濫用する。かように、全世界を支配する権力を持ったとしても、この世の寿命は短く、必ず死ぬ時が来る。そないな悪人どもは主イエスの教えに従わずに反逆を繰り返したため、当たり前のように死後は陰府に行き、後で地獄行きになるだろう。地獄行きになって裁きが決した時、もはや何を以てそれを覆せるのか、自分の命を助けるために身一つで何を差し出すというのか。何も無いです。ここの主イエスの御言葉は反語的な意味を持ち、この世で悪い事をしてきた人が死後に自分の命を救うために出来ることなんて何も無いんやから、死後にもはや挽回の余地は無いってことです。せやから、生きてる間に悔い改めないかんのや。一部の偽教師が言うてるような死後の二度目の機会(セカンドチャンス)なんて無い。莫大な財産があったとしても、死ぬ際は持って行けず、この世に遺産として残すだけで、死後に自分の命(魂)の代わりに差し出す物にはなりまへん。せやから、主イエスも拙者もこの世の富を蓄えるな、そんなことをしても無駄どころか救いを阻むものとして有害やと言うてるんです。主イエスの教えのとおり、この世の富を獲得することに躍起になったり、この世の財産を貯めることばかりしても無意味どころかむしろ悪い行いであり、信仰を持ってええ行いをして天に富を積むべきです。また、「金持ちが天の王国に入ることはほぼない。」(マタイ十九章二十三節拙訳)と主イエスが明言しはったとおりで、この世で金持ちである人は天国行きがほぼ有り得へんのやから、実際は不幸や。でも、しゃあないよね。なぜなら、金持ちの品性は下劣であり、利己主義者で、ケチで、自分や自分の家族や仲間だけ裕福であれば良いと考えて他人のことをまったく考えず、他人にふんだんに分け与えることもせえへん慈愛が欠如した悪しき心の持ち主なんやから。一部の金持ちや芸能人等が慈善家ぶって寄付等をやってるのを見て、彼らが善人なのだと思て騙されたらあかん。有り余る中から少々出したとて、何も偉くはないからや。それは、聖書(マルコ十二章四十一節〜四十四節)にも書かれてるとおりや。金持ちが一般人にとっては大きい額を寄付したかて、金持ちにとっては微々たるもので、有り余る中から出しただけで彼らにとってまったく負担ではない。そもそも、宗教団体や偽善団体等に寄付したとて偉くはないどころか、悪を助長するだけで逆に悪い行いや。せやから、あんなのは他人の評価を気にしただけの見せかけで、実際には何の助けにもなってへんし、多くの人々が助かったと実感することもないし、社会全体が良くなってへんからや。そもそも、彼らのような一部の人だけが儲かる仕組みや、不公正な税制(例えば、消費税)等を無くせば、皆が満遍なく豊かになるのに、それを意図的にせえへんのやから称賛には値せえへん。実際、この世の金持ちどもを見れば、彼らが如何に汚いかが分かるでしょう。例えば、ロックフェラー家一つ見ても明らかで、彼らは十九世紀から石油産業で台頭し、汚いやり方で競合他社をとことん潰し、独占的に自分らだけが金儲け出来るような仕組みを作り、医学業界や製薬業界や大学教育を支配し、連合国(UN)の出資者として彼らを操ってる。他の金持ちも表で言えへんような悪逆非道を散々行ってきて今のような地位や莫大な財産を持ってるんや。この世の金持ちは、神が許容してへん汚い事をし、罪を犯してこそ成れるものです。悪魔が受肉した主イエスを誘惑した時に「悪魔を拝むなら、富と繁栄を与えよう」(マタイ四章八節〜九節)と言うたことが明記されてることから分かる。主イエスは悪魔の誘惑を拒絶し、神のみに仕えるように律法を引用して説教しはった。せやから、人間は、金欲しさに悪魔に魂を売ったらあかんし、神を信じて神の律法を守って神に仕える者(真のキリスト者)ならなあかんのや。この世の富は悪魔の管理下にあり、金持ちは神に仕えるどころか敵対してる悪魔側の人間、即ち、サタンということです。それ故、神は金持ちの人間を退ける。金持ちにならずとも不信仰であるとか異教徒(パウロ教信者を含む)であっても救われへんけどね。せやから、永遠の命を得たいなら、主イエスの信仰を持ち、神の律法を守り、この世とこの世にあるものを愛するべきではなく、この世の財産の獲得に必死にならず、困ってる人を助けたり、信仰の兄弟と繋がりを持って交流すべきです。それらをせずに救われる道は無い。

五、主イエスや御言葉を恥じる者は、神から恥に思われる
上記聖句で、「確かに、姦通と罪深いこの時代に我と我が言葉を恥じる者は、人の子も彼の父の威厳にあって聖なる天使たちと共に来る時、その者を恥じるだろう。」と主イエスは言うてはる。これはどういうことか。姦通は二つの意味があり、一つは文字通りの不貞行為を意味し、婚外性交のことです。独身者であっても結婚せずに性行為をするのはあかん、既婚者が配偶者以外の人と性行為をするのもあかん。二つ目の意味は、神と人間との関係を婚姻関係に例えられており、人間が神の律法や契約を破って神に対して罪を犯す事(不法行為)を意味し、それを不貞行為とされてるんや。せやから、既婚者が配偶者に一途でなければならへんのと同様、人間が神に一途でなければならんということで、他の偽りの神や偶像等を崇拝してはならず、神の律法や契約を破る行いをしてはならんということや。一世紀当時で「姦通と罪深い時代」と言われてるが、これは過去だけの話やのうて、まさに現代にも当てはまる。不信仰というだけで姦通行為に該当するし、神の律法を破ってる者も非常に多いさかい。主イエスを恥じる者と主イエスの御言葉を恥じる者とは、元キリスト者でキリスト者をやめたという人が典型例でしょうかね。一旦は、聖書や救いに興味があって、聖書を読んだり、それに関する情報を見聞きしたが、元々継続性が無いという根性無しの駄目人間か、何か世俗社会において嫌な事があって「もうやめた」となって、この汚い俗世に深く浸かってる人でしょう。当ブログを読んでも離脱したような人も当てはまる。そないな輩は、「主イエスや主イエスの御言葉を恥じていない。信仰は持ってる」等と言い張るやろが、実際は恥じてるようなものです。なぜなら、正しい信仰を放棄したからや。当ブログから離脱しても信仰を持ってる等と言い張るような人は自称キリスト者でしかあらへんからや。そうでしょう。そうでないと言うなら、一体離脱後に何をしてきたのか説明してみよ。伝道等のキリスト者の義務も行わず、神の律法を守らず、主イエスの掟も守らず、世俗的な生活をしてるだけでしょう。一旦はきれいになっても(聖書を読んでキリスト者になっても)、再び汚くなる者(信仰から脱落した者)は、主イエスや御言葉を恥じた結果と言えます。もしそうでないなら、今も真のキリスト者で在り続けたであろうし、信仰から離脱することもなかったやろし、ただ自己満足してるだけの自称キリスト者に落ちぶれることもなかったやろから。せやから、継続が大事と拙者が言うてきたとおりで、聖書(黙示録や福音書)にも死(最期)まで神(主イエス)に従順であれば救われると書かれており、続かへんというのは惨めなことであり、初志貫徹でけへん嘘つきであり、かような裏切り者は神から恥に思われるだろう。
また、不信仰者も該当する。不信仰者にも色々な種類が居るだろうが、その一種に信仰に入ることを躊躇する者や信仰することを公言せえへん者や。過去に拙者が動画でも言うたとおり、この現代社会において悪魔崇拝者である支配層が聖書を宗教の書物かのように勝手に区分し、聖書を信じる者は宗教信者でちょっとおかしい人、危ない人、普通ではない人と思わせるように仕向けた。それ故、「聖書を信じてる」、「イエス・キリストを信じてる」と胸を張って言いにくいという人が少なからず居るであろう。これは、紛れもなく上記聖句で言われてるとおり、主イエスや御言葉を恥じる者に当てはまる。その自覚が無い、又は自覚があってもなお臆病風に吹かれて一歩を踏み出せへんというようでは、ほんまにあかんで。それでは救われへんからや。主イエスは、そないな臆病者、主イエスを信じてるとか聖書を信じてると言うことを恥ずかしく思うような者を救いはることはなく、聖句に書かれてるとおり、神はその者を恥じ、天国に入れへん。
逆に、神から誇りに思われる人は、真のキリスト者しか居らず、神を信じて神の律法を契約どおりに遵守し、死まで従順であれば、神に認められ、永遠の命を授かる。信仰は行いがすべてです。頭の中だけで思てるだけでは意味が無いで。服装がどうでもええとか何でもええと言いながら洋服に拘る矛盾を平気で言う愚か者、神の律法にあるうちのそないな些細な事すら守ることがでけへん者や拒絶する者は、この悪い世の中の権力者や多数派になびく人間であり、絶対に救われへん。拙者が言うてきたのは、服装という外見だけが重要という意味やないで。そう勘違いするなら、ほんまに読解力が無い愚か者や。和服、それも房を付けるようにと拙者が言うのは、神の律法にそう規定されてるからであり、そうすべき理由も律法に書かれてる。拙者の勝手な言い分ではないということをいつ理解するのか。そして、服装規定なんか早々に守って満たして、他の品性の部分等と律法に適うように自分自身を神の民に相応しくなるように矯正したり、伝道を継続したり、聖書研究をせなあかんのに、そのキリスト者になる入口にも立ってへんのではほんまに論外ですよ。拙者は自分で律法を読んで服装規定に気付いた時、すぐに転換しました。この点に時間を掛けるべき正当な理由は無い故、未だに転換してへん人はほんまにおかしい。いつまで経ってもそれを理解せえへん者や実行しようとせえへん者には明るい将来は無いで。二千十九年に過去記事「真のキリスト者に相応しい姿と信仰 前編」でも拙者が示したとおり、神は「異国の服を着るすべての者を罰する」(ゼファニヤ書一章八節参照)と明言してはるんやから、房付きの和服を着用してへん者は、地獄行きを覚悟してるということですね。随分と威勢がいいですね。それとも、神から罰せられずに逃げられるとでも思ってるのか。人間は誰でも死んで神の裁きを受けるというのに、それを免れると思うなんて愚かにも程があり、醜い現実逃避や。ほんまに高慢で、身の程知らずで、別の意味で感心しますわ。当ブログで初めて和服に言及した過去記事「もっと気楽に生きよう」は二千十八年夏であり、現時点(二千二十五年)でもう七年経過したんやから、依然として西洋かぶれをやめず、洋服を着続けるなら、その者が自らサタンであるということを身を以て示してるということです。特に、和服が本来の服装である日本人にとっては言い訳の余地はまったく無い。拙者はあんたらと違い、拙者は他の人間に教えてもろたんとちゃうからな。しかし、あんたらは、当ブログや動画のお陰で自分では気付かへんかった事を教えてもらえる、簡単に情報をくれる、それも無償で。その事に感謝すべきやのに、挑戦的に突っ掛かってくる者や陰口を叩く者が居るんですよね。ほんまにそないな者は、主イエスに挑戦したり、殺そうと狙ってたファリサイ派や律法学者どもらと同じや。自分自身を客観視しなはれ。敵対者(サタン)がしてる事は、神と神の民に敵対する行為をしてるだけで、やめへんのなら地獄行きになって然るべきです。

六、真のキリスト者は第二の死を味わうことがない
上記聖句のとおり、主イエスは群衆と十二使徒の前で、「確かにあんた方に言うとく。ここに立ってるうちの幾らかは、神の王国が力と共に来るのを見るまで、決して死を味わわへん者たちや。」と言わはった。神の王国が力と共に来るとはキリストの再臨を指すのは誰でも分かるだろう。主イエスはその少し前に「人の子も彼の父の威厳にあって聖なる天使たちと共に来る」と述べてはり、主イエスは神の威厳に満ちて天使を引き連れて来られるんや。その時まで決して死を味わわへんとは、肉体的な死(第一の死)を経験せえへんという意味ではない。なぜなら、ヘブライ九章二十七節のとおり、人間は一度は死んで神の裁きを受けると決まってるからであり、これが一般的であり、主イエス御自身も十字架刑により一度死ぬことになった。エノクとエリヤという第一の死も経験せずに済んだ人は例外でしかなく、例外を原則のように思たらあかん。せやから、人間が第一の死を経験することは珍しいことではなく、むしろ当たり前やさかい、そのことを指してるのではない。それ故、先の主イエスの御言葉が意味することは第二の死、即ち、地獄行きになって滅びることを決して味わわへんということや。そして、「ここに立ってるうちの幾らか」と主イエスは言うてはり、単数やのうて複数人や。そして、当時その場に居った人のうちの幾らかが地獄行きを免れるという意味や。その場に居合わせたんは群衆と十二使徒であり、勿論、主イエスから選ばれてへん大衆なんかが救われる筈もないんやから十二使徒を指すに決まってる。十二使徒は、主イエスが直々に選びはったさかい、彼らはきちんとキリスト道を最期まで歩み通して救われ、第二の死を味わわへんということや(裏切り者のイスカリオテのユダは除く)。大衆もその場に居合わせ、主イエスが誰かのことを指してるかを故意に明言しはらへんかった。それ故、大衆の誰かは「もしかして自分の事か」なんて愚かな事を考えた者も居ったやろな。しかし、多数派の一員でいるくせに変な期待を抱いても無駄や。自分自身が何者なのか、神との契約に照らして自分が神の要求事項を満たしてるのか判断する等と自分自身を客観視でけへん人は、ほんまに惨めや。不信仰者、異教徒、自称キリスト者が救われるなんて事は有り得へんからや。神の律法を守ってへん時点で救いは絶望的と誰でも認識せないかん。長年入手が容易で多くの言語に翻訳されてる聖書を開いて読んで、神の律法を学び、守ってへん所を直して行くとか、こないな基本的な事すらでけへん人間は神によって救われへん。パウロ教信者どもにも言うておく。ファリサイ派のパウロ教信者どもが救われるとか、携挙されて第一の死も免れるなんていう妄想を抱くのはやめなはれ。不信仰者と同じように神の律法を守らへんパウロ教信者が救われるなんて万に一つも無いさかい。救われたいなら、まずは不信仰をやめる、パウロ教信者をやめる、世の諸教会や諸教派から離れることです。それをした上で、当ブログや動画の内容を理解し、きちんとキリスト者としての義務を果たし、主イエスを介する新契約の内容を履行する必要がある。この事が理解でけへん知能が無い人や、無駄に意地を張って反抗したり、何やかんや言い訳をして実行せえへん人には希望は一切無い。
かように救われ難い悪魔崇拝者だらけの支配層や彼らに追従する大勢の人たちが、潜在的であるか明示的であるかを問わず、真のキリスト者に嫉妬したり疎ましく思い、嫌い、排斥するようになるのは必定やろな。せやから、歴史は繰り返し、悪徳為政者と凡庸なる悪の庶民はこぞって真のキリスト者を敵視して排斥する。真のキリスト者はそれを耐え忍ぶしかあらへん。理不尽な事にも耐えるのはしんどい事やが、救われるのに必要な試練と思い、頑張りましょう。一人では無理や。せやから、本気で真のキリスト者になりたいのなら、きちんと覚悟を決め、生き方をそれなりに変え、行いで証明し、こちらに申請しに来ていただきたいです。こんな腐り切った世の中やのうて、後の世で平和に暮らせることを目指す人を待っています。

この世がおかしい、悪人や悪い出来事が多過ぎるって、拙者のブログや動画を見れば嫌という程、分かるやろ。この世に期待するんはやめましょう。手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなはれ。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。
 
以上